第53話 殺戮の幕開け
第53話
──『救い』。
この二文字をどれほど、栗落花淳は求めていたのだろう。
その言葉は、淳の中では「ずっと遠い教会の鐘の音」のように、
一度たりとも届いたことのない響きだった。
──誰もくれなかった。
与えられなかった。
だからと言い訳する気はなかった。
けれど──
──どうして、こんなことになってから!
神の使徒・神表洋平からの言葉。
胸の奥に、もうひとつの文字が灯る。
──『悔い』。
触れられたくなかった扉が、そっと開き始めた。
それは、悪魔の囁きでも、憤怒でもない。
たった一人の少年が、本来持っていた「人間の形」が戻ろうとする微かな震えだった。
『お、俺だって、こんなこと……』
栗落花淳の残された良心が涙を流し始める。
『お母さんにだって……。俺は、俺は、やりたくなかったんだよォォォォォォォォ!』
淳は、叫んだ。
秘術円に捕らわれた、その神の牢獄の中で。
記憶が。思い出したくなかった母の記憶が。
彼の中の”人間らしさ”を優しくなぞる。
涙が溢れた。
雫が秘術円を濡らす。
その涙の分だけ、聖痕の紫の光が強まる。
『でも、もう、俺は、何人もの人の生命を奪い、魂をも捧げてしまった……』
『懺悔』──淳が取り戻しかけている人のあたたかさ。
「いや、今からでも遅くないと思うぞ」
神表の声は、どこか司祭が赦しを与える時のような、
柔らかい祈りの音色を帯びていた。
彼は胸の前で右手を軽く十字に切り、
「赦しは、誰にでも平等に降りる」と静かに告げる。
その所作が、淳の幼い頃の記憶にある教会の影と重なった。
「罪は償えばいい。やり直しだって出来るし、それを手伝うのが俺たち悪魔祓い師。元々、一番多い職務は心理カウンセラーだしな。悪魔はひび割れた心に入り込む」
『いや遅い! もう遅い!』
「遅くはない。だから教えてくれ。お前をかどわかしたヤツを。その正体を」
言いながら歩み寄る。
「信じろ。俺を。赦しは平等に与えられる」
『それは……』
淳は、すっかり子どものようにうずくまる。
すすり泣く。
心の中の悪魔と懸命に対峙する。
「それは……?」
『言ったら……“僕”、殺される……?』
少年の声だった。
強がりも虚勢も剝がれ落ちた、かつての淳そのもの。
秘術円の紫光が、その涙をうっすら照らし、
逃げ場のない孤独だけが浮いて見えた。
「大丈夫だ」
と神表は胸を張って言った。
「それをさせない為の、悪魔祓い師だ」
──ああ。それなら……
淳の魂が秘術円の紫の光で満ちていく。
安らぎ。
救い。
赦し。
残された良心。
優しさ。
それらすべてが再び手と手を取り合い。
再び、淳の闇を拭い始める。
『サバトの魔王……』
淳はポツリと言った。
『──そう、名乗っていた』
「サバトの魔王?」
『うん。確か名前は、バフォ……』
言いかけた瞬間だった。
ドンッ!
紫光の壁に、“肉の塊”が叩きつけられる音がした。
続けざまに、
ドンッ!
ドンッ!
ドンッ!
ドンッ!
それも、何体も、何体も!
