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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第一章 サバト編~その愛は、死を招く

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第59話 ごめんね

第59話


挿絵(By みてみん)

水城市を訪れるフェリー

【撮影】愛媛県八幡浜市・愛宕山中腹からの景色。星見山のモデルとなっている愛宕山はその山肌の1/3ほどを墓地で覆われている。




 入道雲が、海の地平を押し上げるようにもくもくと湧き上がっていた。


 その白さの向こうから、海鳥の声が、遠くほどけて届く。


 港へ向かう路線バスが停まり、学生や老人が、夏の光へ溶けるように乗り降りしていく。


 学生たちは夏服へと衣替えしていた。


 制服のスカートから伸びる、日に焼けた、健康的な脚の往来のすぐ傍で。


 野良猫がひとつあくびをして、夏の影へ戻っていった。


 ◆   ◆   ◆


 あの夜から、北藤翔太はほとんど一ヶ月──季節がひとつ変わるほどのあいだ、静かに眠り続けていた。


 梅雨が去り、紫陽花あじさいが散って夏が訪れ。


 海はますますその青さを。


 山や森はますますその緑を深めている。


 水城市立病院の白い天井の下で、翔太がひと月ぶりに瞼を上げた時──

 最初に輪郭として結ばれたのは、デルピュネーの顔だった。


「おはようございます。翔太さま」


 にっこりと微笑むデルピュネーは珍しく、その口元はかすかに震えていた。

 ほんのひとしずく残った安堵が、まだ消えずにいるようだった。

 そこに、ごくごく薄い涙の名残のようなものが重なって見えた。


「翔太さまは一ヶ月以上も、お眠りになっていたのですよ」


 という言葉にも驚いた。


 翔太には、“あの夜”の記憶が途中で途切れている。

 まるで、誰かがそっと手を添えて、闇のほうへ隠してしまったかのように。


 美優を助けるために栗落花淳つゆりじゅんに呼び出された諏訪崎すわざきへと赴き、そして変貌してしまっていた栗落花と闘った。


 その後が曖昧だ。


 病室にデルピュネーと共にいた成宮蒼なりみやそうの話では、翔太は美優と共に、バフォメットという悪魔に拐われ、固有結界に閉じ込められたのだと言う。


 完全に魔力を遮断した隠匿いんとく用の固有結界を探し出すのは蒼と言えど、困難を極めた。


 だが突然、空がひび割れ、そこから美優を抱えた翔太が姿を現した。


 この時、『カメア』が最大級の光の波動を発し、翔太の第三の目は閉じていったという。


「翔太くん。君は、自力でサバトの悪魔の結界を破って出てきた。……どうだい。体や心に、何か変なきしみは残っていないか?」


 尋ねられたが、これと言って変化はない。


 ただ、胸の奥では、ひどく澄んだ風が吹いていた。

 長く心に刺さっていた小さな棘が、そっと抜け落ちたような感覚だけが残っていた。


 だが、疑問はあった。

 その『カメア』についてだ。

 あれは、いったい何なのか。何の”お守り”なのか。


 成宮蒼こと魔王ベレスはこう言った。


「あれはね。『ソロモンの指環』なんだよ。ヘブライ語で“カメア”って言ってね、本来は『御守り』の意味なんだ」


魔王たちを封じ、使役できる特別な指環。

ソロモンとは、古代イスラエルの王・ダビデの息子であり、第三代目の王にあたる。

ソロモン王は、この指環により、72柱の魔王を封印し、使役したと言われている。


「だけどね。その『ソロモンの指環』を、僕はある手段によって、我が宝とした。今、君に言えるのは、あれは神であれ悪魔であれ。つまり『リリン』たちを感知する能力を持つこと。そして君の中に眠る『けもの』を抑制する力があること──もっとも、『獣』の力はこれぐらいの封印、破ることもあるけれどね」


