第52話 なぜ悪魔を呼んだのか
第52話
栗落花淳は、神表洋平の描いた秘術円の外へ飛び出そうとした──が、紫に滲む円周のラインに触れた瞬間、目に見えない膜にぶつかり、焦げた肉の匂いとともに皮膚が弾かれた。
まるで厚いガラスを全力で殴ったかのような反発と、電撃にも似た痛みが、骨の芯までビリビリと走る。
チッ、と肉が焼ける小さな音がしたきり、遅れてじわり、と熱が肌の奥から噴き出す。顔が反射的に痛みで歪んだ。
その瞬間、秘術円の火花が伝うように走り、神表を逆さ吊りにしていた蔓へと燃え移った。
乾いた枝を折るようなパチパチという音とともに、蔓は根元からぱん、と弾け飛ぶ。
支えを失った神表は、情けないほどあっさりと地面に投げ出され、そのまま後頭部から地面に叩きつけられた。
鈍い音が霧の下でくぐもって響き、黒姫の木刀がカランと転がる。
「いっ……たぁ……」
頭を抱えながら、制服の裾を汚すのも構わず、脚だけをばた、ばた、と子どもじみた動きでばたつかせる。さっきまで「怪物」すら封じる秘術を操っていた男とは思えないそのギャップが、かえって不気味だった。
さっきまでの『怪物』じみたオーラと、この間の抜けた光景との落差に、淳は余計に頭が追いつかない。喉がひりつき、今はこう言うのが精一杯だった。
『お、お前……俺のこと、謀ったな……』
自分でも情けないと思うほど声が震え、怒りよりも先に、“置いていかれた子ども”みたいな感情が滲む。
淳の目尻には、さっき秘術円に弾かれた時の痛みが原因の涙がまだにじんでいた。
その霞んだ視界の中で、神表がひょこっと腹筋だけで上半身を起こした。その動きは、体の重さや痛みといったものがまるで計算に入っていない、操り人形のような不自然さだった。
そのまま首だけをぎこちなくこちらへ回し、眼鏡の奥からじっと淳を見る。
「いやいや、そういう言われ方、嫌いだなあ。俺はね、悪魔祓い師。退治屋と目的は似てるけど、やり口も、見てる場所も、ちょっと違う」
『エクソシストだからって……何だって言うんだよ!』
口調は飄々としているのに、その言葉の奥で、誰か別のものが笑っているような寒気が、淳の背筋を撫で上げる。
──こいつの会話に巻き込まれたら、またペースを握られる……
だが、神表は口を止めてくれない。
「いやあ、まあ、いいじゃん。教えてくれよ。まずはさ、お前の心が知りたいんだわ。俺の目的は、その『バロメッツ』そのものでも、お前の命でもない。ひいては──お前に取り憑いてる“悪魔”。そいつを引きずり出して、叩き出すこと」
『叩き出す……?』
「そう。俺さ、一応これでも“救済ルート担当”なんだよ。お前のことは、まだ救える側の人間として見てる」
『救う……って何だ? 俺をか?』
その単語だけが、胸の奥のどこか、まだ泥水に沈みきっていない場所に、ぽちゃんと落ちた。
「そうそう。俺、悪魔とか“向こう側”の連中には容赦しない。でもお前に求めるのは、せいぜい懺悔くらい。ちゃんと自分で『間違った』って口にできるなら、心の鎖ぐらいは外してやれる」
『だから分かんねえんだよ! お前が何を言ってんのか、一つも分かんねえ!』
理解したくない感情と、ほんの少しだけ信じたい自分とが胸の中でぶつかり合い、言葉が怒鳴り声にしかならない。
「あ~あ。声のトーンまで悪魔寄りになってきたなあ。……でも、まだ間に合う」
神表は、まるで患者の症状をカルテにメモする医者のような顔つきで、さらりとそう言った。
「いやさ、だからこそ、俺は本気で救いたいの。だってお前、元をたどれば普通に“いいヤツ”だもん。欠点を挙げるなら、人に興味を持ちすぎるとこだな。まあ、それは長所にもなるけどさ」
『なんだ、なんなんだ、お前!』
「そもそもお前、いじめっこですらちゃんと“人間として”相手してやってたんだろ。虫けら扱いできなかった。……だから標的にされた」
『違う! 人の悪意なんて、そんな甘っちょろい言葉で語れねえ!』
「正論だ」
あっさり認められたことが、逆に淳の足場を崩す。否定してくれた方が、まだ楽だった。
もう淳は訳が分からない。
