第47話 狂い始める血の形
第47話
──同じ頃、北藤家では異変が連鎖していた。
「えっ? 美優がいなくなったって!?」
シャパリュが空中でひと跳ねし、耳をぴんと立てた。
デルピュネーは目を閉じ、美優の気配を確かめようとする。
「どうやら確かなようです、シャパリュさま……。今、この結界内に、美優さまの魂の波動はまったく感じられません」
「いや、あまりにも理屈に合わない。一体、何があったんだ」
シャパリュは空中で考え込む。
「この結界はベレスさまの眷属――つまり僕たちと“上位の神性”だけが素通りできるんだ。本来なら、外の魔は理論上ここには入れない。……翔太。君の持つカメアは何か反応があったかい?」
翔太は言われて、胸にペンダントヘッドとしてかけてある指環に手をやった。
カメア。
ヘブライ語で“御守り”を意味するもので、翔太の中の“獣”を抑え込む役割とともに、何か悪意のある者の力を感知する探知機ともなっている。
胸元のカメアが冷たい。なのに――
「……反応は、なかった」
暗い声で翔太は答えた。それどころか俺は、何も、何も……
(俺は……守れなかった。あの時、もっと――何かできたはずなのに……)
「ふうむ。では、何か、変わったことはなかったかい?」
「変わったこと……?」
「なんでもいい。思い出してくれ」
翔太はすぐさま言った。
「そうだ、テレビ!」
翔太はテレビを指差した。
「これが誰も触ってないのに、勝手についたんだ。しかも画面は何か番組が映るってわけじゃなく、砂嵐」
「これかあ」
シャパリュはテレビへふわっと飛んでいき、その前脚でテレビを触った。
そして目を閉じる。
「妙だね。電気臭は残ってるのに、魔力痕はゼロだ。見間違いだったんじゃないのかい?」
「そんなわけない!」
気づけば、声が荒れていた。
「それだけじゃない! その砂嵐の中に、悪魔みたいな影が見えたんだ。それが、俺を睨みつけているように見えた。間違いない、俺は見たんだ! あれはとてもこの世の存在のようには思えなかった。何かが、何かがここへ来て、そして美優だけをさらっていったんだ!」
「シャパリュさま!」
デルが目を閉じたままで翔太の言葉を切った。
「これは……何かの残り香です。翔太さまがおっしゃっている事はおそらく本当です。わたくしたち以外の何者かがここへ侵入してきた。それは間違いないことのように感じられます」
「残り香だって?」
シャパリュは言った。
「ラ・ヨローナ以外にも、何かがいたってことかい?」
「間違いないでしょう。ちょっと試したいことがあります、失礼いたします。翔太さま」
デルピュネーは、槍についているエメラルドグリーン色の宝石を翔太へと近づけた。
その宝石に浮かぶ、不思議な紋様。
宝石面に黒いインク滴が走り、蜃気楼のように輪郭を結ぶ。
それが、まるでおたまじゃくしのように、ちょこちょこと動き回る。
宝石の内部で、紋様がこちらを覗くように一瞬だけ止まった。
「なるほど、デル、お手柄だ。これは間違いないね」
「はい。この紋様ですと、やはり……」
シャパリュとデルピュネーの瞳が確信へと変わった。
そしてシャパリュが告げる。
「これは幻術だね、翔太。君は幻術を使われたんだ」
「しかも、それを用いたのは幽世の者ではない」
「どういうことだ?」
なら誰かというのか。
デルピュネーがすぐその解答を出した。
「――“人間”でございます、翔太さま」
「人間……?」
翔太には理解ができない。
──だって、誰もいなかったんだぞ。それなのに。
「そうでございます、翔太さま。侵入者が“人間”であるなら、なんの障壁もなく、この結界内に入ることが叶います。わたくしたちが、あの白い女とことを交えている最中。その隙を狙って、この家に入り込んだ。それから幻術で翔太さまの視界をジャック……」
「幻術使い……そんな人間がここに……!?」
「間違いございません」
「いつから」
「それは分からない」
シャパリュが応えた。
「ただ、君がテレビで奇妙な影を見たというのは妙だね。テレビには幻術の痕跡がない。もしかしたら、その影ってのは君が見た真実かもしれないよ。翔太」
「真実……?」
「そう。でも実体ではない」
ますます分からない。
それを見てシャパリュが丁寧に説明を始めた。
「要は電波ジャックさ。魔力のね」