 翔太は、まるで何かの呪文のようにその言葉を聞いていた。

 要は、これを身に着けておくことは、自分の身を守るために重要だということだけ理解した。


 空は青い。

 夏が来ようとしている。

 驚くほど、今の心は穏やかだった。

 その穏やかさが、彼がもっとも大切に想う人の名を心で囁きかけた。

 翔太は言う。


「……そうだ、美優は……っ!」

「無事でございますよ、翔太さま」


 ベレスの代わりに、デルピュネーが答えた。


「翔太さまのお目覚めをお伝えするため、先ほど、シャパリュさまが、美優さまを呼びに行かれたところでございます」


 ◆   ◆   ◆


 海野美優は、ひとり、墓の前に立っていた。


 苔むした墓石に刻まれた名は──


 『栗落花家』。


 栗落花淳に他の身寄りがないせいか、墓は手入れもされず、季節の荒れにまかせられていた。

 きれいに晴れた夏空の下で、そこだけが時間から取り残された場所のように見えた。


 教師が訪れた栗落花家のキッチンには、おびただしい血痕が残されていた。

 それは三人分以上と推測され──、

 そこに淳と母の姿は、もうどこにもなかった。


 栗落花淳の行方も、その母の行方も、未だ、足取りが追えていない。


 ザザザっと木々を海から来る突風があおり、美優の長い艷やかな黒髪もさらっていった。


 その風の向こうに、夏の匂いがかすかに混じっていた。


 美優はその風の来たもとを見る。


 星見山ほしみやまの斜面にあるこの墓地からは、水城市の街並みも、陽を受けてきらめく水城湾も、すべて見渡せた。


 まさかその海から『濃霧』が押し寄せ、『ゴースト』などという化け物が現れる場とは思えないほどの澄んだ景色だ。


 美優はそっと膝を折り、しゃがみ込んだ。


 ナップサックから小さなスコップを取り出し、

 墓石の傍らの土に、静かに刃を入れる。


 ザクッ


   ザクッ

  

      ザクッ


 土の匂いが、夏の湿りをふくんで立ちのぼった。


 額から落ちた汗も、同じ匂いに混ざっていく。


 そんな美優の脳裏に、あの記憶が蘇っていた。


 大山羊の悪魔に食べられそうになったあの時──


 大山羊の顎から、美優を必死に引き離そうと伸ばされた栗落花淳の“手”。

 ひどく震えていて、弱くて、それでも確かに自分へ向けられていた“手”。


 意識のない中、あれは、美優を助けようとしてくれていたのではないか。


 栗落花淳の塵になった肉体が、はらはらと、

 美優のまつ毛のすぐ前をかすめて散っていった瞬間。


『海野さん……ごめんね』

 

 そんな声を美優は聞いた気がした。


 ◆   ◆   ◆


 この街では、他では信じられないような“怪異”が起こる。


 国際魔術会議ユニマコンが『カスケード』と呼ぶ、『濃霧現象』。


 その『濃霧』の中に潜む、その街に住む人そっくりの姿をした化け物『ゴースト』。


 さらに『濃霧』は、それ以外の“怪異”をも運び、今回は大山羊の頭を持つ化け物らも、この水城市にやってきた。


「あの大山羊の悪魔は、バフォメットと言う。サバトなどの主神として祀られる者で、悪魔信仰者や魔女たちの間では名前が知られた悪魔だ。それを呼び出したのが、おそらく栗落花淳だろう。だから『カスケード』は起こった。栗落花淳はバフォメットを使役しようとしたが、逆に取り込まれてしまった。つまり、悪魔に“取り憑かれた”。彼の肉体や精神が変化したのも、すべてそれが原因だろう」


 成宮蒼なりみやそうは、美優にそう教えてくれた。


 翔太を、車で、あの多目的広場から病院に連れて行ってくれたのも成宮蒼なりみやそうだ。


 その車の中で、美優は聞いた。翔太の額に現れた“第三の目”は何なのか。その瞳に刻まれた、“666”の紋様は何なのか。そして。


 翔太の、驚くほどの、あの“力”は──?


