第50話 嗤う羊
第50話
「なんだ。まだ動けねえのか」
倒れている北藤翔太のもとへ、栗落花淳が拳をパキパキと言わせながら近づいてくる。
「もっともっと遊んでくれよ、北藤」
(随分な……変わりようじゃねえか……)
肺が焼けても、肋骨が軋んでも、
翔太は地面を“殴るように”押して起き上がった。
その動きには、
痛みよりも「前に進もうとする意志」の熱が宿っていた。
(立て。逃げるな。ここで折れたら、あの頃の俺に戻るだけだ)
肺が擦れる。肋骨が鳴る。
それでも翔太は、気合だけで上体を引き起こし、大地を踏みしめた。
(痛みを忘れろ……。相手できないほどじゃない……)
だが翔太は自覚していた。
先ほどの攻撃を受けた時。
自身の動きが鈍ったのを。
その理由も分かる。
――“怖さ”で足が止まったんだ……
トラウマ。
成長はしても、まだ、でかい男からの暴力への幼少期の恐怖がわずかに残る。
心の痛みの方が体の動きを鈍らせた。
──乗り越えろ。
乗り越えろ。
乗り越えろ。
乗り越えろ。
乗り越えろ……!
中学三年にもなる頃には、もう喧嘩で負けることはなくなっていた。
転校先でいじめられることもなくなり、
失っていた自信を、少しずつ取り戻しつつあった。
吸って、吐く。吐ききる。
──その自信を最大限に出せ!
あの衝撃──経験則で肋骨にヒビが入った可能性も考えられた。
だが。
──今は《・・》、忘れる!
翔太の顔に落ちるでかい影。
見下ろす目。
翔太は構える。
これは過去の自分との闘いでもあった。
淳は頭上で両手の指を組む。
一つなった両腕の拳を頭の上から叩きつけてくる。
「うりゃああああああ!」
──乗り越えろ!
翔太は下がらなかった。
逆に。
敢えて進んだ。
淳の胸元まで。
翔太は一歩踏み込み、
淳の“振り下ろしの円”のど真ん中へと飛び込んだ。
あえて死地へ踏み込むその勇気と、技の正確さ――それは熟練のシラット使いにしかできない芸当だ。
淳からすれば、視界から、翔太の姿が一瞬、消えたように見える。
次に驚きが来る。
意表を突かれた。
背後へ避けると思い込んでいた。
その油断していた淳の脇腹へ翔太の視線が動く。
鋭く回転。
この遠心力を利用した肘打ちをがら空きの脇へと食らわせる。
「ぐはっ……!」
ちょうどレバーの部分。
人間の急所の一つ。
そこをピンポイントで。
下からえぐるように。
体でもっとも固い部位である肘が。
えぐった。
たまらず、後退する淳。
翔太はその淳の腕の輪から、しゃがんで逃れる。
そして相手の下がる力も利用する。
受けて、添えて、回す。
淳の腕に自らの手を添える。
軽い力で下がる方向へと押す。
相手の力をそのまま借りた、反撃。
外へ送り出す。流す。
淳の重すぎる体重が仇となった。
大きく背後へと流された淳の体の片足が、浮いた。
見逃さず、大地に手をつく。
それを軸に、残った脚を後ろ回し蹴りで払う。
淳の体が宙へ浮いた。たまらず尻から大地へ落ちる。
──ここだ!
すぐさま、翔太は立ち上がる。
尻もちをついた淳の頭を両手で固定し、そして顔面に、膝を……、
一発! 二発!! 三発!!!
容赦のない膝が、正確に顔の急所を撃ち抜く。
技の軌跡は、“訓練された刃”だった。
「……っっっっっ!?」
膝の連打。淳の口から声にならない呻きが漏れる。
翔太は追撃せず、チャンスを捨てて霧へ――淳の視界を切った。
「どこだっ!」
淳から鼻血が噴き出す。思わず鼻をおさえ、体がくの字に折れる。
それを見計らい、霧から翔太が滑り出た。
腰が折れ、頭が落ちている。
そこへ全体重を乗せた固い肘。
これも顔面。
淳の歯が折れる音がした。
「うううううっ……!」
そして次に、のけぞってガードがなくなったみぞおちに再び肘。
淳の横隔膜を止めにかかる。
さらに臍下へ一撃。
最後に、膝で金的。
人体の胴体の急所すべてに肘と膝。
瞬間、翔太の姿が消えた。
いや、大地を捨てた。
重力による落下で膝に全体重を乗せる。
これを、淳の足背の舟状骨の上へと落とし、さらにねじり込んだ。
「ぐあああっ!!」
グシャリ!