「はい。わたくしが、翔太さまのスマホにメッセージを送るのと同じ手法でございます」
「そういうこと。テレビの電波を乗っ取り、画面だけを変えた。ならば幻術の痕跡が残るわけがない。何しろ、それはテレビという機械の正常な動作だからね」
「魔力の痕跡もそれならば残りません。どうやら相手は人間社会をよく知る者のようです」
そう言うとデルピュネーは口元に手を当て考え込む。
「そうしますと……。つまりは、『ラ・ヨローナ』は、囮だったということでしょうか、シャパリュさま」
「囮は成功、計画は未完ってところだね。想定外は『ラ・ヨローナが墜ちたこと』だ。だから“彼”は、証拠を消す前に美優だけ連れ去った。翔太には何もする時間もなかった。ゆえに翔太は無事でいられている」
「俺も狙ってたのか?」
「そう考えるのが妥当だね。他ならぬ君の家に侵入したんだ。本来は君が目当てに決まってるだろ。美優は巻き添えになった形だ」
「……」
──俺に恨みがある者。
学校ではまだあまり人付き合いをしていない。
それに幻術使い。
そんな特殊な人間とお知り合いになった記憶などない。
そして。
それに美優が巻き込まれてしまった……
「だけど、美優をさらうことも目標の一つであった可能性もあるね」
「美優を……? なぜ?」
「それは分からないけど……」
シャパリュは再びふわふわとテレビへと向かった。
「このテレビ。そこへの電波を操った者が、誰か人間に幻術の力を与えたと見るのが正解だと僕は思う。そんなことできるのは、悪魔さ」
「悪魔……」
いつまで経ってもその響きには慣れない。
ゾクッと背筋が凍る。
「その悪魔は、幻術使いの目的達成に手を貸すため、テレビで翔太の気をそらした。だが、『ラ・ヨローナ』が僕らの手の内に取られたことで、翔太には手を出す暇なく逃げ出した。ただね。その幻術使い、置き土産だけは残していってる。悪あがきかな」
「置き土産?」
「百聞は一見にしかずさ。そろそろ作動するようだよ。ほら、あの壁を見てごらん」
シャパリュはそう言うと、白い横の壁へと前脚を向けた。
それを見て、翔太は驚愕する。
白壁の内側でまず液体が沸騰するように揺れた。
次に、赤黒い染みがじわりと盛り上がり、
肉の裏側を引きはがすようにして血が浮き出た。
──血文字だ。
「だがこれも幻術。すぐ消える。とはいえ、しっかり目に焼き付けておくといい。今、君が置かれている立場がこれで分かるはずさ」
翔太は血文字を追うたび、視界がぐらりと揺れた。
喉の奥がひきつり、ツバも飲み込めない。
皮膚の表面だけが先に冷えていく。
――“栗落花 淳”。
その名前を見た瞬間、
背筋に刃物をたてられたように、つぅっと冷や汗がしたたり落ちた。
そこには、こう書かれていた。
『Dear 翔太くん。
いつもお世話になってるね。
でも今度ばかりは、君は僕を怒らせてしまった。
海野さんはもらっていくよ。
返してほしければ、一人で。
つまり君自慢の使い魔は置いて、諏訪崎の先端・多目的広場に今から来てほしい。
誰かに言ったら、もう海野さんは返ってこないよ。
――まあ、警察でも何でも、来たところで何もできないだろうけど。
では、そこで僕たちの決着をつけよう。
Sincerely yours,
栗落花 淳』
「栗落花……?」
にわかには信じられない。
栗落花淳が幻術使い。なぜ?
じゃあ、あの“白い女”も……
──まさか。
でも、どうやって。
悪魔を?
何より、大人しくて優しかったあいつがどうして……!?
翔太はふと、思い出す。
栗落花淳の背が数週間で急に伸びた異変を。
急に三年生の不良たちを叩きのめしたあの勇気と力を。
おかしいとは思っていた。
それでも、淳の成長を喜んであげたいと思った優しさが翔太の目を曇らせた。
(信じたかった。
あいつの成長を……素直に喜びたかった。
でも、その“甘さ”が……美優を……)
しかし、ここに「悪魔」というキーワードが入れば、話は違ってくる。
(俺が……気づけなかったからだ。
淳の“異常さ”にも……あれほど兆候があったのに……
俺は、あいつを“友達だ”なんて思って……)
この時、翔太の内側で、“獣”が静かに身じろぎした。
――誰にも、
ベレスにすらも気づかれない、
微かなきしみを立てて……
だが、カメアは静まり返っている──




