第55話 サバトの悪魔
第55話
小指と親指──
それだけで『コシチェイ』の巨体は、女に摘ままれた玩具みたいに、ひょいと宙へ放り投げられた。
さっきまで血と悲鳴で地獄を描いていた殺戮者。
その不死身の悪霊が、まるで重さを失ったみたいに。
人間を何十人も細切れにしてきた不死身の悪霊が、悲鳴も衝撃音もなく、静かに宙を滑っていく。
祭壇まで、およそ五十メートル。
その距離を、まるで紙くずでも投げるみたいに、軽々と──
音がない。その静けさが、さっきの殺戮よりもよほど不気味だった。
そして祭壇横をすり抜け。
森や林の木々をへし折り続け。
その背後にある岩を何層もぶち破っていく──
だが、無傷だった。
岩石をくり抜く途中で瞬間移動を使い、致命打を避けたのだ。
『何奴じゃ!』
三つの頭が同時に吠えた。
自分を投げ飛ばせる存在など、この場にはいない──その確信が崩れる衝撃。
血の海を踏みしめて、二つの影がゆっくりと近づいてくる。
黒いスーツの青年。そして、深い海みたいな青い髪の女。
彼らからは敵意も殺気も伝わってこない。
ただ、深い水底に沈んだ何かのように、気配がまったく読めない。
どちらも、ここにいる誰よりも“普通”に見えるのに──
この場の空気だけが、彼らの周りで別物になっていた。
──あの女か!
青い髪の女は、まるで静謐。
発せられる『魔力量』を計ろうとする。
だが、何かによって遮断されているのか。
それとも『魔力量』そのものが桁違いなのか。見えない。分からない。
むしろ、一般の人間のようにさえ、思える。
そんな青髪の美女と黒スーツの男が。
ただただ。
一歩一歩、近づいて来ている。
やがて青年が言った。
「レーン。君は、北藤翔太の保護を優先的に頼む」
青い髪の美女・セイレーンは忠実さを滲ませる声で答えた。
「承知しました」
「僕はこのまま、『コシチェイ』の相手をする。背後に控えてる黒幕も、この場にいそうだしね」
(──この男……、この気配……!)
神表洋平にはこの青年に見覚えがあった。そうだ。あの時だ。フェリー乗り場、『カスケード』の中で『ヒトガタ』と闘っていたその時。
◆ ◆ ◆
「悪魔祓い師か」
「今はお前に用はない。片付けるからそこで黙ってろ」
「ほう。僕の名前を知っているか」
「若き悪魔祓い師よ、雑魚ばかり見てきたんじゃ、その職務、退屈だろう。いい機会だ。ちょっと面白いものを見せてやろう。後学にしろ」
◆ ◆ ◆
──間違いない。
「魔王ベレス……」
思わずその名を口にした。ベレス=成宮蒼はその神表をチラリと横目で見る。
「ああ、あの時の若き悪魔祓い師か」
ソロモン72柱の悪魔を束ねる頭領。
怒りを統べ、猫を従え、そして『愛』すら支配する魔王。
いくつもの異名を持ちながら、そのどれもが“本気”だとされる存在──それがベレス。
「さっきの戦いは、ずっと見学していたよ。君は、思っていたより優秀だ。そのまま鍛錬に励むといい」
「励め……だと」
それは、褒め言葉の形をした“通過点”の宣告だった。
──今の神表は、まだ「相手」にすらなっていない。
侮辱に震える神表をベレスは無視する。
神表ほどの天才であれば、魔王クラスの悪魔祓いも出来なくはない。
それほど神表の力は“悪魔”に特化したものだ。
──だが、この魔王ベレスだけは……
一方で『コシチェイ』に対峙するセイレーン。
セイレーンの指が、ふっと空気を払った。
その一瞬で姿が消え──次に見えたときには、『コシチェイ』の背後の空中に立っていた。
速すぎて、どう動いたのか“記録”すら残らない。
『き、貴様……?』
怒りとも恐怖ともつかぬ震えが、三つの喉を同時に揺らした。
振り向きざま、大鎌を横薙ぎに振る『コシチェイ』。
だが、セイレーンはすでに翔太を透明な糸で包み込み、そのままベレスの隣へ戻っていた。
残ったのは、空を切る鈍い音だけ。
──な、なんだ、この速さは!?
