第57話 届かない手
第57話
ベレスに捕らえられれば、“無辺地獄”——終わりなき死の擬死を、延々と反芻させられる。
バフォメットの恐怖は、閾値を超えた。
いまは、線をまたげばすべてが別の判定になる“境目”だ。
腹腔のさらに奥、骨盤の井戸が一度だけ鳴った。
ドクン。
息を呑むほど重い鼓動。受肉の“核”、栗落花淳の心臓が、まだ黒く働いている。
親殺しの罪を背負い、多くの人々の生命を奪い、
さらには自身を召喚するサバトの民として、あらゆる場所から人間を拉致してきた“呪い”の塊——“呪いの卵”。
“呪いの卵”の源泉は、淳の母の小指と、そのピンキーリングだ。
家系に沈殿した負債のような呪術が、指輪を中核として脈打ち続け、今もなお燦々《さんさん》と瘴気の波を発している。
(そうだ、我には、まだ十分に魔力が残っておる!)
バフォメットにはまだ策があった。目の前の男が本当に魔王ベレスだとしても使える策。
ならば。
手出しできぬ場所へ!
バフォメットの力の一つには強大な“幻術”がある。強力な固有結界能力がある。
それは、サバトの様子を、他の人間たちに見つからぬため。
静かに気づかれずに、世界を制するため。
そして何より。
その野望を邪魔されぬよう、自らの身を、自分よりはるか上位の存在からも隠すため……。
一拍、空気が砂利混じりになる。
ベレスとセイレーンの視界に、“砂を噛むようなノイズ”が走った。
「なに……?」
意外だった。
この魔王ベレス。視界をジャックされることなんて、これまでに一度もない。
そして次にベレスの目に映ったものとは。
四方八方に無数の階段が伸びていた。
重力も物理法則も無視したその建築は、あらゆる方向へと無限に広がっている。
西洋風の建物。花畑。森。牧場。
ばらばらの景色が折り重なり、同じ位相で透け合う。
“見せて”から“閉じる”。
そんな、夢の途中で目が覚めるような、不快な結界だった。
足元では、歪な姿をした妖精や蝶たちが、音もなく遊び回っている。
小さな妖精たちを見下ろしながら、ベレスは呟いた。
「幻術か」
ベレスは幻術を振りはらおうとする。だが。
「いえ、ベレスさま。それだけではございません。
これは、すでにヤツの固有結界に入れられてしまっているようです」
「結界?」
「はい。これらは幻ではなく“実体”があります。
まずあの悪魔は幻術で私たちの視界を奪い、その後、固有結界で私たちを覆った。
どうやら、魔界にすら隠していた極秘の術を、ヤツは隠し持っていたようです」
知らなかったとして、ベレスはあくまでも冷静だ。
「単純だ。脱出すればいい」
ベレスは人差し指を突き上げる。
そこに禍々しい色をした蝶が止まり、羽根を休める。
「レーンは正しいよ。確かにこれも実体はある。では、この結界、“割って”みるか」
「いえ。それが……」
セイレーンの様子がおかしい。
ベレスはその姿を見て、違和感に気づいた。
「北藤翔太はどこだ!?」
翔太の姿も消えていた。
ベレスの声が一段低い位相へ沈む。
「申し訳ありません」
セイレーンの睫が震える。
「ヤツはベレスさまと私だけに……つまり、魔界の者専用の結界を用いたようです。つまり、北藤翔太はこの結界の外に……」
「奪ったか」
セイレーンは萎縮する。
「そして、おそらく……別の結界の中に……」
やられた……。北藤翔太を刺激され、この地で『受胎』が始まることは絶対に阻止しなければならない。すでに『受胎』の条件はほぼ揃っている。だからベレスは来たのだ。──この四国の最果て。古代シュメール人が見つけた、『受胎』が起こるこの水城市に!
