表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第一章 サバト編~その愛は、死を招く

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/240

第46話 囚われの美優

第46話


 美優が消えた――その瞬間、翔太の胸を締めつけた“冷たい空白”。

 その空白を埋めるかのように、同時刻、美優みゆは──深い闇の底で、夢の中をさまよっていた。


 どこかの空港。


 トランクを携えて、美優に手を振っている父と母。


 両親は何かを話しかけている。

 だが、空港全体が“ミュート”されたように、一切の音が消えていた。

 周囲の人々も、二人の唇も確かに動くのに、だ。

 誰の靴音も、アナウンスも生まれない。

 音が死んでいるようだった。

 そんな中、美優は泣き叫ぶ。


(待って、お父さん、お母さん! 私も、私も一緒に行きたいの!)


 気付けば、美優の心と体は、小学生時代にまで還っていた。


 懸命に叫ぶ。

 だがやはり、音は生まれない。声が届かない。


 父と母は、何かを必死に伝えようとしている。


(何!? 聞こえないわ! お父さん、お母さん、私に何を言おうとしてるの……!)


 だがそのまま父と母は諦めたようにきびすを返し、エスカレーターでゆっくりと下っていった。

 両親の姿が地下へと沈んでいく……


(やだ、行かないで! 私を一人にしないで!)


 ──そこで場面が一気に、切り替わる。


 どこかの地下鉄。

 無人の電車が走り去っていったホームで、ひっそりと泣いている子ども。


(誰……?)


 美優は近づき、声をかけようとする。

 少年は一度だけこちらを振り返り、そして再び背中を丸めて泣き続ける。

 その小さな手には、くしゃりと握られた布切れ――見覚えのある模様が目に入る。


(あれ……)


 美優は気付いた。まさか……でも、あれは確か。


(昔、私が使ってた、ハンカチ……?)


 端の刺繍のほつれも同じ。柔軟剤の微かな匂いまで思い出す。

 間違いない。

 美優のお気に入りだった花柄のハンカチを手にギュッと握り込み、グスグスと泣き続ける少年。


 ホームの照明がちらつき、少年の影が揺れる。

 人影のないホームに、足音だけが逆再生するかのような奇妙な音を立て遠ざかっていく。


 と、その足音と呼応するように、彼の体は、見る見るうちに縮んでいった。

 ハンカチを握ったままの爪がやわらかい薄皮へ戻っていく。

 ついには赤子。生まれて間もない赤ちゃんにまで。

 細い血管が透けて見えるほど透明な肌。

 その無防備な背中。


 おぎゃあ……


 泣いている。その赤ちゃんは声を上げている。

 美優にはそれが、別の言葉に聞こえていた。


 確かにこう聞こえた。


(助けて……!)


 ──と。


 放ってはおけるはずがない。

 思わず手を伸ばす。


 だが次の瞬間。


(え……何!?)


 美優の脳裏に浮かんだ不気味な少年の顔。

 明らかに何かに取り憑かれたような表情。ほぼ青に近い血の気の引いた肌。


 眼窩がんかは深くくぼんでいる。

 目の周りを真っ黒なクマが囲っている。

 その奥から真っ赤な瞳。

 こけた頬。

 一方で唇だけは血のように赤い。

 口の端からは、吸血鬼のような牙――


 ──でも。


 美優は思う。


 ──この顔、私、見覚えがある!


 このフラッシュバックと同時に、美優の体が金縛りのように動かなくなる。


 そのまま目の前の赤子は、胎児たいじにまで縮んでいく。

 稚魚のように背骨が透け、体は丸め込まれる。

 ぬるぬるとした肉体はまったく動かないが、瞳だけが黒くクリクリと上下左右に動く。

 だが、涙だけは人間のままだった。

 それがぽとり。

 また、ぽとり。


 へその緒の結び目は“数珠玉”のように連なり、胎児の透けた背中へコツ…コツ…と規則的に当たっていた。

 そのたびに、聞こえるはずのない“祈りのささやき”が、どこからともなく重なった。

 彼の姿とささやきに、美優の心にはっきりと悲しみが浮かぶ。


 その美優に、胎児が語りかけた。


(お母さん、お母さん……)


 ──お母さん?


 誰かと間違われているのだろうか。


(僕は、生まれてもいいの? 本当に、お母さんは、僕が、欲しかったの……? 僕、きっと生まれたら、お母さんを幸せにするよ。わがままも言わないよ。だから、だから……生まれてもいい──?)


 そこから無数の黒い手が美優へと伸びてきた。


(いや……!)


 だが美優は動けない。

 やがて黒い手は、美優の手と言わず脚と言わず、全身のあちこちを掴み、がっちりと捕らえた。

 

 ズズ……ズズ……


 胎児のもとへ引きずり寄せようとしている。


(いや、痛いッ! 引っ張らないで!)


 必死に抵抗を試みる美優。

 その目が何かを見て、ぱっと見開かれた。

 胎児の下に。

 突如ぽっかりと闇の円が現れたからだ。


(何……!? 穴? でもどうし……あっ!)


 胎児はその闇へと落ちる。

 当然、美優も胎児ごと引きずり込まれる。


(いや……あ……うぅっ……!)


 踏ん張りが利かない。

 そのまま美優は、胎児と一緒に闇の中へ落ちた。

 頭上の光が遠ざかる。

 やがてまったくの闇。

 落ちているはずなのに、それすらも分からない。

 景色が黒で塗りつぶされているからだ。

 音のすべてが死んでいるからだ。


(長い……どこへ続いているの……?)