 彼女の体には秘術師の血が流れており、国際魔術会議ユニマコンでも『マグス』の一人として名簿に載っている。


 その“血”が。


 美優の中にもある、何かしらの“力”が。


 翔太の“第三の瞳”に、驚異と畏怖を感じた。


 成宮蒼なりみやそうは黙っていた。分からないのか、回答を控えているのか、無視しているのか。


 だがこの人は味方だと、美優の本能が告げていた。


 ──あの日、あの後。


 栗落花淳つゆりじゅんが“塵”へと帰してしまった、そのすぐ後。


 翔太の胸にあった“何か”が、強烈な光を発した。それは『カメア』だった。


「ヘブライ語で『御守り』っていう意味があるんだ」と、成宮蒼が淡々と語っていた、小さな指環。


 チェーンでネックレスにしていたその“それ”が、祈りのような光を周囲に撒き散らした。


 そして翔太は、目の前の闇に手をかけ、その闇を力負かせに切り開いた。


 バフォメットの固有結界。


 それを、いともたやすく破ったのだ。この世のすべての摂理も常識も覆す力……


 そして翔太が美優に手を伸ばす。


 美優の体は、ふわふわと宙に浮いて翔太のもとへと近づいた。


 下方には、肉が弾け、臓物をさらした小人たちの血の海。


 美優は、まだ、この固有結界内に、栗落花淳の“塵”が舞っているような気がして、両手で宙をかき寄せた。


 その右手の人差し指に。


 黒い、小さな、灰のような物質が、ふ、と残った。


『海野さん……ごめんね』


 その欠片が、そう、言った気がしたのだ。


 再び美優の目から涙が溢れ出した。


 とめどなく、とめどなく。


 翔太の腕に抱かれながら。


 ◆   ◆   ◆


 美優はスコップで土を掘り続ける。


 美優の頬を汗がつたい、それが雑草まみれの地面へと、ぽつりと落ちた。


「理解できないなぁ、僕は」


 背後で怪猫かいびょうシャパリュの声がした。


「だって、彼は君を襲った存在じゃないか。どうして、そこまでしてやろうとするんだい?」


 そんなシャパリュの声を、美優は無視する。


「こういうのも“愛”って言うのかな。君は、あの栗落花淳つゆりじゅんという存在を好きだったのかい?」

「そんなんじゃないわ」


 と美優は答えた。


「でも、けじめ、よ」

「好きでもないなら、なおさら僕には訳が分からないよ」


 そして、シャパリュは美優に顔を寄せた。


「ま、所詮しょせん、山猫の化け物である僕には、人間たちの気持ちは理解し難いってことなのかな」


 じっと美優を見るシャパリュの目。


 それを美優はちらっと見てから、ナップサックの中から小さな缶製の箱を取り出した。


 シャパリュが不思議そうに言う。


「その箱には何が入ってるんだい?」


 美優は、そっとその缶を穴の底へ置いた。

 

 金属の冷たさが手に残る。


 その余韻が消えないうちに、静かに土をかぶせ始めた。


「う~ん。僕が感じるところからすると……。何かの布。あと写真かな、これは。ビリビリに破かれた痕があるね。しっかり修復してるみたいだけど、それから……」


 美優は、黙々と、その箱を、栗落花家の墓石の横に埋めていく。


「なんだろう。すごく禍々しい、この歪な“点”は……。“魔”に侵された、なんらかの気配を感じるよ。“灰”? なのかな? 美優、これは一体なんなんだい?」


 美優のスコップを握る手がピタっと止まった。


 あの場で、塵になった者は二人。


 大山羊の悪魔。


 それから、栗落花淳──


 美優は思い出していた。


 宙を、かき集めて、そしてやっと手に入れた、たった一粒の塵。


 この塵は一体どちらの……?


 美優はじっと、埋もれかけの缶の蓋を見つめる。


 でも、私は、確かに、その言葉を、あの時に。








 聞いたんだ。








『海野さん……ごめんね』







 謝る声は小さかったのに、胸のいちばん深いところだけが強く鳴った。


 うん、そうだ。


 と、美優は思った。


 ──自分を、信じよう。


 ふと見上げた空は、何も知らない顔で、ただまぶしく青かった。


 意を決して、再び、美優は手を動かし始めた。


 缶の上にどんどん土を盛っていく。


 やがて缶は完全に埋まり、美優はそこが盛り土になるように小さな山を作った。


 そこに火をつけたお線香を添える。


 お線香から立ち上る数本の煙の筋。


 風にほどけ、夏空へ溶け、また細い糸のように結び直される。


 美優は手を合わせた。

 

「まあ、いいけどさ」


 シャパリュは、そんな美優の背後で、宙に浮いたまま軽く宙返りしてウインクした。


「そうそう。今は、お知らせを伝えに来たんだった」

「何よ」

「そうそう邪険な言い方をしないでおくれよ。君にとっては、お待ちかねの情報だ」


 シャパリュが、猫のくせに生意気にも、それが笑顔と分かる笑顔を見せた。


「北藤翔太が、目を覚ましたよ!」

「……!」


 ひときわ大きな風が、ザザザっと風が押し寄せた。


 その風に吹かれ、美優は髪の毛を押さえながら、スッと立ち上がる。


 髪の毛や服が風にあおられる。


 目を開けていられないほどの強い風。


 荒れ放題の墓の前に落ちていた落ち葉が、宙空へと連れ去られていった。


「今すぐ、行ってあげるといい。場所は分かるね? 市立病院の6階。一番奥の個室さ」


 美優は急いでナップサックを取った。


 一度だけ、埋めたばかりの盛り土に視線を戻し、小さく会釈をする。


 そしてその山肌にある墓地の階段を下り始める。


(翔太くん……!)


 タン


   トン


      タン



 美優の脚は、自然と弾んでいた。


 さっきまで胸の奥で重石のように沈んでいた何かが、階段を降りるたび、少しずつ軽くなっていく。


 そして、そのリズムは、これからまた新たに始まる物語の、プロローグの句読点を刻んでいた。


挿絵(By みてみん)

栗落花淳イメージ

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