「確かにな。『相手にしなきゃいじめは止まる』なんて、きれい事にもほどがある。この世の中、いじめの標的にされないで生きる方が難しい。だから普通は、殴ったって蹴ったって面白くない相手になるか、そもそも殴らせない位置に逃げるか、どっちかなんだけど……お前、その手段をどっちも持ってなかった」
『何も知らないくせに、俺の全部分かったみたいな言い方すんなよ!』
胸の奥でぐちゃぐちゃになっていた感情が、言葉にならないまま喉を焼き、叫び声だけを押し出す。
「これだけはハッキリ言っとく。お前がどんな性格だろうが、ムカつく奴だろうが、“いじめていい免罪符”なんて誰も持ってない」
『やめろ……やめろぉぉぉ!』
「お前は、人に興味を持ちすぎて、人一倍優しくて、人一倍、相手の気持ちを考えてきた。そのせいで、自分の心の居場所がなくなった」
『やめろって言ってんだよ!』
「……だからこそ、不思議なんだよ。なんで“悪魔”なんか呼び出そうとした? 悪魔の力で、お前をいじめてた奴らをいじめ返す。それって結局、お前が心の底から憎んでた奴らと同じ土俵に立つってことだろ」
神表の声を聞いているうちに朦朧としてくる。
――そこへ、記憶が逆再生で雪崩れ込んできた。
いじめられた苦しさ、痛み、悔しさ。
カツアゲされるたびに、母の財布からお金を抜き取る淳。
その罪悪感……
「俺が言ってる懺悔ってのはさ、そこをちゃんと自分の口で認めることだ。神だの宗教だのはオマケでいい。『俺は同じ穴のムジナになりかけた』って、自分に告白する。そうすりゃ、お前の心は悪魔から少しは離れられる」
化学部の資料室で見つけた錬金術の解説本と、魔導書に関する書籍。そこで紹介されていたソロモン王が封印し魔王たちを召喚する方法。
最初は本気じゃなかった。
「やってみよう」
ある種、救いを求めるための仮の行動だった。
必要な材料の半分は化学資料室で手に入った。
だが、足りないものがは、ネット通販で調達した。
「蝙蝠の糞なんて、どこで手に入るんだよ……」
それも売っていた。
これには淳も驚いた。
ただし。
どうしても手に入らないものがあった。
それは──
◆ ◆ ◆
その日、淳はイライラしていた。
そこへ、スナックで働いていた母が、酔っ払って帰ってきた。
「大丈夫? お母さん!」
「大丈夫、大丈夫」
母はそう言って笑った。
「それより淳。もうあんたに苦労はさせなくてすむかもしれない。新しいお父さん……できそうなの」
「本当に? お母さん、いい人が出来たの?」
母はにっこりと笑った。
淳は嬉しかった。
──それで母が笑ってくれるなら……
しかし。
話を聞くと、おかしい。
その男は投資関連の仕事を生業にする金持ちだと聞いた。
それだけなら良かった。
その男は、母に投資の話を呼びかけ、絶対に儲かる話だとして、百五十万円の投資契約を迫ったというのだ。
母はすでに判を押してしまっていた。
「お母さん、それ絶対に騙されてるよ!」
男を愛していた母は激高した。
「あの人が私を騙そうとなんてするわけがない!」
「よく考えてよ!」
「あんたこそ何よ」
「金持ちなら、普通にお母さんにお金くれたらいいだけじゃん」
「何言ってんの! 優しいだけじゃない!」
「もう沢山だ!」
取り入ってもらえないことでイライラが殻を破った。
腹を立てて、二階の自室へと階段を駆け上る淳。
その淳を追いかける母。
「大丈夫、大丈夫よ、淳! あの人は絶対にそんな悪い人じゃない。きっと私も、淳のことも幸せにしてくれるはず!」
「離せよ」
「離さない! 分かって! 母さんだって幸せになりたいの!」
「また騙される気かよ! もういい加減にしてよ、母さん。母さんは人が良すぎるんだよ!」
パンッ――と、淳の頬は張られた。
母の目には涙が浮かんでいた。
その涙に一瞬、淳の心も言いすぎたかもしれないという後悔が生まれた。
だが、母は昔からお人好しで、人に騙されてばかりだった。
それでも、女手一つで苦労しながら、淳をここまで育ててくれた。
その“恩”が苛立ちに裏返った。
(なんで、分からないんだよっ! この人は!!)
