第42話 翔太VS美優
第42話
翔太の家の食卓。奥にキッチンがある。
「キュウリにセロリ、キャベツ、にんじん、ミニトマト、カブ……あ、パプリカもある。これは『イーグル』のちゃんぽんセットの残りね。早めに食べないと。芽瑠ちゃんにはセイヨウカラシナはまだ辛いか。よし、浅漬けはこれで決まり」
海野美優は冷蔵庫から食材を取り出し、まな板と包丁を用意して、てきぱきと刻み始めた。
「何を作ってるんだい、美優。君がキッチンに立つなんて珍しいじゃないか。……おや? 今日は、じゃこ天の匂いがしないね?」
背後から、怪猫シャパリュがふわふわと浮かびながら覗き込んでくる。
「お漬物というものだそうです、シャパリュさま。ピクルスやサワークラウトのようなものとお考えくださいませ。この国の伝統食にございます」
デルピュネーは美優の横でレシピ本を開き、豚汁を作ろうとしていた。
「へえ、それは楽しみだな。僕もご馳走になってみるとするよ」
シャパリュは猫の姿をしているくせに人間の食事が大好きで、ナイフやフォーク、箸さえも使いこなす。おてては肉球なのに、と美優はいつ見ても不思議に思う。
「美優さま、豚汁の具は豚肉以外、さまざまあるようですが、何がよろしいでしょうか」
「そうね。冷蔵庫にあるもので考えると、麦味噌と赤味噌はあったから……大根、人参、ゴボウ、白菜。あと私は、お豆腐とじゃこ天が入ってるのが好き」
「じゃこ天でございますね。美優さまは本当に、あの魚の練り物がお好きですね。ですが……お豆腐? お豆腐とは何でございましょう」
「ああ、お豆腐はまだ知らないか。近所のコンビニにあったはずだから、買ってきてもらおうかな」
じゃこ天はこのあたりの昔ながらの味だ。いわゆる揚げかまぼこの一種で、魚の町・水城では夕飯の味噌汁に入っていることも多い。
(じゃこ天は知ってて、お豆腐は知らない……やっぱりデル、人間じゃないんだなあ)
美優は少しおかしくなる。
「あ、そうそう。『岩下の新生姜』も買い足しておいて。スライスのやつ。その間に、豚汁の具は私が切っておくから」
「美優さまは本当に、あのピンクのジンジャーのお漬物がお好きなのですね」
「口の中がスッキリするし、勉強してるときの“口さみしい”のにもね。なんだか頭もシャキッとしてくるの」
「そうでございますか。ではわたくしは行ってまいりますね」
「あ、最低六パック」
「承知しました、美優さま。では、デルはお買い物の任務を遂行してまいります」
デルはエコバッグを手に取る。その所作は、もうすっかり人間と変わらない。
「お願いね」
美優は野菜を刻みながら、デルの背中を見送った。
(それにしても、デル。あのメイド服でいつも外出してるなんて……あの格好でレジに並んでるの、絶対目立つよね)
銀髪に整った顔立ち、エメラルドグリーンの瞳。
(私だったら恥ずかしくて一歩も外に出られない。まあ、デルに“恥ずかしい”なんて感情はなさそうだけど)
美優はふっと微笑んだ。
その笑みの奥で、ふいに思い出す。
──自室で感じた、あの“視線”。
確かに、何者かに見られる気配と、“憎悪”があった。
気のせいなら、それでいい。けれど、あれはどうしても頭から離れなかった。
「あっ、お兄ちゃん、遅いー!」
「そうだ、遅いぞ翔太。芽瑠がお待ちかねだ!」
芽瑠とシャパリュの声に呼ばれて、翔太はリビングキッチンへ足を踏み入れた。
いつもの部屋着だ。紺色の綿麻のセットアップ。一見、甚平みたいで、トップスは肘まで隠れる半袖、パンツは膝下までのゆったりした形。
「あれ、美優……? 今日はキッチンに立ってるのか。デルじゃなくて……? あ。いや、その……でもまあ俺よりずっと上手いだろうし……」
(……今の、ちょっと地雷踏んだって気づいてる顔だ)
慌てて手を振る翔太が、少しだけかわいかった。
「あ? さては私が料理なんてできないと思ってた? どれぐらい一人暮らししてきたと思ってるのよ。今日は、芽瑠ちゃんのリクエストで和食を作ってるの」
「デルは買い物さ」
とシャパリュが代わりに答える。
「また、じゃこ天と『岩下の新生姜』?」
「またって何よ」
「い、いや、なんでも……」
「そりゃ、冷蔵庫を『岩下の新生姜』で占拠しちゃって悪いとは思ってるけど、頼んだのはそれだけじゃありません。今日はね、豚汁を作ってあげるから」