「分かった。とにかくいまは時間を刈る」
その瞬間、ベレスの周囲で温度が落ち、影が“二重”になる。焦りは、彼の場合、冷酷として出る。
すぐに魔力を込めた。ベレスの体がまばゆく輝く。そして。
ピシッ。
ベレスが魔界の者にも知らせてない、彼だけが知る『秘密』の力の解放。
「脱出不可」であるはずの術式。
それすらベレスは一瞬で。
あの世界が、ガラスが割れるように粉々に崩れ去った。
不可──それはベレスには可。
絶望的術式だった結界は消え失せ、
ベレスたちは、あの諏訪崎の多目的広場に戻る。
だが。
バフォメットの姿もない。海野美優の姿もない。
「バフォメット……。私も同じく、この世に長く身を置いた経験がある身。それらの魔物たちの特徴を、もっと私が早くベレスさまに伝えていれば……」
セイレーンが悔しそうに唇を噛む。
「詫びは事後だ。今すぐヤツを探す」
「はい。すぐにその結界の場を探ります!」
ベレスとセイレーンは、すぐさま、それぞれ違う方向へと飛ぶ。
ベレスの懸念。
それは。
バフォメットは、北藤翔太の魂に“反キリスト”という爆弾が埋まっていることを知らない。
『受胎』という最悪の災厄を起こす存在であることを知らない。
もし、“反キリスト”──“666の獣”のトリガーが引かれれば。
この地の『受胎』は確定遷移する。
救済と破滅が同じ扉になる瞬間——それが来る。
何としても見つけなければならない。
間に合えば止まる。
間に合わなければ、
──宇宙が沈む。
“手遅れ”はすなわち、世界の、いや全宇宙の、“滅亡”と同義となる。
◆ ◆ ◆
──その頃。
北藤翔太は、バフォメットが作った別の結界内で、目を覚ましていた。
周囲を見渡す。
青白い炎を灯す松明がいくつも壁にかけられた、広い洞窟のような場所……。
いや、洞窟壁面の松明は青白ではない。屍蝋——死体の脂肪が石けん化して固まった状態——の色だ。
それを証明するように、炎が逆向きに揺れる。
体を起こした。あちこちが痛む。
ここは、どこだ……?
そして、気づいた。
胸にネックレスとしてかけてある指環=『カメア』がこれまでとはまた違った“警戒”の波動を発していることを。
澄んだ高音で脈を刻んでいる。
——“逃げろ”ではない。
“触れるな”だ。
ここは、触れたものから壊れていく、滅びそのものの権化のような場所だ。
つまり。
先ほどまでの、あの《・・》恐怖が足元にも及ばないほどの、
本物の“終わり”に近い場所にいる──
ふいに、翔太の足元を、足首ほどの背丈の、奇妙な形をした小人たちが走り抜けた。
キャーキャー、ワーワーと、小さな声を上げながら。
小人たちは、手が三本だったり、目が一つしかなかったり、中には頭の上から脚が生えてバタバタさせているものもあった。
「……?」
それぞれ嬌声を上げながら、跳ね回る小人たち。きゃらきゃら笑いながら逆さに跳ねる。
その小人たちの上に、ぽたりと落ちてきたのは。
蛇だ。
しかも無数の。
蛇たちは、うねりながら、一方向に一斉に向かっていった。
その蛇の進む先に。
翔太は見た。
大きな丘を。
さらには、その頂。
そこにいる黒い巨大な影を。
蛇たちはその丘を登ろうとしていた。
逆に、足首サイズの小人たちは、その丘から駆け下りてきていた。
そして上からは。
ウオォォォォォォォォォォォォォォォォォォン!
妙な唸り声。
思わず見上げる。
天井が異常に高い。
その、ちょうど丘の真上あたり。
巨大な唇が口を開け、何か言葉を吐き出そうとしていた。
まるで、“世界の終わり”の瘴気を吐瀉しているかのように。
「あれは……」
異様な空間。“世界の終わり”を告げる巨大な唇。
そして感じる本能的な生命の危機。
『カメア』がさらなる輝きを放った、その時だった。
「翔太くん!」
声がした。
「翔太くん!」
間違いない。
美優だ。
美優もここにいる!