淳は母に飛びかかった。母も抵抗した。
もみ合いになりながら、心の中では淳は母を救いたいと思っていた。
どうしたら分かってもらえるだろうと、魂が叫び声を上げていた。
そして。
完全に、弾みだった。
淳が抵抗し、反射的に出した脚が……
(……母さん……?)
母が階段へと落ちる瞬間、景色がスローモーションへと変わった。
淳は転げ落ちることしかできない影を追い、慌てて駆け下りた。
母は転がりながら勢いを増して階下の床に叩きつけられる。
──鈍い音がした。
「母さん……!」
揺する肩は、砂袋みたいに重い。
唇に、口紅のいつものベリーの匂いがまだ残っている。
「母さん! ダメだ! ごめん! お願いだから目を開けて! 僕が悪かった! その人に僕も会ってみるよ! だから頼むよ、目を開けてよ」
唇の端から、糸のような血が一筋。
「悪かったよ、悪かった、母さん! 僕が考えすぎだった!」
──つい、イライラに負けてしまった。
そうだ、救急車!
淳がスマホを手にしようとしたその時であった。
母の首が、糸で引かれた人形みたいに、がくん、と不自然な角度で起き上がった。
かっと見開かれたその目は、黒目の部分がどこにも見当たらず、白く濁ったゼラチンのような色だけがそこにあった。
瞳孔のない“白目”が、自分の顔の形だけをぴたりとトレースするように動き、淳は呼吸の仕方を一瞬忘れた。
「か、母さん……?」
『──誰だ……未熟な器で、我を縛ったのは』
母の口がしゃべっているのに、その声は、床下のどこかの穴から湧き上がってくるみたいな、湿った低音だった。
『不完全な儀式で我を愚弄する愚か者は誰だ……!」
やがて母の体は、床から“剥がされる”みたいに、数ミリずつ浮き上がり始めた。
かかとの裏とフローリングの間で、骨と木がこすれ合うような、ぎりぎりとした音がして、鳥肌が背中から首筋へ駆け上がる。
空気がキィと鳴った。
手は自分の髪をむしり、耳の後ろの皮まで裂こうと暴れている。
ぱく、ぱく、と宙を噛む口――
夜の闇の空気を喰わんとしているかのようだった。
その目には、もはや“人間の目”と呼べる構造は何一つ残っていなかった。
ただ、白目だけ。
白いゼリーの中で、黒い糸のような何かがゆっくりと渦を巻き、見てはいけないものを覗き込んでしまったような吐き気が、喉奥からこみ上げる。
母は体を、右に、左に、宙でかたむけながら、苦しそうに四肢を蠢かせている。
──まさか!
淳はハッとした。
魔導書に書いてあった、悪魔召喚に必要だった触媒の一つ。
それが。
“身近な人間の魂”……
──嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ!
「か、母さん……お願いだから……戻ってきてよ……! 僕が悪かった! 会うよ、その人にだって! ちゃんと笑って話すから!」
『頼むから目を開けて? 僕が悪かった? 僕もその人に会ってみる?』
さっき自分が言った台詞が、母の口を通して、ひしゃげた声でそのまま返ってくる。まるで古いテープレコーダーを低速再生したみたいに、音程も抑揚も少しずつズレていた。
『そうやってお前は、自らの母の魂を……我に捧げたというのか』
ガハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!