 だが、そこに闇よりも深い闇の影を美優は見た。

 それは三本角の山羊の頭を持つ者──

 幾何学の線が走る。

 それが壊れ、その破片と摂理の歪みが魔法陣となる。

 そこから血が滴り落ちる。


 二つの光が生まれた。

 山羊特有の、横に伸びる瞳孔。

 それが金色の光をわずかに放っている。

 その山羊頭は美優を見ている。

 そして、異様な言葉が放たれる。


『Et…』で途切れ、続いて、『…mueD』『…edīrri』『…teM』『…teM』──


 粘ついた声が反対方向へ巻き戻るように響いた。


 ──逆再生……

 

 美優には、それがラテン語だとすぐに分かった。

 神学にも詳しい考古学者の父から、幼い頃からラテン語を学んでいたからだ。


 美優が感じたのは、あるラテン語文章。

 だが、その逆再生。


 なぜ、そこまで明確に分かったのかは美優にもはっきりとしない。

 確かその言葉の本来の流れは……


『Mementō, et Deum irrīde(覚えていろ、そして“神”をあざけれ)!』


 ……だったはずだ。


 魔法陣からしたたるおびただしい血の雫。

 それが鐘の音みたいに周囲の闇を震わせて……


 ◆   ◆   ◆


「……!」


 荒い息を吐きながら目が覚めた。


 胸が大きく上下している。


(夢……だったの……?)


 ホッとする。

 だが安堵する自分と、いまだ夢から感じる不快感から逃れられない。

 夢と現実のはざま。そこに今、美優はいる。


 とりあえず、動こうとした。


 だが、それは“何か”によって阻まれた。


(な、何……?)


 腕も、体も、脚すらも、自分の意思から切り離されたように動かない。

 最初は夢の続きかと思った。

 だが意識が次第にハッキリしていくにつれ、目の前の光景が少しずつ明確になっていった。

 下を見て自分の肉体を見る。

 動きを妨げるその“何か”を確かめる。


 縄だった。


 縄で縛られていた──


 状況がちょっとずつ分かっていく。

 まず、美優は椅子に座らされていた。

 その肉体を縄でぐるぐる巻きにされている。

 身動きがほぼできないほど、きつく。


 その自分の格好も見えてくる。

 シラットの道着は脱がされていた。

 今はタンクトップ、そして下半身は下着のみ。

 寝ている間に脱がされたのだろう。

 半裸のまま、椅子に縛られている──

 

 この危機的状況が脳内で警報音を鳴らしてくれ、意識もハッキリとしていく。

 呼吸に合わせ鎖骨の間がわずかに凹む。

 汗が冷え、皮膚が粟立つ。

 椅子の背が肩甲骨に食い込んでいる。

 ──痛い。

 それに。


(寒い――。……ここ、どこ……?)


 そこに体温のある声を浴びせられた。


「やあ、おはよう。海野さん」

「…………!」


 ──聞き覚えのある声だ。


「よく休んでいたよ。疲れは取れたかい?」


 幸い、首は回せる。

 美優はその声の主を探す。


「だが早速、僕は君に聞かなければならないことがあるんだ」


(あんた……!?)


 そして、美優の顔をぬっと覗き込んできたのは、あの──栗落花淳つゆりじゅんだった。

 叫ぼうとした。

 だが声はくぐもり、かき消されてしまう。


 ──猿ぐつわ!?


 淳は、美優の前髪を整えてくれた。

 だが同じ指先で猿ぐつわをぐい、と押し込んでくる。

 さらに呼吸が苦しくなる。

 その優しさと暴力の落差が、美優の心に冷たい恐怖を流し込む。


 美優は半裸のまま、うー、うー、と言葉にならない声でうめいた。

 麻縄が手首の同じ皮膚を何度も擦ったあとを残している。

 蛍光灯が50Hzで唸り、光が、美優の裸の白い肩で跳ねている。

 淳は、その美優の肩の輝きを、うっとりするような目で眺めていた。


 床の鉄錆てつさびと油の匂い。

 それが喉の奥に重く沈んでくるのがさらに苦しい。

 

 苦悶の表情を浮かべる美優に、淳は冷たく言い放った。


「何か言いたいことがあるの? いやダメだ。順序を守ろう。僕が問う、君が答える。それ以外は、僕は認めない。認めないんだから」


 どこか違和感がある。

 淳が一歩踏み出す。

 そこでやっと、美優はその違和感の正体に気付いた。


(……身長、こんなに高かった?)


 以前より頭一つ分は高い。肩幅やその他手足も二回りは大きい。

 骨格そのものが、短期間で変わっている。

 ぞくり、と背筋が冷えた。


(どういうこと……?)


 淳が顔を近づけてきた。

 お互いの前髪が触れそうなぐらいに。


「なぜだか分かるかい?」


 美優は淳を睨みつけ、沈黙で答える。


「僕はね、海野さん。君に失望すると同時に、酷く怒っているんだよ」


 何を言っているのか分からない。

 一度、淳から視線を逸らす。

 周囲を伺う。

 

 ──何が私の身に起こってるの……!?


 そこは古い倉庫か、地下へ降りた土間どまのようだった。

 奥にはお神輿みこしや太鼓、使われなくなった祭具さいぐが無造作に積まれ、薄いほこりの膜が月光のように白く光っている。

 どこからともなく、土の湿気と古い木材の“腐り香”が漂う。

 電球は一つだけで、光が輪郭を震わせている。


 その狂った輪郭の中で。


 ……ここで一体、何が起こったのだろうか。


 美優は見た。


 大きな血溜まりを。


 床に広がった血溜まりは、風のない室内で波紋をつくり、

 それがまるで“呼吸”しているかのように、ゆっくりと脈打っていた──

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ブクマ・ポイント評価お願いしまします!
小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