奴隷少女と冷酷魔王の甘美な絆①
私は捕らえられてしまった──。
でも、冷酷な魔王であるはずのあなたが……。
奴隷小屋から私を救い出してくれて
そして私は溺れていく……。
あなたの底しれぬ愛のもとへ。
――「地獄」だ。今いるこの場所が言葉通り、「地獄」なんだ……。
幽世の奴隷小屋の檻の中でデルはそう思う。
売り飛ばされたのだ。
ギリシア神話最高神・ゼウスとの戦いに破れ、今、私はこんなところで辱められている。
10代前半の少女の姿に、ゆるふわの長い銀髪。
エメラルドグリーンの美しい瞳。
それでいて高名な槍使い。
名は「デルピュネー」という。半人半竜の一族の末裔だ。
かつてはギリシア神話最強の怪物・テュポーンの信頼厚く、重要な任に就いていた。それがいまや、魔界の奴隷小屋の展示品。彼女の強大な力を封じる特別にあしらえられた手枷が手首にはめられ、重い鎖でつながれている。
ジャラ……。
重い手枷が、デルの白いやわ肌をうっ血させている。多くの擦り傷やあざ。その傷から一筋の真っ赤な血が冷たい牢の床へと、滴り落ちた。
デルが任されていたのはコーリュキオン洞窟の番人であった。ゼウスとデルの飼い主である強大な魔物・テュポーン。星々に頭が摩するほどの巨体を持つテュポーンはその戦いで見事、勝利を収めた。ゼウスの雷とテュポーンの火炎による熱で大地は炎上した。天と海は激しく振動した。戦利品としてテュポーンはゼウスの手足の腱を切り落として奪った。それを隠した場所がコーリュキオンの洞窟。デルはそこの護り手であった。
だが失敗した。
騙されたのだ。ゼウスの使いであり、旅人の守護神であるヘルメスと、羊使いと羊を監視する神・パンに。まんまとデルはゼウスの手足の腱を奪われてしまった。
復活したゼウスは次の戦いでテュポーンをエトナ火山の下敷きにし、リベンジを果たした。敗走の兵であったこの幼い少女の姿をしたデルはオリンポスの神々に捕らえられてしまった。
失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。
──私は、失敗した。
何百年もの間、デルは神々から悲惨な拷問を受けた。意識を失うような痛みを何度も味わった。そして今、この埃臭い奴隷小屋にいる。
あの戦いからもう何百年……。食事はもう何十年も与えられていない。
聞いた話では、ここで奴隷として買われた者たちの末路は悲惨だった。新たな魔術の実験体となる者。何度も治癒魔術をかけられ、死ぬことすら許されず、永遠に苦痛を味わう者。性奴隷として大勢に奉仕させられ、嬲り者にされた者。手足を切り落とされ、見世物として永遠に客間に飾り付けられた者。
私はどうなるのだろうか……。デルはゼウスに逆らった見せしめとしてこの穴蔵に送り込まれた。つまり売り物ではなく、“展示品”。買われることも、ここから出されることもなく、私はこのみすぼらしい姿を、奴隷買いをする下衆な輩にさらし続けられるんだ。
逆らう気力も恥じる胆力も、もうとうに失せた。
そんな、ある日のことだった。
「なかなかの掘り出し物があるんですよ」という奴隷商の珍しくはしゃいだ声を聞いた。
「どんな奴隷だ」
その声はひどく落ち着いてデルの耳を響かせた。
「そりゃあもう! いい悲鳴を上げるヤツもいりゃあ、絶望の淵に沈んだ美女もおります。なんなら不死の呪いを受けて、どんな重労働でも耐えられる強靭な魔物もおりまっさ」
「ほう」
「魔王さまクラスとなればとっておきの高級品もご用意できまさあ。奥の特別室へ行きますか?」
「……。とにかく見せてもらおう」
「当然、当然、ごゆるりと! まさかこんな場所に魔王ベレスさまがいらっしゃるとは、あたしゃ、思いもせんかったですからにして!」
──魔王ベレス……!!