地獄から響いてくるかのような笑い声。
母は、宙に浮いたまま、白く荒く、臭い息を吐きながら、苦しそうにあがいている。
“捧げた”という言葉が、耳から入って脳に届くまでに、何度も何度も反響して、意味を理解させまいとする本能とぶつかる。
『頼むから目を開けて? 僕が悪かった? 僕もその人に会ってみる?』
再び繰り返し、いかにも楽しそうに笑い声を上げ続ける。
信じられない。
でも──それは実際に起こってしまった。
召喚の媒体の一つが。
すなわち。
──母の魂。
そして次の瞬間、“それ”は、自分で自分の顔をかきむしり始めた。
指の動きは母の癖をなぞっているはずなのに、爪の入り方だけが明らかに異常で、皮膚を破り、肉をえぐる角度を、よく知っている手付きだった。
爪の軌跡に沿って、肌から真っ赤な鮮血が噴き出し、パチパチと小さな音を立てながらフローリングに黒い染みを広げていく。
床に落ちた血の一滴一滴に、母がこれまで働いてきた夜の匂いと、台所に漂っていた煮物の匂いが混ざっている気がして、淳は喉を押さえた。
それでも悪魔は体をかきむしるのをやめない。
どんどん崩れる母の肉体。
顔から首筋から、腕から。引っかき傷だらけになった母の姿に、淳は身動き一つできない。
『ワッハッハッハ。その顔だ。その表情、実にいい。絶望と後悔と、まだ消えない期待が混じった顔だ』
「や、やめろ……」
『やめろ……? 何を怯える。何を怯える必要がある? 願いがあって、召喚したのに、怖いのか』
再び母が母じゃない声で大笑いをする。
母の口から漏れるその声には、生前の優しさのかけらもなく、ただ“契約書の条文”を読み上げるような冷たさだけが宿っていた。
『お前の願い、叶えてやろうか。その代わり──お前の心、見せよ。我に、お前の心のすべてをさらけ出せ。骨の髄まで、裸にむけ』
「やめろ、やめてくれ……」
『良かろう良かろう。お前のその魂、その肉体。もう我のものだ。すでに契約はなされた』
淳は驚いて抵抗する。
「そんな! 僕は自分の心なんて見せてない!」
だがこの悪魔は淳の声には応じなかった。
『これは契約だ。すでに鍵は回った。もう戻らない。戻れない。うまそうなお前の心、存分に味わえそうだ。これは最高の馳走だ!』
その言葉を言い終わる前に、母の肉体は、吊っていた糸がぷっつりと切れたように床に落ちた。
どさっ。
「か、母さん……?」
目を閉じて静かに眠っているように見える母の顔。
かきむしられて血まみれの母の顔。
その頬に触れようとした瞬間。
再び、母がカッと白い目をむき出しにし、獣のような速さで淳の首筋へ顔を突き出した。
口紅の甘い匂いと、血と胃液の酸っぱい匂いが混ざった息。
それが一瞬だけ肌を撫で、そのまま牙のように硬くなった歯が首筋の肉へと食い込んだ。
この時だった。
首筋から骨の間を伝って這い上がる冷たい何かが、頭の中の一番奥、誰にも触れさせなかった場所にまで入り込んできたのは──
淳の心の中の、母の笑顔をしまっていた引き出しが、乱暴にこじ開けられ、泥水でいっぱいに満たされていく感覚だけが、はっきりと残った。
こうして、淳は、意図せず、悪魔を使役する者となった。
そして、この物語冒頭のフェリー乗り場の『カスケード』が起こったのだった──
◆ ◆ ◆
淳が、あの夜に呼び出してしまった悪魔は、自らをサバトの魔王と名乗った。
声だけで名乗ったその肩書きは、淳にとってはゲームの中や本の中でしか見たことのない言葉のはずなのに、妙に“現実”の重さを持って胸に沈んだ。
また完全体じゃないゆえに、その姿を顕現させることができず、テレビという通信機と水道からの水滴を利用し、淳とコンタクトを取り続けた。
深夜、消したはずのテレビ画面にだけノイズが走り、水道の蛇口から落ちる一滴一滴が、言葉の形をして淳の耳に直接入り込んでくる──そんな日々が続いた。
淳に『バロメッツ』の種を渡したのは、その魔王の使い魔だと名乗った、『コシチェイ』という名の、大鎌を携えた醜い老人だった。
皮膚は干からびた樹皮のようにひび割れ、骨ばった指は鎌の柄に食い込むほど細く、瞳だけが氷のように冷たく光っていた。
その老人は、どこか湿った響きのロシア語をまくし立てた。
