第46話 囚われの美優
第46話
美優が消えた――その瞬間、翔太の胸を締めつけた“冷たい空白”。
その空白を埋めるかのように、同時刻、美優は──深い闇の底で、夢の中をさまよっていた。
どこかの空港。
トランクを携えて、美優に手を振っている父と母。
両親は何かを話しかけている。
だが、空港全体が“ミュート”されたように、一切の音が消えていた。
周囲の人々も、二人の唇も確かに動くのに、だ。
誰の靴音も、アナウンスも生まれない。
音が死んでいるようだった。
そんな中、美優は泣き叫ぶ。
(待って、お父さん、お母さん! 私も、私も一緒に行きたいの!)
気付けば、美優の心と体は、小学生時代にまで還っていた。
懸命に叫ぶ。
だがやはり、音は生まれない。声が届かない。
父と母は、何かを必死に伝えようとしている。
(何!? 聞こえないわ! お父さん、お母さん、私に何を言おうとしてるの……!)
だがそのまま父と母は諦めたように踵を返し、エスカレーターでゆっくりと下っていった。
両親の姿が地下へと沈んでいく……
(やだ、行かないで! 私を一人にしないで!)
──そこで場面が一気に、切り替わる。
どこかの地下鉄。
無人の電車が走り去っていったホームで、ひっそりと泣いている子ども。
(誰……?)
美優は近づき、声をかけようとする。
少年は一度だけこちらを振り返り、そして再び背中を丸めて泣き続ける。
その小さな手には、くしゃりと握られた布切れ――見覚えのある模様が目に入る。
(あれ……)
美優は気付いた。まさか……でも、あれは確か。
(昔、私が使ってた、ハンカチ……?)
端の刺繍のほつれも同じ。柔軟剤の微かな匂いまで思い出す。
間違いない。
美優のお気に入りだった花柄のハンカチを手にギュッと握り込み、グスグスと泣き続ける少年。
ホームの照明がちらつき、少年の影が揺れる。
人影のないホームに、足音だけが逆再生するかのような奇妙な音を立て遠ざかっていく。
と、その足音と呼応するように、彼の体は、見る見るうちに縮んでいった。
ハンカチを握ったままの爪がやわらかい薄皮へ戻っていく。
ついには赤子。生まれて間もない赤ちゃんにまで。
細い血管が透けて見えるほど透明な肌。
その無防備な背中。
おぎゃあ……
泣いている。その赤ちゃんは声を上げている。
美優にはそれが、別の言葉に聞こえていた。
確かにこう聞こえた。
(助けて……!)
──と。
放ってはおけるはずがない。
思わず手を伸ばす。
だが次の瞬間。
(え……何!?)
美優の脳裏に浮かんだ不気味な少年の顔。
明らかに何かに取り憑かれたような表情。ほぼ青に近い血の気の引いた肌。
眼窩は深くくぼんでいる。
目の周りを真っ黒なクマが囲っている。
その奥から真っ赤な瞳。
こけた頬。
一方で唇だけは血のように赤い。
口の端からは、吸血鬼のような牙――
──でも。
美優は思う。
──この顔、私、見覚えがある!
このフラッシュバックと同時に、美優の体が金縛りのように動かなくなる。
そのまま目の前の赤子は、胎児にまで縮んでいく。
稚魚のように背骨が透け、体は丸め込まれる。
ぬるぬるとした肉体はまったく動かないが、瞳だけが黒くクリクリと上下左右に動く。
だが、涙だけは人間のままだった。
それがぽとり。
また、ぽとり。
へその緒の結び目は“数珠玉”のように連なり、胎児の透けた背中へコツ…コツ…と規則的に当たっていた。
そのたびに、聞こえるはずのない“祈りのささやき”が、どこからともなく重なった。
彼の姿とささやきに、美優の心にはっきりと悲しみが浮かぶ。
その美優に、胎児が語りかけた。
(お母さん、お母さん……)
──お母さん?
誰かと間違われているのだろうか。
(僕は、生まれてもいいの? 本当に、お母さんは、僕が、欲しかったの……? 僕、きっと生まれたら、お母さんを幸せにするよ。わがままも言わないよ。だから、だから……生まれてもいい──?)
そこから無数の黒い手が美優へと伸びてきた。
(いや……!)
だが美優は動けない。
やがて黒い手は、美優の手と言わず脚と言わず、全身のあちこちを掴み、がっちりと捕らえた。
ズズ……ズズ……
胎児のもとへ引きずり寄せようとしている。
(いや、痛いッ! 引っ張らないで!)
必死に抵抗を試みる美優。
その目が何かを見て、ぱっと見開かれた。
胎児の下に。
突如ぽっかりと闇の円が現れたからだ。
(何……!? 穴? でもどうし……あっ!)
胎児はその闇へと落ちる。
当然、美優も胎児ごと引きずり込まれる。
(いや……あ……うぅっ……!)
踏ん張りが利かない。
そのまま美優は、胎児と一緒に闇の中へ落ちた。
頭上の光が遠ざかる。
やがてまったくの闇。
落ちているはずなのに、それすらも分からない。
景色が黒で塗りつぶされているからだ。
音のすべてが死んでいるからだ。
(長い……どこへ続いているの……?)