(よし、いい音!)
淳の足の甲の骨が砕けた音だ。
急所ばかりへの連打。
さすがの淳も腰が落ち、しゃがみ込む。
──乗り越えろ!
心の声を聞きながら翔太は荒く息を吐く。
次の攻撃をかわす準備をしながら、うずくまる淳を見下ろす。
「こ、こ、こ、……こんな、馬鹿な。こんな馬鹿な!」
淳は到底、この状況を飲み込めない。悪魔から与えられた“力”。筋力、スピード。それを持ってしても。それがあるのに……
──北藤翔太には勝てない……!?
“力”があるのは俺なのに……なんで……届かない……!?
(こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な! こんな馬鹿な!)
淳は雄叫びを上げた。
「ちくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおオおおおオ!」
淳の声が、一瞬だけ「自分でない誰か」の声と重なった。
一方で、翔太は翔太で焦っている。
(あの怪力とスピード。強い。怖い。俺的にもギリだ。立つな、頼むから立つなよ……)
いじめで受けた心の深い傷はなかなか癒えない。
一生、付き合う羽目になるかもしれない。
(それでも――暴力から逃げ出すのは、足を引くのは……終わりにしたい!)
──乗り越えろ……!
今の翔太には、人一倍キレのある“技”がある。
これぐらいの体格のヤツと闘って勝った経験もある。
それでも、ここまでの怪力は翔太にとっても初。
そして。
淳はなかなか立ち上がれない。
それはそうだ。
例え、筋肉でガチガチに身を固めたとしても、急所攻撃はその鎧を貫く。
特に金的と足の甲。
筋肉の鎧がない場所は衝撃を吸収できず、ダメージがそのまま「人体」そのものに届く。
足の甲は、潰されれば立ち上がれない――人体の構造上、そういう“弱点”だ。
それ以前に、激痛が立ち上がる気力を奪い去る。
「ち、ちくしょう……」
淳の口から自然に悔しさが、怨嗟が、ぼろりと転がり落ちる。
「なんだこれはあああああああああああああああああああああああああ!」
夜空に向かって咆哮した!
──勝てない。まさか。この俺が。
今までやって来たことはなんだったんだ。
脳裏に、母を階段から蹴り落とした記憶が蘇る。
(僕をここまで育ててくれた、お母さんまで殺したっていうのに……!)
強く握りしめた拳で大地を叩きつける。
ズシン!
と音がして、そこに大きな穴が空く。
ここまでの力、ここまでの威力。それが、北藤翔太に……
(北藤翔太には通じない……!?)
自然に目から涙が溢れた。
これまでの俺の苦しみは何だったのか。あの苦労は。あの辛い想いは。あの万能感は……!
──まさか。
まさかまさか。
まさかまさかまさか。
(その全てが、無駄だったと……!?)
葛藤。体の震え。俺は……僕はまだ……弱いのか……?
──弱いの?
心の声が聞こえた。
──僕は、弱いの?
その時である。
──ドクンッ!
震えが淳の体内の何かを刺激した。
淳の背中の中央部分が、いきなり膨らみ始める。
身と心の震えに同調して、歪に盛り上がっていく──!
「うわあああああああああああああああああああああああ!」
──痛いっ!
淳は悲鳴を上げた。これは淳にとっても予想外の出来事。
それは翔太も同じだ。
この異様な光景に翔太も息を呑む。
淳は四つん這いになった。背中全体がまるで妊婦の腹のように盛り上がっている。
『殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!』
その大きな膨らみはやがて巨大な瘤になった。
背中の皮が内側から呼吸をし始める。
瘤が脈を持ち、禍々しい鐘が打ち鳴らされたようなノイズで震え。
破裂した!