デルの瞳がわずかに反応する。その名に聞き覚えがあったからだ。
地獄の85軍団を従える怒りの大王。ソロモン王が封じたという72の悪魔達の頭領であり、残虐で極悪な魔王。魔界随一の力の持ち主であり、怒らせたら何をされるかわからぬ恐怖の君主。あの魔界の王・サタンでさえ彼には一目置いているとされる冷酷な悪魔。
その名が確か、魔王ベレス。デルが怯えるのも当然の道理だった。
「コレなんてお勧めでございます! 美しい容姿もさながら、あらゆる男を快楽に導くサキュバス! 戦闘に使うのもよし、体を売らせるもよし!」
「ふむ……」
「お気に召しませんか? ならコイツはどうです。ミノタウロスのはぐれ子ですが、その体力は無尽蔵。強力な下僕となりますし、死ぬまで働かせ続けること請け合い! お値段は少々張りますが……」
「この牢の少女はどうだ」
ぬっと魔王がデルの檻の中を覗き込んだ。デルは顔を上げる気力もない。だがエメラルドグリーンの瞳に入る。それは端正な顔立ちをしていた。長めの黒い前髪がサラリと流れ、目も疑うほどの美しい黄金色の瞳が覗いた。その妖艶さは逆に人々に恐怖を与えるような類のものだった。悪魔をもその虜にするような……。
切れ長な目がそれをさらに強固にしていた。そこにいるだけで、その場の空気が凍りつくような妖しい美しさ。地獄に花とはこのことだ。
いや。“地獄の花”、か──。
「見たところ、かなりの者のように感じ取れるが」
「いや、いやいやいやいや! そいつぁ、いくら魔王さまでもお売りできません!」
奴隷商はあわあわと慌てながら必死で両手のひらをぶんぶんと振った。
「こいつは売りもんじゃないんでさ。ゼウスさまからあっしがこっぴどく叱られてしまいます。こいつは見せもんなんでさ。かつてのテュポーンの戦いにゼウスさまが勝利した証としてここに送られたんです」
「テュポーンの?」
「さらに言えば、こいつはとっくに感情が死んでおります。ここに来ても何度か拷問を受けさせましたが、可愛くないことに悲鳴どころか表情一つ動かしません。戦に敗けた者の末路でさあ。ここにたどり着くまでにオリンポスの神々から、あっしどころじゃない酷い拷問を何度も受けたようですから。もし売れたとしても……もう使い物になりゃあしません」
奴隷商が臭い息でまくしたてる。その間もデルは魔王ベレスの視線を浴び続けていた。すでに身動きする力なんて残っていない。だがその視線には不思議と魅了される。魔王の金色の瞳がデルの華奢な肉体のあちこちに注がれた。身につけた衣服ももうボロボロだ。あちこちが破け、見るも無惨な姿。ああ、私はこの悪魔に殺されるんだ……。そんな言葉を思い浮かべながらもデルの心はゾクゾクと不可思議な恐怖を感じていた。
「それでいて、その槍の能力と力は魔界随一とも言われている。こうなったとしても、下手にあの手枷を外したらどれだけ大暴れするかわからんじゃじゃ馬でしてね。魔王さまにはもっと従順で、いたぶりがいのある奴隷がわんさかいま……」
「この娘の名は何という」
「いやですから、コレは見展示品で、売り物じゃ」
「名前だ!」
奴隷商は目をまんまるにして、それからペタンと腰を抜かした。
「名を聞いている!!」
その叱責に奴隷商は「ひええええ」と尻ごと後ずさった。声ががたがたと震える。
「デルピュネー……。ギリシア神話の……」
「デルピュネー?」
魔王ベレスの冷表情にピクリと反応があった。どうやらデルのことを知っているようだった。
「あのコーリュキオンの番人だった者か」
「へえ。ゼウスさまの仇敵だったテュポーンさま。その配下でやす」
「デルピュネー。……そうか。君があの、“失われし槍の護り人”と誉れ高い者。まさかこんな幼い少女の姿をしていたとは」
ベレスは再び、デルのエメラルドグリーンの瞳を覗き込んだ。
一方のデルは驚いていた。何故ならば。この冷酷と噂の強大なこの魔王の言葉に、思わぬぬくもりを感じてしまったからだ。
これは一体──。
「魔王さま、まさかこの娘を……!? あなたさまもゼウスさまから殺されますぞ」
「ゼウスなどどうでも良い」
「ですが、さすがにオリンポス12柱を敵に回すなど……」
「どうでも良いと言っている!」
ベレスは蔑んだ目で奴隷商を見下ろす。
「ゼウスが何か言ってくるようだったら、私の城に来いと言ってやれ」
「そんな。でもあっしがコレを売ったとなるとあっしの命もどうなることやら」
「逃げればいい」
「そんな」
「ここにある奴隷。全部、私が買ってやる。その上で、お前にはゼウスには絶対に見つからぬ場所へと行ける金も出す。永遠に遊んで暮らせる金だ。文句はなかろう」
「いやしかし……」
「わからぬのか?」
ベレスは腰を落として、驚くほど冷たい目で奴隷商の目を真ん前から見据えた。その頬に、自らの手を起きながら。
「この娘を私に売らなければ、私が、お前を殺すと言っている」
「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
その奴隷小屋にいる者すべてが強い恐怖に体を震わせた。




