第43話 「白い女」再び
第43話
まず仕掛けたのは、意外にも翔太からだった。
床を蹴り、一気に間合いを詰める。
美優は目の前に来た瞬間、右脚を頭上より高く掲げる。
そのつま先を蛇の鎌首のように細かく揺らして牽制を始めた。
美優は158センチ、翔太は173センチ。身長差は約15センチ。
その差を埋めるように、美優は右脚を頭上まで掲げたまま固定していた。
脚のリーチは腕より長い──単純だが絶対の理屈だ。
剣道で言えば「上段」。
不用意に踏み込めば踵落とし。
あるいは足の甲で顔面を“平手打ち”の角度で払われる。
美優は、翔太が踏み込もうとするたびに、掲げた右脚の角度だけで軌道を塞ぐ。
つま先の揺れに微妙なフェイントまで混ぜ、懐へ入る“入口”そのものを消していた。
シラットは、そもそも体格差を打ち消す設計だ。
また拳は折れやすいため、体の硬い部分……肘や膝などを多く利用。
また相手の力を逆利用する技や、テコの原理を利用した技など多彩な手で大男を倒す。
美優はその基本をやって見せている。
足先の回転で、踏み込みのタイミングを常に遅らせてくる。
慎重に距離を取ってはいる。
だが本来、美優は近接戦の方が強い。
美優の作戦は、右脚で牽制。
隙を見て、翔太のリーチ内に潜り込むこと。
だが翔太も承知済み。
敢えて飛び込む。
乾いた足音を残し、翔太はあえて“危険圏内”へ踏み込んだ。
右脚が落ちてくる前の一瞬──そこしかない。
パーン!
そんな翔太のヘッドギアを美優は脚の裏でこづいた。
(引き剥がされた……! それなら……)
翔太は頭を左右に揺さぶり始める。
狙いをずらすためだ。
だが美優はその上を行った。
一瞬で“揺れの周期”を読んだ。
狙いをずらすどころか、翔太が頭を振った“その反動”すら逆手に取った。
振れた方向へピシャリと足裏を当ててくる。
(……近づかせてもくれない)
完全に攻めあぐねだ。だが、この防御は美優が翔太を警戒している表れでもある。
(ということは)
翔太は大胆な大技で対抗しようとする。
(逆にこれなら、どうだ?)
強く床を蹴った。美優の掲げた右脚と“同じ高さ”まで。
頭上まで上がった美優の右脚。
空中でその脚に腕と脚を絡め、関節ごと固定する体勢へ持ち込む。
脚の裏を美優の首へ。そこで体重を載せ、強引に固定。
首が動かない美優を、遠心力の渦に引き込むように自らの体を回転。
これは、効いた。
「く……!」
回転させられた美優の体は、翔太ごとうつ伏せに落ちる。
だが肘と膝のやわらかさを利用し、衝撃を殺して受け身を取る。
まるで猫の着地のような機敏さ。
(よし!)
ここを狙っていた。
すぐさま翔太は、体勢の崩れた美優の肩を決めにかかった。
だが美優はさらに上手を行った。
翔太が肩を決めようとした方向へ、自身の体を回す。
(上手い……!)
翔太の力が逃がされ、美優の肩が自由になる。
それで終わる美優ではない。
美優の足裏が弾かれるように伸び、ヘッドギアの面を正確に撃ち抜いた。
しかも視界の端から。
のけぞるほどの衝撃。
たまらず美優から体を離した。
まずは体勢を整える翔太。
これを逃さず、間合いを詰めてきた美優が縦肘を下からアッパー気味に入れる。
あごを跳ね上げることで、かわす翔太。
それを予知していたかのように美優は回転しながら後ろ手で首を取った。
腰を落としつつ膝に絡める。
柔道の一本背負いを思わせる足さばきを見せる。
そして思うがままに、前方へと投げられてしまった。
空中で姿勢を整えながら、翔太は内心舌を巻く。
筋力差が逆転しているのに、
技だけでここまで投げられるのか──
(……くそっ!)
だが、簡単に負けるわけにはいかない。
翔太は体を捻り、両足でバランスよく床に着地した。
体幹の強さには自信がある。
(ここからだ!)