セイレーンは宙に漂う翔太を糸のような術で包み、そっと地上へ下ろした。
「これで『獣』の暴発は抑えられます」
「うん。問題はあの少女だ」
ベレスは『バロメッツ』に囚われた美優へ視線を向ける。
「あれは……この少年が親しくしている存在です。殺害された場合、何らかの起爆剤になりかねません」
「うん……可能性はあるね、レーン。おそらくその通りだよ」
「それでは……」
「救う。今度は、僕が行く」
そして祭壇へと近づく。
「お気をつけて。ベレスさま」
『ベレス……さま、だと!?』
セイレーンからその名を聞いて『コシチェイ』の三つの頭の六つの目がすべて見開かれた。
それほどに信じらぬ名が飛び出したからだ。
──魔界の噂。
ソロモン72の魔王の頭領であり、地獄の大王。
神々とも交流があり、あの悪魔王サタンでさえ、一目置くとされている悪魔。
いわば、魔王中の魔王。
それが、ベレス。
誰一人として、その名に正面から刃を向けようと考えた者はいない。
向き合う前に、跪くか、逃げ出すか、その二択しか残らない存在──
魔界の深層の奥の奥の話。『コシチェイ』程度が話しかけていい相手ではない。
いや。言葉を交えた瞬間に、こちらは塵となる。
そんな存在、お目にかかるなど一切ないと思っていたが……
それほどの存在が、今、目の前で息をしている。
『コシチェイ』は、骨の芯まで凍りつくのを感じた。
──この相手だけは、本当に“消される”。
不死の身でありながら、”終わる”。
そこまで魔王ベレスという名は、「理不尽そのもの」のものであった。
だがそこに、不遜で、強大な笑い声が横たわった。
ベレスは歩みを止める。
天地を震わせるような笑い声。
これに慌てて、『コシチェイ』はひざまずいた。
『ま、魔王さま!』
「魔王……だと?」
ベレスは怪訝な表情になる。
笑い声の主は、意外にも、意識を失ったはずの栗落花淳の口から漏れ出ていた。
『バロメッツ』の大樹の横に浮かぶ、悪魔に利用された人間の「なれ果て」……
その淳の口は、魔王ベレス相手にこう言を発した。
『我が生贄を奪うか』
淳の口から、別の何かが喋った。黄金の瞳が開き、“魔王”を名乗る者が。
その者は言う。
『男、そして青髪の女よ。悪いことは言わぬ。その北藤翔太という少年は置いて行け。さもなくば、死よりも恐ろしき地獄の呪いが主らの身に降りかかるであろう』
『コシチェイ』が悦びの声を手向けた。
『おお、“呪いの卵”がついに孵化を……!?』
魔王ベレスはこのやり取りを無言のままで聞いている。
淳の口から出る言葉はこう続けた。
『まだだ。だが『コシチェイ』よ。主も大義であった。本来ならば、ここにいる全員の魂と恐怖を味わいたかったのだが、我への供物を横取りする輩が表れたのでは、その愉悦、味わうことなど出来ぬ』
『し、しかしながら……。この男はあの、魔王ベレスさまにございます』
『ベレスさまが魔界の深部より顔を出すと思うか。あのお方は、地獄の深層におられる』
『いや、しかし……』
『魔王ベレスさまの名を騙る者。その罪は万死に値する。だが、死の前に。まずは、その者に恐怖を……』
『お。おぉ……なんと頼もしき、お言葉』
『コシチェイ』が両手を掲げて最大の敬意を淳へ向けて放った。
『ではその不埒者、消し去るためにも! さあ! その御身を! ワシを地獄の死の淵から救い出してくれた、その神々しいお姿を! お見せください! 我が魔王さま!』
◆ ◆ ◆
(う……、ううん……)
祭壇の上。
『バロメッツ』の蔓に搦めとられ、蔓でできた大樹の中。
海野美優は、花びらの薄皮をめくるみたいにゆっくり目を開いた。
まつげが震え、頬に乱れた髪が触れる。寝起き特有の熱がまだ残っている。
(ここ……、どこ……)
視界はまだぼやけたまま。
(私、何してたんだっけ……。夢……じゃないよね……)
ぼんやりと、視界が焦点を結び始める。
次の瞬間、世界の“赤”が一気に流れ込んだ。
祭壇。血。肉片。翔太が倒れている。
──け、なきゃ……
それは目覚めた意識の最初のつぶやき。
──そうよ
──私が、私が、
美優の目に光が戻り始める。
(──私が、助けなきゃ!)