それは、バロメッツに寄生された“元”人間たちだった。
悪魔を守る地獄の兵士として。
ぶつかるたび、聖なる壁が軋み、
その度に“聖句のような低い唸り”が円周を巡った。
まるで、結界そのものが祈りを続けているかのように。
だから当然、弾き飛ばされる。
焼けただれ、その場に崩れ落ちていく。
彼らは淳によって拐われた何の罪もない人間。
いや、穢れ一つない魂などない。
その穢れを利用され。
神を冒涜する存在となり。
地獄の尖兵となってしまった水城市民たち──
『バロメッツ』の触媒となった彼ら彼女らが、今。
一丸となって、悪魔祓いを妨害する。
神表の秘術円に突っ込み、聖なる力を破壊しようとする。
我が身を犠牲にして。
ただただ──『悪魔』のために……
「ひいっ!」
淳は情けない悲鳴を上げる。
だが、その声からは人間のぬくもりがもう一度、表れている。
淳は背中を丸め、頭を抱えこんだ。
赤子のように縮こまった。
その淳の背中の羊の頭が、ひときわ強く、その禍々しき眼を金色に輝かせた。
「予想より早い……っ!?」
想定外の事態。
神表は、木刀・黒姫を抜く。
一体一体を黒姫で食い止め、群れの暴走と突進を止めようとする。
だが、数が勝った。
量の圧が勝機を裏返す。
体当りしてくる『バロメッツ』は後を絶たず、神表一人では対応しきれない。
ドン!
ドン!
ドン!
「くっそ! もう少しだったのに……! エージェントのヤツら、何してるんだよ!」
毒づいた瞬間。
──バシッ!!
ひときわ強く、秘術円の壁にぶつかってきた者がいた。
その者の顔を見て、淳の顔が恐怖に歪む。
ガラスに顔を押し付けたように歪んでいるが、間違いない。
「う、浦辺……」
その名を口にした瞬間、淳の鼓動が止まった。
あの日の痛み、恥、罪悪感が、
黒く沈殿した水として心に戻ってきた。
そう。あの、淳をいじめていた主犯格。
カツアゲ、暴力、嫌がらせ。
淳の中にあった醜い心を引き出してきた無自覚の心の殺人者。
その浦辺が、顔を秘術円の壁に顔を押し付け、両手で結界をかきむしってくる。
『アウ! アウアウアウアウアウアウアウアウアウ!』
浦辺の眼には、もはや何の記憶もなかった。
だが、淳には分かった。
──その空洞が、自分を責めに来ている!
その浦辺も秘術円の聖なる力で焼けていく。
皮膚がただれ、中の肉が体液ごと剥き出しになっていく。
次に爪が全部、剥がれた。
焼けた顔の肉から目玉が露出し。
崩れていく。
──それでも、それが浦辺だという事実が、淳の心を再度、深く蝕む!
「ごめん! ごめんよ! 浦辺くん! 許してくれ! 僕が悪かった! 痛い想いをさせて悪かった! ずっと縛ってて悪かった! だから、見ないで! そんな目で僕を見ないで!」
そして。
『ウガアアアアアアアア!!!』
再び、栗落花淳の口から、悪魔の雄叫び。
背中に背負った、魔界の羊が高らかに笑う。
そして、あり得ないことが起こる。
押し付けられた浦辺の顔を中心に。
ガラスが割れていくように。
(え、ヒビ……!?)
ヒビは“音”から先に来た。
――キィ…ン、と耳の奥に針が刺さり、次の瞬間に紫光の面が蜘蛛の巣状に走る。
そして、聖なる円周に走る“裂け目”を、
淳も神表も、同時に理解した。
その裂け目から、まるで“外側の世界”が悲鳴を上げているような、
低い聖歌のような音が漏れる。
「あ……」
神表は思わず間抜けな声を出してしまった。
「これ……秘術円、壊れちゃうかも──」
神表は即座に作戦を変える。
突進してくる『バロメッツ』たちは後回し。
背後へ高く飛び上がり、そのまま宙で体を一回転。
浦辺を支配する『バロメッツ』の羊の頭に狙いを定める。
──間違ってた!
「黒姫! 力を貸せ!」
神表が持つ木刀・黒姫が真紅に染まった。
──群れの『脳』は、淳じゃない。
(こっちだ──!)
神表は胸に手を当て、息を深く吸い、
「ヨッド・ヘー・ヴァウ・ヘー──」
静かに“御名”を呼ぶ。
即座に秘術へと入ったのだ。
「天の火よ、ここへ降りよ。魔獣を焼け」
黒姫の赤光が十字を描き、
周囲の霧が祈りの白煙のように揺れた。
「ヨッド・ヘー・ヴァウ・ヘー! 聖天火業!!!」
大天使ミカエルの『聖火』を『黒姫』に宿らせる神表の秘術。
魔の属性のものは触れるだけで地獄の業火で焼かれる。
「行っけえええええええ!」
落ちてくるスピード、タイミング。
どれをとっても完璧だった。
これが当たれば、浦辺の体は『バロメッツ』ごと一気に燃え尽きる!