翔太は着地の勢いを殺さず、美優の右腕へ素早く絡みついた。
首筋を押し下げながら、右手で美優の首筋を下に押す。
そこから体重をかけて、肩関節を背側へ捻り込むロックへ持ち込んだ。
ブラジリアン柔術の「オモプラッタ」系の制し技——肩を決め背側へねじる「ハンマーロック」だ。
関節を決めたまま、美優の体にのしかかる。
通常、このまま全体重で床へ押し込むと、相手の肩関節は外れてしまう。
だがここでもまた、美優は器用な返し技を見せた。
美優は床を蹴って後方へ回転。
肩に掛かった負荷を完全に流す宙返りだ。
そして、着地と同時に構えが戻る。
(ウ、ウソだろ……)
美優は、さらにバク転を繰り返し距離を取った。
次の翔太の意外な攻めを警戒してのことだ。
──強い。
改めて翔太は感じる。
「今のはかなり危なかったわ」
美優が笑った。
「そう言えば、翔太くん、絡め手で攻めるのも得意だったものね」
「あの肩のロックを外すなんて反則だろ」
憤慨するように翔太は言う。
「何言ってんの。私だって、いろいろ修羅場くぐってんの」
「俺の絡め手が来るって分かってたのか?」
「翔太くんの技のキレは知ってるからね」
「じゃあ次は読まれないようにしなきゃな」
「どうかしら?」
言うやいなや、また美優が突進してきた。
今度はお互い両足で立っての正面からの撃ち合いだ。
肘、膝、掌底、拳。
激しい打撃戦。
互角。
二人の技の応酬は続く。
激しい打撃の応酬の最中にも関わらず、美優は呼吸を乱さぬまま笑い、言う。
「翔太くん……ほんと、強くなったね」
「そっちこそ、体がなまってるなんて、まったくの、う、嘘じゃ、ねーか……!」
負けずに翔太も答える。だが、その言葉に余裕はない。美優の動きが早すぎるのだ。
「でも翔太くん、まだ手加減してる!」
美優は燃えるような目で翔太を見た。
(よく、この動きで喋れる……!?)
そう思いつつ、圧されているのを隠すため短く言葉を発す。
「いや、本気」
「嘘!」
と瞬時に翔太に背を向けてかがんだ。
「なめてると痛い目に遭うわよ!」
そこから繰り出された美優の後ろ回し蹴りが、翔太にヒット。
翔太はアームロックの要領で肘で受ける。
ビリビリと衝撃が伝わる。
だが耐えられる。
子どもの頃だったらこれで吹き飛ばされていたのに。
確かに。
翔太は思う。
今は体格も筋力も翔太の方が上だ。
知らず知らずのうちに、全力を出しきれてなかったのかもしれない。
しかも相手は美優だ。
どこかで力をセーブしている……?
(気合入れ直し!)
やはり美優はそのへんの不良学生とは違う。
これまでの闘い方では、確実に甘い。
翔太は考えた。
まずは蹴り。太腿、すぐ脇腹の二段。
この翔太の技は美優もよく知っている。
そこが狙い目だ。
ゆえに翔太はその二段蹴りを出した。
美優は肘で、その両方を見事受けきる。
そして。
美優は大技で無防備になった翔太の胴へ、縦肘を下からえぐる軌道で放つ──
翔太はその瞬間を待っていた。
「……今!」
翔太はすぐさま膝を引き寄せた。
そして肘を軽く合わせて美優の肘の軌道を外へ流す。
美優も称賛する翔太のスピード、技のキレ。そこに翔太のアイデアが加わった。
美優の表情に焦りが浮かんだ。
肘を流され、今度は逆に、美優の腹ががら空きになったからだ。
めがけて翔太は、思い切り前蹴りを突き上げた。
(嘘……三段!?)
美優が気づいた時には遅かった。
芯を食った前蹴り。
翔太の全体重を掛けた蹴りで、美優を完全に浮かせる。
体格差がものを言った。
美優の視界が一瞬、天井を向く。
完全なる油断だった。
(でもまだ! まだやれる!)
そう思った途端、美優の体は道場の壁へ叩きつけられた。
計算通り。
バランスを取り戻す時間を与えない壁際の攻防。
(……つっ!)