いや、破裂音ではなく、「産声」のような濁った音がした。
「うっ……うわ……」
飛び散った大量の血しぶきを避けようと腕でガードする。
血だけじゃない。樹液と脂や、男の体液のにおい。
そして、異常は加速した。
数十本もの触手。
いや、何かの植物の蔓が、その破裂した傷口からわさわさと伸びてきたのだ。
うねうねと。
怪物の触手のように。
一本一本、それぞれが宙空をかき回す。
それはもはや、人の姿をかろうじて保っているだけの「成れ果て」だった。
「な、何だ……これ……?」
淳は叫ぶ。
「何だ、これはあああああああああああああああああああっ!!!」
蠢く触手。
それは。
翔太に向け、いきなりドッと放たれた。
「う、うわ……」
首、手、脚。
体の至るところに、このぬらぬらとした蔓が巻き付く。
一本一本の力が強い。
ぎゅうと、きつく締め上げてくる。
血管が締め付けられたような圧迫感がある。
「……っぐ!」
首の位置にも蔓が噛む。
喉仏が奥へ押され、声が出せない。
指を差し入れても、掴んで引きちぎろうとしても、まったく歯が立たない。
ほどけない!
淳は四つん這いのなっていた。
そして何かの動物のように手足を使いながら、翔太に近づいてきた。
泣きながら。
恨みのこもった目で。
ドロドロと血の涙を流して。
触手を翔太へと向けながら。
──そこで翔太は、さらに異様な光景を見ることになる。
淳の背中の瘤が破裂した傷跡。
どろりと血が流れ、瘤の裂け目から「羊の頭」がぬるりと現れた。
金色に光る瞳孔を横に伸ばし。
にんまりと笑って。
「福音の真似」を口ずさんでいる。
──『Et…』で途切れ、続いて、『…mueD』『…edīrri』『…teM』『…teM』
翔太の『カメア』が明らかな反応を見せる。
波動を放つ。
淡く光を持ち始める。
「これ……この反応。今までになかった──」
その匂いは、もはや血でもほかの体液でもない。生まれたばかりの「魔」の匂いだった。
そう――『カメア』が反応したのは、この『バロメッツ』だ。
実の代わりに羊を成らせ、その近くのものをすべて喰い尽くすと伝えられる、
別名「スキタイの羊」
その“種”が、淳の体にまで埋め込まれていた……
『北藤おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!』
そう叫ぶ淳の口は頬まで避けている。
横に開かれた口から、カエルのような長い舌が鞭のようにしなる。
折れた歯が次々と抜け落ちていき、そして新たに、肉食獣のように尖った歯が生えてくる。
『殺おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおす!』
もはや、淳の声は人間の声に似せた何かのようだった。
──一度、惹かなければ。
だが。蔓に締め上げられ、逃げられない。
こんなんでどう戦えばいいんだ。
──デル、シャパリュ、蒼さん……
そして浮かぶ。
──「死」
の、絶望的な一言。
(……ここで終わるのか。
美優も……守れないまま……)
喉を締め上げる蔓は、
まるで“人間の指”のように脈を打つ。
このままでは絞め殺される。
しかも目の前には、もはや人間であることをやめた巨躯の男。
不気味に反応する『カメア』。
危機を告げるその光が、脈打つように点滅する。
霞む視界の端で、幼い頃に殴られたときの光景がフラッシュのように走る。
──だが、その諦めのなか、翔太には一つ、気づけていなかったことがあった。
それは、脇腹の痛みが、いつの間にか、消えて失くなっていること──
肋骨が完全に正常な状態に戻っていること──
だが、一方の翔太はそれどころではない。
こちらは生身の体一つ。
それで、目の前の化け物の相手をしなければならない。
──このまま、殺されちまうのか、俺……
そう思った瞬間、なぜか蔓の力が弱まった。
(……あ、あれ?)
霧が裂けた。
同時に鋭い光の筋。
シュン! シュン! シュン! シュン! シュン! シュン!
