奴隷少女と冷酷魔王の甘美な絆②
奴隷商はしぶしぶ牢の鍵を開け、デルの手枷も外した。
「大丈夫かい?」
ベレスはデルの手を取って、狭苦しい牢からデルを出してくれた。
デルはきょとんとしたまま、それに従う。
手首から落ちた血がぽたぽたと、床に血痕をつけていく。
その時、デルは信じられないものを見た。
ベレスがかしずくようにデルの前で膝を折ったのだ!
そして痛々しいデルの手首にその唇を近づけてくる。
「な、なにを……」
だが思わず出たデルのかすれた声は言葉をなさなかった。それほど衰弱しているのだ。そして次の瞬間、デルはようやく出たその吐息を、もう一度、呑み込まれることとなる。ベレスはそのまま、擦りむけて血だらけのデルの手首を。
その舌で、そっとなめたのだ。
その途端だった。なめられた手首に魔法陣が浮かび上がったのだ。ソロモン72の悪魔の1柱・魔王ブエルの印章。
ブエル。コラン・ド・プランシーによる書籍『地獄の辞典』に書かれている魔王。「星か車輪のような五本の脚を持ち、自ら転がりつつ前進する」と紹介され、挿絵ではライオンの頭の周りに5本の蹄がついたヤギの後ろ脚が円状についた異形の姿で描かれている。その権能はすべての怪我、病の回復。
「どうだ?」
デルはその衝撃で答えることができない。デルの手首の傷はみるみる完治していき、そして衰弱した肉体にも力が宿り始めているにも関わらず。何故、この魔王は私ごときにこのような行動をするのだろう。何故、魔力を大きく使う他の魔王の権能を使うのだろう。
ベレスはデルを立たせると自らが羽織っていたローブをその肩からかけた。そして奴隷商にこう告げる。
「もし、ゼウスがお前を見つけることがあればこう言えばよい。ベレスに脅された、と。文句があるなら私に直接言って来い、と」
「あ、あわ、あわ……」
「まあ、せいぜいうまく逃げ回ることだな」
そこへキラキラと雨のように宝石や金貨が降ってきた。ガラガラ、ガシャガシャという金品の雪崩の音とともに、奴隷商はあっという間にその山の下に沈んでいった──。
※ ※ ※
魔王ベレスの城は幽世の果てにあった。ここに来てから数ヶ月が経つ。ベレスは冷酷で残虐な地獄の大王と聞かされていた。だが今のところ、何かひどい目に遭ったということはない。
寧ろ、逆だった。デルはそこで礼儀作法や悪魔学、神学などを徹底的に教え込まれた。得意である槍を持つことも許され、その鍛錬に励むこともできた。
デルの教えにあたったのはセイレーンという魔物だ。美しい青い長髪に海の色のような瞳を持った女性の姿をしており、ベレスの片腕、側近であるようだった。
「デル。今日は北欧神話のここからここまでを暗記しなさい」
「ここから……ここまで?」
「ベレスさまの従者として当然! 実際に神々に会った際にベレスさまに恥をかかせないようにしなければなりません」
「……わかりました」
さすが魔界のプリンスと呼ばれるベレスの城。広く大きく、手入れは行き届き、デルは贅の限りを持って扱われた。いつしかその無尽蔵の体力も完全に回復し、言葉遣いも昔よりはるかに丁寧になった。そして果てしない知識と果てしない強さを身に着けていった──。
その一方で、デルを買い、教育を施した当の張本人ベレスは。
(なんて冷たい……)
デルが廊下で声をかけても。用を頼まれ、執務室へ入っても。
まったくの無言であり、デルに一言も言葉をかけることはなかった。
やはり、魔王は魔王なのだろう。恐怖の存在は恐怖そのものなのだろう。
しかし、デルは自分が嫌われているのではないかということに無性に不安を感じていた。
ゼウスへの半目のリスク、そして唸るような大金を使って手に入れたのに。
「なんて出来の悪いやつだ」と呆れられているのかもしれない。
それゆえ、必死でさまざまなことを身に着けた。
ベレスさまのお力になれるよう。
ベレスさまに認めていただけるよう。
ベレスさまに。
せめて一言、声をかけてもらえるよう──。
いつしかデルは、85軍団の1軍団を率いるまでに成長した。肉体は人間でいう10代前半の少女のままだが、その強さは85軍団中、随一と言われるまでに鍛え上げられていた。
だが、そんなあり得ない幸福な日常は、あっさりと壊された。