打撲の痛みに顔をしかめながらも、美優は膝のバネで跳ね起きるように立ち上がり、再び構えた。
(やるじゃん)
美優はうれしくなった。
そして次の美優の技にも翔太は応じ──
◆ ◆ ◆
十五分以上は戦っていただろうか。
ハアハアと肩で息をする二人。
睨み合って、二人が硬直した数十秒後。
美優はヘッドギアを外し、汗を拭いながら言った。
「……負けたわ」
翔太は肩で息をしながら、首を横に振る。
「いや、ほぼ互角だろ、これは」
翔太も荒い息をしながらヘッドギアに手をやる。
「ううん。わかるの。翔太くん、まだ成長期でしょ」
美優は次々と防具を外していく。
「もし、プロテクターがなかったら……。そしてもっと翔太くんが大きくなって、さらに筋力がついたら」
美優の顔は笑っているが、悔しさが滲み出している。
「体格差がこれからもっと開く。その時、私は──勝てなくなるかも」
負けず嫌いの美優の性格を翔太はよく知っていた。
ここは肯定も否定もしないのが無難だ。
そう思っていた翔太の腹に、美優の縦肘がめり込んだ。
プロテクターを外した、その腹へ──
「う……!」
「隙あり。……否定しなさい、ば~か。次は負けないんだから!」
翔太は痛みで顔をゆがめつつ、笑った。
◆ ◆ ◆
道場を出てサンダルを履き、汗のにじむ足で庭を渡って玄関へ向かう二人。
外には、雨上がりの冷えた空気が残っていた。湿った土と木の匂いが、汗ばんだ肌に心地よい。
「すっかり汗だくになっちゃった。先、お風呂いい?」
「うん」
「シャワーだけで早めに上がるから」
「ゆっくり湯船に浸かっててもいいよ」
「ダメ。それじゃ翔太くんが風邪引いちゃうでしょ」
「そんなヤワじゃないさ」
翔太は、少しだけ照れ隠しのように話題を変えた。
「でもやっぱり、美優は強いな」
「当たり前」
「もっと楽に勝てるかと思ったよ」
その間、美優は首元をつまんで、パタパタと道着の中に空気を送っていた。
そのささやかな仕草を見て、翔太は思わず赤面してしまった。
(見えてる……)
美優の胸元が。
見てはいけない、見てはいけないと思うのに、どうしようもない。
目が勝手に吸い寄せられる。
たまらず声が漏れた。
「だ、だめだ、美優、胸元!」
美優はキョトンと目を丸くした。
「あ、これ?」
自分の道着の中を、ひょいと覗き込む。
「大丈夫、タンクトップ着てるから」
「い、い、いや、そういう問題じゃ、な、なくて……」
「じゃ、どういう問題よ」
美優はからかいながら、そのオドオドしている様子に、ふっと小学生時代の翔太を重ねる。
いじめられていた頃の、頼りなげな横顔。懐かしくて、少し愛おしい。
(こういうところは──変わってないのね……)
美優の胸が、思い出でぽかぽかとした。
小学生時代。
私がこの子を守らなきゃ、と思った。
あの頃の私は、まるで翔太のお姉さんのつもりだった。
でも今は……。
自分より高い身長。たくましい胸板。性格そのものは、それほど変わってないと思う。
だけど、彼は。
──“男”になった。
あの頃の翔太はもういない。
もちろん、翔太が強い男に育ったのはうれしい。かと言って、性格が強気になったわけでもない。
子どもの頃に受けたいじめの心の傷。そして両親を亡くしたこと。
どこか傷ついている寂しさは、入学式で見かけたあの頃から変わらない。
その記憶に、桜の花びらが重なるように舞い落ちる。
(結局、私はいまだに翔太くんのお姉さんグセが直ってないのね)
少し頬を赤くしながら、美優は思った。
翔太の成長がうれしいような、そして同時に、どこか寂しいような……。
(…………!?)
その目が、一瞬、奇妙なものを捉えた。
(え……!?)
胸の奥に、不穏なものが一気にせり上がる。
(これ……)
そう、美優が感じたのは“視線”。
自室で着替えていた時に感じた、あの“視線”と“気配”。
まただ。
また、誰かが私を“見ている”──!
(どこ!?)
雨上がりの庭石が、街灯に濡れたように光っている。
庭の塀の向こうに目をやる。
その道路。
電信柱の影。
(何かいる!)
そこにいたのは──
白い異国の服をまとった、薄気味悪い女だった。
美優にとっては、これが初見だ。
翔太と瑚桃、デルピュネーが対峙した“白い女”。
『ラ・ヨローナ』──
真っ黒な目が、大きく見開かれる。
そして、にたり、と笑った。
美優の背筋が、一気に固くなる。
昼間の翔太の家の庭。この塀の先の道路に“白い女”が現れた。
【撮影】愛媛県八幡浜市「大法寺」