──はずだった。
『лумись над Богом, да возвысится тьма.(神を嘲れ、闇よ、高く掲がれ)』
突如、聞こえたロシア語の詠唱。
そのロシア語は、
まるで“神への嘲笑”をそのまま音にしたような声音だった。
(な……!?)
一語ごとに、風が牙をむく。
淳の体が揺れ、神表の体勢が崩れる。
詠唱はまさに、
『聖句の裏返し』
そして、詠唱そのものが竜巻のような突風へと変わる!
(や、やべえ……! 空中で……バランスが、取れねえ……!?)
たまらず、風の流れに飲み込まれる。
この遅れが命取りとなった。
そして。
「「「「「「「「「「「「「「パリン!!!!!!!!!!!!」」」」」」」」」」」」」」」
──砕けた。
絶望の音がした。
ガラスが弾ける音ではない。
「祈り」そのものが砕け散った音だった。
つまり。
神表の秘術円が。
神表の悪魔祓いの儀式が。
──破れた!
『うわあああああああああああああああああああああ!』
淳も、この突風に絡め取られていく。
宙を舞い、渦を巻き、霧の中へと消失する。
「栗落花ぃぃぃぃぃいーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!」
神表は懸命に手を伸ばす。
だが、届かない。
神表も突風になされるがまま、空高く吹き上げられてしまう──!
◆ ◆ ◆
──どれくらい時間が経っただろうか。
気づけば、多目的広場からは『濃霧』すら跡形もなく消え去っていた。
岸壁に打ち寄せる潮の音だけが、やけに大きく聞こえる。
その静けさの中に、国際魔術会議のエージェント達が、
ポツポツと人形のように倒れ伏していた。
『バロメッツ』の群れは、まるで箒で掃き集められたゴミのように、
きれいにすべて祭壇の方へと寄せ集められていた。
全員気を失い、それぞれピクピクと痙攣している。
その祭壇の上――
この突風を起こした張本人が笑っていた。
「ゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッゲッ!」
『バロメッツ』に絡め取られ、逆さに吊るされた海野美優を背景に、
全身を緑色のフードで覆った醜い老人が、祭壇の上で笑っていた。
手には、人ひとりなど容易く刈り取れそうな巨大な鎌。
顔から下は、薄皮が張りついただけの骨のような痩せ方。
それなのに、顔だけは妙に血色がよく、瞳は濁った白で濡れている。
歯はところどころ抜け落ち、
その隙間から覗く口内は、ついさっき血を吸ったばかりのように、どす黒い真紅だった。
高台の祭壇に立つその老人は、
百年物の死臭をまとった怪物そのものだった。
誰かの絶望を吸って生きている、
古代スラヴの伝説──
『危うく、あの栗落花淳……我々の“呪いの卵”が割られるところじゃったわい……』
老人が舌なめずりをしながら言う。
『人間にもこれだけの力を持つ者がこんなにもおったとはのう。時代が変われば、森羅万象、あらゆるものが変わるもんじゃと、この老体も、今更ながらに教えられたわ……』
天才・神表の悪魔祓いはこの日、生まれて初めて「失敗」という屈辱を味わされた──
◆ ◆ ◆
だが、その多目的広場でも動きはあった。
国際魔術会議のエージェント達の一部だ。
「大熊さん、大丈夫ですか?」
高木はすでに、大熊のもとにいる。
「痛たたたた……」
と大熊は背中を擦りながら起き上がった。
「何が起こった……。とんでもない風で、みんな吹っ飛んじまったぞ」
エージェント達の半数は、気絶している。
大熊ですら、初めて見る光景。
血の気が引く。
(やべえ状況だぞ、これは……)