なぜか淳は、その意味を「知っている言葉」のように、頭の中で自然に理解できた。
まるで、自分の脳のどこかに、見覚えのない辞書をこっそりインストールされたかのような、不快な感覚だった。
ほどなくして、老人は見せてきた──淳がこれまで一度も手にしたことのない種類の、“力”の使い方を。
それは教えというより、見せつけだった。
「こういう力を、お前は手に入れたのだ」と、残酷な実演を伴う形で。
母の亡骸に『バロメッツ』の種を押し込む。
血の気を失った胸の奥に、小さな黒い塊をねじ込むように。
そして、そこに命を与える。
どす黒い脈動が、種から蔓へと伝わり、死んだはずの肉体の中で何かが動き出すのを、淳は見てしまった。
そしてそれは、通りすがりの女子高生を、あっという間に殺してしまった。
まず『コシチェイ』が、大鎌をひと振りするだけで、その少女の頭を軽々と跳ね飛ばす。
噴き上がった血の匂いに、バロメッツの蔓たちが一斉に群がり──
少女の体を、跳ねた頭ごと、玄関の隙間から家の中へとずるずる引きずり込んだ。
悲鳴を上げる暇さえ与えられなかった命を前に、空気だけがいつまでも震えていた。
淳は恐怖した。
自分が触れてしまったものが、どれだけ取り返しのつかない場所にあるのかを、初めて骨の髄で理解した瞬間だった。
同時に。
心のどこか別の場所が、“惹かれて”しまった。
圧倒的な“力”。
悪魔に魅入られてしまったがばかりに、もう目を逸らすことができない。
これまでずっと“力”に屈服してきた淳にとって、“力”は憧れであり、毒であり、麻薬だった。
その甘さが、母を失った罪悪感の輪郭を、少しずつ溶かしていく。
「仕方なかった」「もう戻れない」という言い訳と一緒に。
さらに『コシチェイ』は、淳の天敵であった浦辺を拐ってきた。
連れてこられたときには、すでに浦辺の左腕は肘から先がなかった。
制服の袖口からは血の染みが固まりかけており、床には乾ききっていない赤黒い大量の滴がなみなみと残っていた。
「騒がれると厄介じゃからのう。そういう気が起きんように、ちぃと痛めつけておいたわい」
『コシチェイ』は、まるで迷子の子どもにちょっとしたイタズラをしただけだと言わんばかりに、ゲラゲラと喉を鳴らして笑った。
ゲッゲッゲと笑う『コシチェイ』は、その浦辺の肉体にも、容赦なく『バロメッツ』の種を押し込んだ。ほどなく芽吹いた蔓は、左腕のない浦辺の体を、キッチンの椅子に雁字搦めに絡みつかせる。
椅子の背もたれと浦辺の胴体の隙間から、緑色の蔓が何本も通り抜け、肉と木とを、ひとつの“標本”みたいに縫い合わせていった。
なのに、淳の胸の奥は、異様なほどに軽く、そして気分が良かった。
──俺を、あそこまで苦しめていた浦辺が、今ここで。
この俺に。
泣きながら。
謝りながら。
心の底から。
助けを求めている──!
その事実だけで、これまでの自分の人生全部が“報われた”ような錯覚が、じわじわと胸を満たしていく。
(……俺は、何でもできる!)
今なら、この世界の理不尽を全部ひっくり返せる気がした。
たとえそのやり方が、どれだけ間違っていようとも。
突如生まれた、万能感。
これまでの自分には一度も湧いたことのない、危うい高揚感。
胸の奥に熱い泡が立つ。
劣等感という名の発泡剤。
その泡は甘く、どこか錆びた鉄の味も混じっていた。
それが、もう戻れない場所へ自分を運んでいく“炭酸”だと、頭の片隅では分かっていたのに。
淳の心の奥底に、ずっと押し込めていた“悪意”が、一気に表層まで浮かび上がってきた。
人間誰しもが抱える、心の汚い部分──悪魔に最もよく似た部分が。
──淳の脳の隅々にまで、静かに、しかし確実に侵蝕していく。
淳は、ここ最近どころか、十年ぶりぐらいに、心の底から大声で笑うことができた。
それは、子どもの頃に母と二人で見たお笑い番組で笑った時と、どこか似ていて、どこか決定的に違う笑いだった。
「アッハッハッハッハッハッハッハッハッハッ……!」
しかし、その笑い声には、一抹の寂しさと哀しみが。
そして、淳の中にまだかろうじて残っていた良心が。
わずかながらにも、まだ、
混ざっていた。
──この時までは。