六本。
「え……」
喉から声が溢れ出た。
翔太の首を束縛していた蔓が切り裂かれたのだ。
そして。
その光が発せられた中心から、
まるで映画のワンシーンのように男の姿が現れた。
霧の向こうから六条の光――拳の股からナイフみたいな刃が三本ずつ。
歩みはゆっくりなのに、異様な力強さを感じる。
「よお、あんちゃん」
そして再び投じられる光の刃。
その男の一息ぶんの軽口の間に、蔓が次々と輪切りにされていく。
「危ないとこだったな」
にんまりと笑うその顔と白髪頭に翔太は見覚えがあった。
その笑みは、地獄の底に落ちていた翔太を一瞬で現実に引き戻す“救いの灯”だった。
あの、美優の知り合い。
父の形見の十字架を渡してくれた人。
そして。
その正体がいまだ謎に包まれている組織・国際魔術会議のエージェント──
「大熊さん!」
その名前が、すらりと記憶から滑り出た。
美優の父親とも旧知の仲。
昨今の『カスケード』の調査で訪れた翔太にとっては謎の男。
歳に見合わずきれいな白い歯を持つその男は──
大熊英司だった。
その大熊が言う。
「いやあ。あんちゃんを張っていて正解だったぜ。まさか嬢ちゃんまで捕まっているとはなあ」
なおもナイフを投げまくる大熊。
どう操っているのか。
ナイフは曲線を描きながらすべて正確に蔓を刻んでいく。
ナイフ使い……これが、国際魔術会議のベテランエージェントの力。
これに当の淳も反応する。
その手足を使って四つん這いで突進してくる。
姿は化け物。
走るスピードはまるで蜘蛛か何かのようだ。
「──危ないっ!」
だが。
次に翔太の目に映ったのは、大熊の死体ではなかった。
派手に吹き飛ばされた淳。
数メートルは弾かれ、仰向けに大地を滑っていく。
「なるほど。これが『カスケード』による余波ですが……」
この声と顔に見覚えがある。
大熊の相棒・若きエースである高木英人だ。
その手には、青白く光る警棒のような棍。
それが、淳の横っ面を思い切り薙ぎ払ったのだ。
だが、それだけでこの威力。
次に高木の棍が低音で鳴り、足元に幾何学の輪が浮かぶ。
その中心に高木は立つ。
そこへ伸びる『バロメッツ』の蔓。
これをあえて棍に巻かせ、呪文のような囁きで回路を反転――青白い放電で焼き切る。
直線的、速い、教科書どおりの正確さだ。
「痛ええええええええええええええええええええええええええ!」
淳が悲痛な叫び声を上げる。ゴロゴロと霧の中を転げ回る。
翔太は目を見開いた。
──これが、国際魔術会議のエージェントの力……
そんな呆然としている翔太に大熊が笑顔を手向ける。
「大変だったようだなあ、あんちゃん。だが、もう大丈夫。ここはワシらに任しておけ。こっちもちょっとばかり助っ人を連れて来てるからな。……まあ、力にはなれると思うぜ」
その言葉に翔太が振り返る。
と、おそらく国際魔術会議のエージェント達であろう。
男女十数人が次々と濃霧の中から姿を表した。
その中には、あの、悪魔祓い師。
翔太のクラスに転校してきた神表洋平の姿も。
皆が真剣な表情をしている中で、一人だけにやついている。
大熊が彼らを背に言う。
「さあ、嬢ちゃんを取り戻そうぜ、あんちゃん。『カスケード』の霧はもうこの多目的広場も覆っている。『ゴースト』たちが来る前に、ケリをつけなきゃな」
その言葉が、翔太にはひどく頼もしく聞こえた。
美優を助ける希望が生まれた。
だが……
──熱いッ……!
胸元の『カメア』が強烈な反応を示した。
その探知能力はまったく正確だった。
霧の奥、祭壇の向こうで鐘の音が逆に鳴るような響きを聞かせる。
不気味な笑い声がする。
いや、これは、笑い声とは言えない。
『――――』
音にはならないのだ。けれど全員が同じ語を心で聞いていた。
心の中で言葉として再生されるのだ。
『Без смерти — в смерти. Имя твоё — замóк, слово моё — ключ. Bez smérti — v smérti. Ímya tvoyó — zamók, slóvo moyó — klyuch(不死を“死”の中へ。おまえの名は錠、わたしの言は鍵)』
エージェントの中からこんな声が聞こえた。
「……ロシア語か……?」
(ロシア語?)
その“声”は、音ではなく、
脳髄の裏側を指でなぞられるように響いてきた。
翔太は目を凝らす。
それははるか先。
美優が捕らえられている祭壇の方からのものように思えた。
翔太はゾッとする。
そこに“誰かがいる”。
だが、目はその姿を捉えられない。
まるで祭壇の影そのものが、別の生命として呼吸しているようだった。
霧の奥の祭壇に。
捕らえられた美優のすぐそばに。
淳と、この“羊”の化け物以外の――
“何か”が潜んでいる──!
名作絵画で残されている「バロメッツ」の想像図
『名作絵画で見る幻想怪物たち』(鉄人社)143Pより抜粋。