「美優! いるのか!」
「翔太くん! 逃げて!」
「美優! どこだ!?」
「ダメ、私はいいから、逃げて!」
美優の声は、丘の上から聞こえてくる。
遠いはずなのに、やたらと近くから響く。
ここでは“距離”という概念のほうが、ズレているのかもしれない。
その丘の頂上。
遠くの、それ《・・》へむけて翔太は目を凝らす。
やがて目が闇に慣れてくる。
見えたのは、化け物。
身の丈、5メートルはありそうな筋骨隆々の体。
頭には三本の角。頭と顔は山羊。
(悪魔……?)
見るからに、“悪魔”という姿だ。
その“悪魔”が、美優を右手で鷲掴みにしている!
「美優!」
美優は悪魔の手の内でもがき、逃れようとしている。
ひっかく。噛み付く。
だが、何をしても。
大山羊の拳はビクとしもしない。
大山羊の悪魔は、美優を握りしめたまま、翔太をじっと見ていた。
そして、耳まで裂けた口を開け、舌なめずりをした。
バフォメット。
そう。それがこの結界の主だった。
バフォメットは、渾身の魔力を用いて特殊な二重結界を生み出した。
一つは脱出“不可”。ベレスとセイレーンを足止めするため。
もう一つは検知“不能”。自分と美優と翔太を消すため。
それは逃亡ではない。再配列だ。
資源である贄を確保し、脅威であるベレスから“位相”を外す。
分断と逃亡、この二つを自身の全魔力を引き換えに、実行した。——悪魔にしては珍しく合理的だった。
実は、この大山羊の悪魔は、海野美優が持つ『マグス』=秘術師の素質を、すでに感じていた。
この女は、普通の人間ではない。
贄として、最高品質だ――その匂いを、はっきりと醸し出している。
だからこそ、美優を巫女代わりに使った。
切り札だ。
今、この巫女を喰らえば、魔力は全回復する。
いや、さらに増大する。
最初からバフォメットにはそんな計画があった。
だが。
この北藤翔太もだ。
実は、バフォメットも、翔太の“魂”の歪さに気づいてはいた。
他の人間とは違う、何か。
マグスとも違う、何か。
深淵というには静謐ではない。激しく、邪悪で、それでいて神聖さもある。これまで感じたことのない波動を、バフォメットはかすかに感じ取っていた。
同時に危うさも感じてはいた。
だが背に腹は代えられない。
この巫女と同時に、あの少年も喰らえば。
魔王ベレスに匹敵する魔力が手に入りはしないか……?
つまり、その香りが分かるぐらいには、バフォメットは、ベレスがなめているより優秀な悪魔だったのだ。
だが、完全に今の状況は賭けだった。
成功したのは、たまたま。二度はない。
偶然、ベレスの意識の波動が弱まった一瞬と、バフォメットの術がリンクした結果だった。
ベレスから逃れ。そして、海野美優と北藤翔太を自らの“贄”とし、それによって強大な魔力を得て、この固有結界をより強固な“城”とする。
ベレスの手が届かない、ベレスほどの大悪魔ですら見つけられないこの場所から、世界を支配する準備を始める。
苦し紛れの作戦がうまくいき、バフォメットは安心しきっていた。
もう、見つからない。見つけることはできない。
──悪魔王・サタンや、大天使ども以上の力がなければ。
この結界は、“見つからない”、そういった上位魔術を超えた強い術式で作られている。
長く人間界を支配したバフォメットゆえの最大の武器だった。
いわゆる、日本でいう神隠しに近い能力とも言える。
バフォメットはこう企む。
これからは、ベレスをも欺き続け、人を拐って魂を喰らい続け、魔力を増大していく。
ベレスほどの魔界の深層部にいるはずの大物が顕現しているのだ。
どれほどの強大な悪魔がこの地へ赴き、邪魔されるか分かったものではない。