「へえ。久しぶりの和食だな」
「じゃこ天入れるけど、好き?」
「あ、うん。そっちの方が麦味噌には合うし」
「お兄ちゃん、お兄ちゃん。タブレット! ゲームやろ、ゲーム」
「う~ん……。よし、やるか。今日は負けないぞ」
芽瑠がおねだりし、翔太があっさり折れる。
(……相変わらず、芽瑠ちゃんには甘いな)
美優はその光景に、思わず口元をゆるめた。今夜の夕食は楽しくなりそうだ、と。
◆ ◆ ◆
食後。
「美味しかった~。美優お姉ちゃんありがとね」
芽瑠は漬物をほとんど一人でたいらげ、今はゲーム機を抱えていつものソファで遊んでいる。
デルはダイニングテーブルに座り、『はじめての和食』というレシピ本をじっと読んでいた。作り方を丸ごと覚えるつもりらしい。
別のソファには、翔太と美優が並んで座っている。
同じタイミングで足を組み替え、「……シンクロした」と美優が笑い、翔太も苦笑した。
(……クラスのやつらには絶対言えないな。そもそも、話す相手もいないけど)
胸の奥が、少しだけむず痒くなる。
テレビは教養系ドキュメンタリーで、今日のテーマは海洋生物だった。
それをぼんやりと眺めながら、二人はくつろいでいる。
脚を組み、その膝の上で頬杖をつくのが美優のクセだ。
翔太は頭の後ろで手を組み、ソファに深くもたれかかる。
(……横目で見えるだけだけど、やっぱり大人っぽくなった)
テレビの画面では、おぞましく長い触手を海中でたなびかせながら泳ぐカツオノエボシが映っていた。
(子どもの頃から可愛いとは思ってたけど……ここまで“ちゃんと綺麗”になるなんて、誰が想像したよ)
「ねえ、翔太くん」
そこでふと、美優に話しかけられ、翔太の肩が跳ね上がった。
「ん、んん……!? あ、うん? な、何だろう」
そこで美優がこちらを向く。
(なんだ、このタイミングで真面目な顔……?)
「ちょっと、手合わせ……してみない?」
「手合わせ?」
思わず聞き返す。
「シラット」
と、美優は答えた。
「私、知ってるよ。翔太くん、今も毎晩、練習してるでしょ。たまには実際の相手がいたほうがいいかなって、思って」
ちょっと男の子な妄想が頭をよぎったのが恥ずかしい。
「なんだ、知ってたのか」
(……見られてたのか。恥ずかしいような、でも、ちょっと嬉しいような)
「うん。すごく力強くなってた。その強さ、この体で感じてみたいのよね」
「防具あり?」
「防具あり」
「じゃ、ガチのやつだ」
「ガチのやつ」
そして美優はにっと笑った。
(本気で来る気だ……)
その笑顔から分かる。
「私もこの家に来てから練習してないから。体がなまっちゃってるのよね」
◆ ◆ ◆
そして数時間後。
芽瑠を寝かしつけた後、翔太はシラットの道着に着替えた。
白の長袖シャツのようなトップスに下は黒。赤い帯。
道場には同じ格好をした美優がおり、すでに防具を装着している。
翔太もすぐ隣に立ち、防具を装着する。
顔の部分が透明なヘッドギアに、胴体や金的を守るプロテクター。
肘と膝には衝撃を和らげるクッション。
拳にはグローブ。
二人で向き合う。互いに礼をする。
「小学生の時は、一度も美優に勝てなかったからな」と翔太。
「でも技のキレとスピードは、翔太くんの方が上だった」
美優が構えを取りながら言う。
「言っておくけど」
美優の目がきゅっと厳しくなる。
「私、勝つ気でいるからね」
「それは、俺もそうだけど」
小学生の頃の組み手が、鮮やかによみがえる。
美優は本当に強い。
(俺がいじめられてたときも……男子より、美優の方が圧倒的に強かった)
美優の父が世界を飛び回るようになってから門下生は減り、いまや『海野流体術』の看板だけが残っている。それでも当時の美優は、小学生女子ながら中学生の男子にも余裕で勝ってしまう腕前だった。もちろん翔太も、勝ったことはない。
(今の俺なら……少しくらいは、届くのか?)
──“壊す力”じゃなくて、“ちゃんと強い”ってところを、美優にだけでも見せられたら!
「今現在、どっちが強いか……勝負よ!」
美優は床を蹴った。いきなり闘いのゴングが鳴った。
あまりの突然の始まりにやや臆しながらも翔太も飛び出す。
翔太だって、男だ。負けたくない。
幼なじみ二人の、“成長してから初めての本気”が、いよいよ始まる──