「高木、こっちは今、何人残ってる」
「ざっと見たところですが……。逆に、殺られた者の数の方が少ないですね。連れてきたのは十八人。ああ……安田と平川の姿が見えません……。どうやら『羊頭』どもに喰われたようです……」
「ああ、『バロメッツ』か……。安田と平川……まだ教えたいことは山ほどあったのに……」
大熊はそう言うと、合唱する。
慌てて高木も同じ仕草をする。
簡易的な供養を終わらせ、大熊はすぐに戦闘態勢に戻る。
「と、すると残り十六人か……。起きてるのは……半分ぐらい」
「それより見て下さい! あの祭壇!」
大熊は高木が指差す方向を見た。
祭壇の上には、死神のような大鎌を持った老人の化け物。
その左右に。
栗落花淳と、北藤翔太。
それぞれ、宙に浮かんだまま吊るされたようにそこにいる。
二人とも気を失っているようだ。
「まずい! あのあんちゃん、拐われちまったか……!」
「大熊さん、あの緑のやつ、ヤバい! 魔力が桁違いです!」
高木は自身の棍を大熊に見せた。
その棍に浮かぶ青白い聖紋は、魔力感知器としての役目も果たしている。
今、その高木の棍は真っ青に染まり、気味悪く、電磁警棒のように光を弾けさせる。
これには大熊も目を見開かざるを得なかった。
「こいつは……大ボスクラスだな」
「たった十六人で何とかなる相手じゃないかもしれません。救援を!」
「救援ったってなあ……。忘れたのか? 街は今、『カスケード』。あの『ゴースト』の群れを相手に、これ以上、こっちに人員を割けるとは思えねえな」
「分かってます! しかし!」
「まあ待て」
大熊の目が何かを探している。
「幸い、こっちには神表神父の御曹司もいる。気に食わねえヤツだが腕は確かだ。ヤツが生きていれば、あるいは……」
大熊は後頭部をかきながら、高木に指示を下した。
「高木。まずは、その辺で寝てるやつ、全員起こしてこい。今夜はどえらい残業になるぞってな!」
「はい!」と高木。
だが、その高木の目がどんどん大きく見開かれていく。
「なんだ? どうした、高木……」
大熊は振り返る。
そこには、さっきと変わらぬ祭壇。
ただひとつ違うのは──
緑の老人の化け物の頭上に、いくつもの巨大な魔法陣が、塔のように縦へ縦へと連なって現れていることだった。
「あ、ありゃ……嘘だろ!?」
「だ、大規模……魔術……?」
「いや、現実です。大熊さん」
いつの間にか神表が二人に合流していた。
まさに神出鬼没。
(やっぱ、そう簡単に死ぬタマじゃねえわな……)
憎たらしいと同時に頼もしい。
だが、その神表の顔には珍しく焦りがあった。
「大熊さん、あれはマジでヤバい!
早く、ここに全員を集めてくれ!
このままじゃ──この場にいる全員、まとめて殺される!」
「な、なに?」
いつもなら茶化すように言葉を濁す神表が、
一切の比喩を挟まず「殺される」と言い切った。
それだけで、事態の桁外れさを、
誰もが理解せざるを得なかった。
大熊は、もう一度、祭壇上の魔法陣を見る。
一番下の陣の光が、上の陣へと順々に送り込まれ、
まるで“階段を上る雷”のように、空へ向かって魔力が積み上がっていく。
誰が見ても、それは「街一つを消す規模の何か」の前兆にしか見えなかった。
(確かに、あれは、やべえ……)
自然に声に力が入る。
「高木! 急げ! 生きてるやつら全員、ここへ集めろ!」
「は、はい!」
「寝てるヤツは引きずって来い! こりゃあ、ただ事じゃねえぞ……」
大熊のベテランの勘がこれまで感じたことがないほどの危険を感知していた。
そして、それはまったく正しい。
これから始まるのは、ロシアの怪物『コシチェイ』による、
『大殺戮ショー』なのだから──