しかし、蔓に肩を固定されていることに気づく。
もがいても、タンクトップ越しの肌が震えるだけ。
助けたいに動けない。その無力さが、少女の唇から震え声をこぼす。
「な、なにこれ……!」
……それでも。
美優の瞳は、弱さと同じ量の“強さ”を取り戻し始めていた。
その美優の視界を遮るものがあった。
それは。
ふわりと宙に浮かび上がる異形の生き物たち。
その者どもの背中には、奇怪な羊の頭があった。
そして、それぞれの背中からタコの足のような植物の蔓が揺られていた。
おびただしい程の数。
──でも、形は、人……?
美優が見たのは、『バロメッツ』に憑かれた残りの者たちだ。
淳が幻術と『ロ・ヨローナ』を使い、集めた、サバトの使徒。
それが。十……いや、二十……
「な、何……」
美優の肌が泡立つ。
『さあ、贄たちよ。我が復活の血となり肉となり力となるのだ』
その声に、びくりと裸の肩を震わせ、そちらへ視線を遣る。
そこで浮かんでいたのは。
「つ、栗落花くん……!?」
ここで美優は完全に正気を取り戻した。
姿かたちは、間違いなくあの、栗落花淳。
記憶が蘇る。
──私の体を弄ぼうとしたあの手。
(何が起こってるの!? どんな状況……!?)
そして、美優は肺の空気を全部吐き出す勢いで叫んだ。
「翔太くん! 逃げてええええええええええええっ!!」
その声だけが、この地獄に残った“普通の女子高生”の声だった。
だが翔太はピクリとも動かない。
青い髪の色をした美女の足元で眠っている。
その代わりに美優が見たものは。
突如、蠢き始めた蔓のようなものたち。
ビュン、ビュン!