魔界の街を見下ろす城の最上階。厚い窓ガラスにパーティーの終わった部屋が映っている。今夜はさまざまな神話の神々をもてなす催しが行われていた。北欧神話のトールやロキ、中国からはセイテンタイセイ・孫悟空、日本からはスサノオノミコト、タケミカヅチ、インドからはシヴァとブラフマー。
この幽世は『ミス・ヴァース』。すなわち、数々の神話はその境なく繋がっていた。そして今晩は神話の枠を超えて、多くの神々が魔王ベレスのもてなしを受けた。
もっとも、そこでもベレスは言葉一つ発さなかった。すべてセイレーンに任せきりだった。
悪魔という身の上ながら、神々とも交流が深いというのが魔王ベレスの不可思議さだ。そこに一声も発さないという行為。それはその正体をさらに謎めかし、さらに好奇心という魔女の手のひらに包まれているようだった。
デルは窓際に立って魔界のふたつの月を眺めた。雨が降り始めた。雨は月の光を受け、銀色の針になって輝いた。その身は給仕のためもありメイド服に包まれていた。地水火風の精霊の加護を受けた特注のメイド服。身につけた者の能力を高め、そしてさまざまな攻撃を跳ね返す魔法の戦闘具だ。
何百匹の猫をかたどった氷の彫刻は全部溶けた。デルはこの宴で、無言を貫き通していたベレスの顔や匂いを思い出した。
あの奴隷小屋で感じたベレスの舌のぬくもりは、慈愛に満ちあふれていた。元々、デルを飼っていたテュポーンからも感じたことのない優しい空気がデルを包んでくれた。
その記憶が、デルに涙を流させた。あたたかな涙の感触を頬に感じながらデルは思った。どうしてあの人は、あれから一言も言葉を発さなくなったのだろう。どうして「デル、よくやった」と褒めてくれないのだろう。
水滴が転がる厚いガラスが、まるで自分を閉じ込める冷たい壁のようだった。それは自分とベレスとを遮断する壁にも感じられた。悲しくなった。孤独だった。愛おしく思った。涙はあとからあとから溢れ出し止まらなかった。
ゆえにデルは気づかなかった。背後にもやが現れ、それがついには実体化したことを──!
※ ※ ※
気づくとデルは自分が水の中にいることがわかった。着ていたメイド服は脱がされ、全裸で、両腕を頭上で縛られて吊るされた状態になっていた。
半人半竜であるデルは水の中でも呼吸が出来る。そのデルを閉じ込めた円錐形の水槽を見る青年の姿があった。その青年は竪琴を抱え、豪華なソファーの上に寝そべり音楽を奏でている。
「ようやくお目覚めかい? デルピュネー。探したよ」
この人は……!
──アポロン!
がぼっとデルの口から大きな泡が吐き出された。
そう。太陽神・アポロンだった。
ゼウスの子であり、オリンポス12柱の神の筆頭。詩歌や音楽など芸能の神で、太陽の守護者。
アポロンの性格は理性的であるとともに、人間を地上に向かって放った矢から広がる疫病で虐殺したり、音楽の腕を競う賭けでサテュロスの1人マルシュアースを生きたまま全身の皮膚を剥いで殺すなどの冷酷さ、残忍さも併せ持っている。
そしてかつて、デルに執拗な拷問をした1柱だ。
忘れるはずもない。
「そうか。覚えているか。あの時はいい声で鳴いてくれたね。ダメだよデルピュネー。ゼウスの親父の命に背いて奴隷小屋を出ちゃ」
「何故あなたが! ここはどこですか!」
「オリンポスの地下。僕の秘密の隠れ家さ」
「わたくしをどうするおつもりですか」
「どうもこうもない。元々お前は我らがものだったのだ。それを単に取り返しただけのこと。なあに、簡単だったさ。魔王ベレスを蝕む親父の呪いは2つの月が満月である今が最高値。悪魔のくせに神々との交流を図る、不届きなプリンスさまとやらですら、ゼウスの呪いで大きくその力を失う」
「ゼウスさまの、呪い……?」
アポロンは抱えていた竪琴をソファーに置いて立ち上がった。それからゆっくりとデルが入れられている水槽へと近づいてきた。
「ああ、そうさ。お前が奴隷小屋から出たら発動する呪い。ヤツめ。涼しい顔をしているようだが、実のところは死ぬほどの激痛が常に肉体を蝕んでいたはずだ。……やせ我慢だけは得意なようだな」
「何故そんなことを!」
「何故も何もない。親父に背いたんだ。それは当たり前のことだろうよ。聴覚、視覚、五感。ゼウスが奪ったのはそれだけではない。ヤツが発する言葉も盗んだ」
「言葉も……」
そういうことだったのか。




