第4話 二人の美優
第4話
──まずはとにかく、港から離れなければならない!
さっき交わした美優との会話──四年ぶりに戻ってきた翔太にとって、初めてまともに心を通わせた言葉。
この1ヶ月間、随分と遠回りした。
けれど、その余韻を味わう余裕など一秒もない。
避難できる場所……市民会館、公民館、学校。
だがどれも遠い。
一番近いのは魚市場横の観光施設「みなっと」。
愛媛県最大の「道の駅」で、隠れられそうな店舗もいくつかある。
しかしこの時間、鍵は閉じられているはずだ。管理人がいれば望みはあるが、そんな賭けはできない。
「翔太くん! とりあえず市内へ!」
風でほどけた美優の髪が頬に貼りつくのを見て、翔太は一瞬だけ目を逸らし、すぐ前を見た。
前を走る美優の背中。
幼い頃から、翔太はその背中を追いかけてばかりだった。
(待ってよ……)
かけっこも、探検も、常に美優は前を走っていた。
翔太は隣で走りたかった。
一歩でも早く、一歩でも前へ。
だが今は芽瑠を連れている。全速力は出せない。気を取られたその瞬間──
ドン、と翔太は美優の背にぶつかった。
「美優……!?」
彼女はなぜか足を止めている。
問いかけようとして、飲み込んだ。
頼もしく駆け抜けるイメージしかなかった華奢な背中が、今は小刻みに震えていたのだ。
「み、美優……?」
周囲にはうっすらと霧が広がり始めていた。美優は前を凝視し、かすれた声で呟いた。
「……嘘。幻でも見てるの……?」
翔太も見た。夜の闇から歩み出る人影を。
金色の瞳をぎらつかせた──少女の姿を。
「……私……?」
全身の血が凍る。
理屈ではなく本能が告げた。そ
れは美優自身だった。
いや、美優とまったく同じ姿をした“何か”。
◆ ◆ ◆
小学生の頃、校長が口を酸っぱくして警告していた。
「『ゴースト』は、私たちと同じ姿を取ることがある。だがそれは本人ではない。偽物だ。絶対に近づくな」
その言葉が、悪い冗談のように突き刺さる。
(こんな……こんなことが現実に……)
頭が混乱し、胃が裏返る。
自分と同じ顔が、同じ髪が、同じ体が──金色の瞳だけを異様に光らせて立っている。
ありえない。気持ち悪い。怖い。理不尽すぎる。
そう。そこにいたのは。
“もう一人の”美優だった──!!!
美優の『ゴースト』……つまり、“もうひとりの自分”が睨みつけてくる。
今ここに私はいるのに、目の前にも私がいる。
自己同一性を踏みにじられる悪夢。
鏡の中から抜け出した歪んだ影が、生き物になってこちらを狙っている。
「なんで……」
「落ち着け、美優!」
勇気を振り絞って、翔太が美優の肩を揺さぶる。
「『ゴースト』に関わっちゃだめだ! 美優! 今は逃げることだけ考えるんだ!」
その声でかろうじて理性を取り戻す。
そして。
「はあああああッ!!」
美優は叫び、腕を大きく回し受けの型を取った。
──東南アジアの武術・シラット。インドネシアやマレーシアで伝承され、数百もの流派が存在する実戦武術。肘・膝・関節技を駆使し、相手の力を逆に利用して叩き伏せる。小柄でも巨漢を倒せる合理性から軍隊格闘術にも採用される凶暴さを秘めている。
美優と翔太は幼い頃から、美優の家が営む道場でこの技を学んできた。
今、美優はその技を──もう一人の、“自分自身“へと叩き込む。
「美優!」
止めようとする翔太の声は届かない。
「はッ!!」
美優の肘がゴーストの喉元を撃ち抜いた。だが──吹き飛ばされたはずの“偽美優”は、すぐに後ろへ跳んで衝撃を殺した。
「……私の技を、私が防いだ……!?」
混乱で視界が揺れる。
自分の強さを、自分がコピーしている。
これが悪夢……。
「こいつら、痛覚ってないのか?」、そばに駆け寄り翔太が呻く。
「みたいね……でも、遅い!」
美優は連撃を浴びせる。肘、膝、掌底。肉を打つ音が夜に響く。
だがゴーストは怯まず、逆に──その腕を回転させた。
「……うそ」
それは“回し受け”。
まるで鏡の中の自分。
シラットまでコピーしてくる──!
「そんな、そんなことって……」
自分の記憶が勝手に盗まれているような──精神そのものを侵された気分だった。
美優が幼い頃から磨いてきた武術・シラット。
それを、こうもやすやすと……。
「行くぞ!」、翔太が叫んだ。
「……!」
「『ゴースト』については、まだ人類は何も分かってないんだ。あそこだ! 貨物置き場まで逃げるんだ!」
翔太は彼女の手を掴み、無理やり走り出す。
もう片方の手は芽瑠と繋がっている。
美優の手に宿る熱が、胸の奥に沈んでいた“古い傷”をわずかに癒やした。
幸い、ゴーストの歩みは遅い。
“偽美優”はじわじわと遠ざかっていく。
だが美優の心は違っていた。
(あれは……確かにシラットを……使おうとしていた……!)
美優が動揺を隠せないまま、三人で貨物トラック置き場へ駆け込んだ。
油と鉄の匂いに満ちた闇の中。
巨大なトラックや重機が並び、影が迷宮のように入り組んでいる。
翔太は芽瑠と美優の手を取ったままで、トラックの列の間に滑り込んだ。
そして膝を落とし、呼吸を整え、死角を数える。
いじめられっこだったとしても、道場で叩き込まれた“基本”は常に身体に残っている。
(ここまで来れば……)
荒い息をつく二人。一瞬の安堵。
──だが。
この場所は避難所ではない。実は、さらなる“闇”の入口だった。
金属が擦れる、小さな音。カチ、カチ、カチ。まだ翔太も美優も気づかない。
自分たちが逃げているようで、実は、さらなる怪異の真っ只中に足を踏み入れてしまったことを。
それでも。
(俺が連れて出る。必ず──!)
翔太は、美優からいつも守られていた過去を思い出し、弱かった自分の心を奮い立たせる。
だが、すでにその時、鉄と油の影の底で、“それ”は目を醒ましていた。
三人の恐怖を嗅ぎつけ、這い寄る異形が。
夕陽に照らされた貨物トラック置き場
【撮影場所】愛媛県八幡浜市・フェリー乗り場の横
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