だが、そこに闇よりも深い闇の影を美優は見た。
それは三本角の山羊の頭を持つ者──
幾何学の線が走る。
それが壊れ、その破片と摂理の歪みが魔法陣となる。
そこから血が滴り落ちる。
二つの光が生まれた。
山羊特有の、横に伸びる瞳孔。
それが金色の光をわずかに放っている。
その山羊頭は美優を見ている。
そして、異様な言葉が放たれる。
『Et…』で途切れ、続いて、『…mueD』『…edīrri』『…teM』『…teM』──
粘ついた声が反対方向へ巻き戻るように響いた。
──逆再生……
美優には、それがラテン語だとすぐに分かった。
神学にも詳しい考古学者の父から、幼い頃からラテン語を学んでいたからだ。
美優が感じたのは、あるラテン語文章。
だが、その逆再生。
なぜ、そこまで明確に分かったのかは美優にもはっきりとしない。
確かその言葉の本来の流れは……
『Mementō, et Deum irrīde(覚えていろ、そして“神”を嘲れ)!』
……だったはずだ。
魔法陣から滴るおびただしい血の雫。
それが鐘の音みたいに周囲の闇を震わせて……
◆ ◆ ◆
「……!」
荒い息を吐きながら目が覚めた。
胸が大きく上下している。
(夢……だったの……?)
ホッとする。
だが安堵する自分と、いまだ夢から感じる不快感から逃れられない。
夢と現実のはざま。そこに今、美優はいる。
とりあえず、動こうとした。
だが、それは“何か”によって阻まれた。
(な、何……?)
腕も、体も、脚すらも、自分の意思から切り離されたように動かない。
最初は夢の続きかと思った。
だが意識が次第にハッキリしていくにつれ、目の前の光景が少しずつ明確になっていった。
下を見て自分の肉体を見る。
動きを妨げるその“何か”を確かめる。
縄だった。
縄で縛られていた──
状況がちょっとずつ分かっていく。
まず、美優は椅子に座らされていた。
その肉体を縄でぐるぐる巻きにされている。
身動きがほぼできないほど、きつく。
その自分の格好も見えてくる。
シラットの道着は脱がされていた。
今はタンクトップ、そして下半身は下着のみ。
寝ている間に脱がされたのだろう。
半裸のまま、椅子に縛られている──
この危機的状況が脳内で警報音を鳴らしてくれ、意識もハッキリとしていく。
呼吸に合わせ鎖骨の間がわずかに凹む。
汗が冷え、皮膚が粟立つ。
椅子の背が肩甲骨に食い込んでいる。
──痛い。
それに。
(寒い――。……ここ、どこ……?)
そこに体温のある声を浴びせられた。
「やあ、おはよう。海野さん」
「…………!」
──聞き覚えのある声だ。
「よく休んでいたよ。疲れは取れたかい?」
幸い、首は回せる。
美優はその声の主を探す。
「だが早速、僕は君に聞かなければならないことがあるんだ」
(あんた……!?)
そして、美優の顔をぬっと覗き込んできたのは、あの──栗落花淳だった。
叫ぼうとした。
だが声はくぐもり、かき消されてしまう。
──猿ぐつわ!?
淳は、美優の前髪を整えてくれた。
だが同じ指先で猿ぐつわをぐい、と押し込んでくる。
さらに呼吸が苦しくなる。
その優しさと暴力の落差が、美優の心に冷たい恐怖を流し込む。
美優は半裸のまま、うー、うー、と言葉にならない声でうめいた。
麻縄が手首の同じ皮膚を何度も擦った痕を残している。
蛍光灯が50Hzで唸り、光が、美優の裸の白い肩で跳ねている。
淳は、その美優の肩の輝きを、うっとりするような目で眺めていた。
床の鉄錆と油の匂い。
それが喉の奥に重く沈んでくるのがさらに苦しい。
苦悶の表情を浮かべる美優に、淳は冷たく言い放った。
「何か言いたいことがあるの? いやダメだ。順序を守ろう。僕が問う、君が答える。それ以外は、僕は認めない。認めないんだから」
どこか違和感がある。
淳が一歩踏み出す。
そこでやっと、美優はその違和感の正体に気付いた。
(……身長、こんなに高かった?)
以前より頭一つ分は高い。肩幅やその他手足も二回りは大きい。
骨格そのものが、短期間で変わっている。
ぞくり、と背筋が冷えた。
(どういうこと……?)
淳が顔を近づけてきた。
お互いの前髪が触れそうなぐらいに。
「なぜだか分かるかい?」
美優は淳を睨みつけ、沈黙で答える。
「僕はね、海野さん。君に失望すると同時に、酷く怒っているんだよ」
何を言っているのか分からない。
一度、淳から視線を逸らす。
周囲を伺う。
──何が私の身に起こってるの……!?
そこは古い倉庫か、地下へ降りた土間のようだった。
奥にはお神輿や太鼓、使われなくなった祭具が無造作に積まれ、薄い埃の膜が月光のように白く光っている。
どこからともなく、土の湿気と古い木材の“腐り香”が漂う。
電球は一つだけで、光が輪郭を震わせている。
その狂った輪郭の中で。
……ここで一体、何が起こったのだろうか。
美優は見た。
大きな血溜まりを。
床に広がった血溜まりは、風のない室内で波紋をつくり、
それがまるで“呼吸”しているかのように、ゆっくりと脈打っていた──