空気を裁つ線が走り、蔓の群れが隣で浮いている淳の体へ吸いこまれていく。
甘腐れた果実の匂いが立つ。
蔓は、巻きつくのではない。
淳の肉体の穴という穴……隙間を求めて潜りこんでいく。
そして淳は、呑み込む側でありながら、同時に呑み込まれていく。
音が一瞬、欠落する。
その間にも、一体化が静かに、しかし不可逆に進んでいく。
それも、すぐ数メートル先で。
このあまりものおぞましい光景に美優は、逃げ出そうともがいた。
だが、体の半分以上が埋まり、動けない。
耳へ滑る髪を、首を揺らして払おうとする。
あがく。もがく。
だが、蔓は、あくまでもしっかりと美優をくわえこんで離さない。
その全体が濃い紫色に光り始めた。
美優の持つ魂の力が吸われているのだ。
すなわち、美優は、この儀式の、「贄」
「ダメ……! 翔太くん、翔太くん、翔太くん……!」
そんな美優の姿を、微動だにせず見ている者があった。
黒いスーツの青年。
すなわち、魔王ベレスだ。
「ほう。具現の儀式が始まるか」
と、空を見上げた。
夜空には、神への冒涜を象徴する光景が映し出されていた。
夜空に、大きな裂け目が生まれている。
裂け目の向こうで、巨大な男女の“黒い影”が絡み合う。
あれは愛ではない。祈りでもない。
神への礼拝をわざと反転させた「冒涜の儀式」
──すなわち、悪魔たちの集会の完成形だ。
天に届くはずの祈りの形を、そのまま泥に叩きつけて笑っている。
影は天を嘲笑うようにうごめき、ひずんだ祝詞と喘ぎ声を混ぜた音が世界を汚す。
男のうめき声、女のあえぎ声。とめどなく卑猥な動きと艷やかな声。
歪な愛の影が夜空をスクリーンに映し出されている。
彼らの影は夜の闇よりも深く、夜空より大きく、邪悪な気配を粉塵のように撒き散らしていた。
これには、疲弊した大熊たちですら目が離せなかった。
大熊は思わず膝をついた。
「な、なんだ、ありゃあ……」
アアアン、アアアン。
ウッ、ハアハア、ウッ、ハアハア……。
アアン、アアアアアアアアアン。
ウオオオオオオオオ。ハアハア。ウウ……ハアハア。
まるで地獄に落とされたかのような光景。
国際魔術会議のエージェントたちさえ見たこともない異様な現象。
そして。
アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!
ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!
影の絶頂とともに、雷柱のような閃光が祭壇へ落ちた。
ドーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!
雷が落ちたような光と轟音がこの場を引き裂く。
大熊と高木は衝撃から身を守る。
だが衝撃に耐えられず後方へと吹き飛びそうになる。
その雷が落ちた祭壇。
光が消えたとき、そこにいた。
山羊の頭。三本の角。黒い筋肉が脈打つ巨体。
その姿は「神に似せたもの」ですらない。
神をわざと汚すためだけに作られた、歪んだ「反神像」だった。
サバトの悪魔・バフォメット。
嘲りと快楽を混ぜた笑い声が大地をひび割らせる。
大熊は耳を塞ぎ、歯を鳴らす。
高木は涙をこぼしながら呻いた。
「……こんなの……悪魔そのものだ……」
見るだけで、どこかの聖堂が一つ、遠くで崩れ落ちていきそうな気がした。
祭壇を囲む血が、まるで礼拝の赤絨毯のように悪魔の足元へ流れた。
それは“神殿”の逆再生。冒涜の完成だった。
こうして栗落花淳の肉体は。
サバトの悪魔・バフォメットへと変化した──
『おおおおお! 魔王バフォメットさま! ついにワシもそのお姿を! お姿を!』
『コシチェイ』が大騒ぎをする。
バフォメット。サバトの悪魔。淫乱の王。
人間界の悪魔信仰の王たる存在。
栗落花淳が抱えた多くの罪や恨み。
その“呪い”から生まれた悪魔。
人を堕落へと向かわせることを最高の快楽とする、この世の悪の権化。
『ワハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!』
バフォメットは、召喚の悦びに大声で笑った。
その笑い声だけで、ただの人間ならば発狂する。
もしくは、自らの性欲がむき出しにされ、そこで神を貶めるための乱交が始まる。