ベレスがこの世に顕現している以上、油断はできない。
この地はその拠点に最適だ。
何か、この地には、そういった不思議な力を感じる。
特別な何かが潜んでいるのかもしれない。
そこまでは分かっていた。
だが、神界や魔界の上層部しか知らない情報は、バフォメットの耳には入っていない。
幽世の、広くいえば神魔や怪物、天使が集うアストラル界の、極秘事項だからだ。
──つまり、“無知”が、バフォメットを、この危険な賭けに出させたのであった。
◆ ◆ ◆
「美優!」
バフォメットのそんな企みも知らず、翔太は丘の上へ向けて駆け出していた。
だが美優は泣き叫びながら止める。
「ダメ! 翔太くん! 来ちゃダメ! 逃げて! 私のことは放っておいて!」
「美優――――――――――――――――――!」
バフォメットのような、淫らな冒涜の化身のような悪魔にとって、この二人の言動は、ままごとのように思えた。
とんだ茶番だ。
(力は秘めていても、所詮、下賤な人の子よ……)
バフォメットの山羊の瞳が笑いで歪んだ。
この結界は、誰にも見つけられないことを二人は知らない。
もう誰も、助けには来ないことを、この二人は思いもしていない。
お前らは、この我が秘密の“城”での、初めての“贄”となる。
その運命はもう、変えられない──!
「離して! 私を離して! 翔太くん! 翔太くん!」
「待ってろ! 美優!」
翔太は翔太で、あれほど巨大な化け物を相手に、勝てる算段などなかった。
ただただ、美優を救いたい。
その一心が翔太の背を押していた。
美優にしても、そうだ。
この場に自分の逃げ道がないことなんて百も承知だ。
だが、どうしても、翔太にだけは助かって欲しかった。
なんとか逃げ出してほしかった。
(翔太くんは……)
(美優は……)
(私が……)
(俺が……)
(守らなければ!!!)
二人の想いが交錯する。
翔太が、美優に向かって手を伸ばす。
美優も、その右手に応えようと手を伸ばす。
はるか遠く。
長い距離の先で、お互いの指先が宙をさまよう。
翔太の右手が“未来”を掴もうと伸び、
美優の左手が“いま”を繋ぎ止めようと伸びる。
指先が呼び合う。——“世界”すら、それを望んでいた。
だが。
悪魔は、無慈悲だ。
事は、一瞬で片がついた。
バフォメットは、美優を掴んでない方の腕を上へ向かって伸ばした。そして、笑う。
ウオォォォォォォォォォォォォォォォォォォン!!!
バフォメットの魔術発動と同時に、天井の唇が再び、不快な声を漏らした。
これが合図だった。
ゴロ、ゴロロロ……
直径五メートル級の楔岩が、空間の“目玉”のように翔太の真上に浮かんでいた。
単なる落下ではない。押し潰しだ。
気づいたときには、天井ごと落ちてきたと錯覚するほどの数になっていた。
そして、それらすべてが、二人の遠くて近い想いを断ち切るように――
翔太の。
身を。
骨を。
──視界が白く跳ねる刹那。
最初の一撃が肩甲帯を粉にし、鎖骨が音を置いて砕ける。
二撃目が頭蓋を碗のように凹ませ、顔面は“人の形”をやめた。
眼球が時間差で零れ、歯列は音だけを残して散る。
三撃目で脊柱が不自然な形で弾け、四肢は角度という概念を失った。
血は噴くより早く霧化し、壁へ星雲のように散っていく。
岩がひとつ重なるごとに、美優の悲鳴が、もう一段高くなる。
「いやああああああああああああああああああああああああああ!」
喉が裂けても足りない悲鳴。
それでも岩は積み上がる。
そして、その悲鳴も嘆願も虚しく――
翔太の姿は、山のように積み重なった岩石の下へと、完全に飲み込まれた。