「あの声を聞くな!」
寸前の大熊の声で、国際魔術会議のエージェントたちは全員、耳を塞いでいた。
淫らな体液の匂いに包まれる。
肉欲が思考を支配してこようとする。
神を冒涜するためだけに、この世に遣わされた堕落の使徒。
それが、
──バフォメット。
『我が願い、叶ったり! バフォメットさまのお力が、中世以上にこの世を支配する時が来たなり!』
先ほどの怯えはどこへやら。
『コシチェイ』は、すでに勝利を確信していた。
『ゲッゲッゲッゲッ! 不死のワシ、そして魔王バフォメットさま。ワシらが揃った。魔王ベレスさまの名を騙る、不届き者よ。もうお主らに勝ち目はない!』
『コシチェイ』は、ベレスとセイレーンを蔑むように見る。
『逃さぬぞぉ。お主らは逃さぬ。ここで“淫”の藻屑とし、人々を快楽に堕とす尖兵として泥人形として操ってやる……』
そして、バフォメットが吠えるたび、空が震えた。
……だが、ベレスは微動だにしない。
その姿だけが、世界の中心にあるようだった。
「お前が魔王……?」
宇宙をも凍らせるようなベレスの冷笑。
これにバフォメットも反応する。
ベレスを睨みつける。
「聞き捨てならないな……。おい、バフォメット。お前、いつから魔王になった?」
『な、なんじゃ!?』
『コシチェイ』が不可解だという声を上げる。
『お前! 魔王さまに向かって、なんて口の利き方を!』
「お前は単なる『サバトの頭領』でしかないだろう」
声は低い。静か。
しかし、ベレスが一歩踏み出すたび、空気が沈む。
バフォメットの巨大な影が、ほんのわずか震えた。
『な……なんだと』
「笑わせてくれる」
だが、なぜか動けない。
この黒スーツの青年を前に、完成形のバフォメットが動けない。
『な、なんだその気配……』
その青年はこう言った。
「称号は名乗るものではない。与えられるものだ」
その声はまるで地の底から湧き上がったような震えを与えた。
だがバフォメットは、中世ぶりの受肉により高揚している。
『ぶ、無礼者め!』
そして、そう吠えた。
『その非礼、地獄の苦しみを持って償うこととなるぞ』
「ほう。苦しみ……」
『大人しくこの場を去るなら良し。さもなくば……』
「さもなくば……?」
『魔王たる我の恐ろしさ、その身を持って知ることとなる』
ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンン!!!!!
大山羊の悪魔は夜空へ向かって吠えた。
これにセイレーンが心底、卑下したような視線を送る。
「これだから、下等な者どもは……」
『な……『なんじゃと!』
主を馬鹿にされ、『コシチェイ』の目が怒りに燃える。
『今、何を言った、女!』
怒鳴った時には行動に移していた。
上空には『光陰の矢』の魔法陣。
スラヴ地方の太陽神『ラデガスト』の力。
先刻、この地に大穴を開けた、あの大魔術。
タワー型の魔法陣から降り注ぐ大規模攻撃だ。
そして、下ではバフォメットが。
『我こそが、人間界の魔王なり!』
耳まで裂けた口を大きく開く。
『魔界の氷をも融解させる地獄の業火! サタンさまより授かった力の一部……!』
「サタンさま……そう。確かにあなたは、サタンさま配下の人間界担当ですものね」
セイレーンは冷たく言い放つ。
上空には『コシチェイ』の幾重にも縦に連なった魔法陣。
目の前には、魔界の氷をも蒸発させる地獄の業火。
これに、魔王ベレスは背中越しにセイレーンへと告げた。
「レーン。二歩下がれ。ここは鈴のような君の声ですら要しない。それほどのものじゃあない」
セイレーンは翔太を抱え上げると、恭しく下がった。
「はい。風向きは、常にあなたの前へ……」
バフォメットと『コシチェイ』。
二つの災厄が、同時に牙をむいた。
上からは『光陰の矢』。下からは「地獄の業火」。
それが、この地へと降り注がれた。
だが、ベレスは動かない。防がない。
ただ、美優の方を一瞥し──
「……見ていろ。すぐに終わる」
美優には、成宮蒼=魔王ベレスがそう言ったような気がした。
その瞬間、天地が白く塗りつぶされた。
『コシチェイ』の極大魔法である「光陰の矢」
そして、おそらくそれをさらに上回るだろうバフォメットの「地獄の業火」
諏訪崎ごと、地図から消し飛ばす量の魔力が、一点──ベレスめがけて収束していく。




