第41話 誰かが覗いてる…!
第41話
それからも、失踪は途切れることなく続いた。
星城学園でも、放課後の部活動は短縮され、夜間外出は自粛へ。
集団下校の推奨に加え、どんな些細な情報でも担任か警察へ届けるよう、学園長が全校集会で念を押した。
PTAは自警団を立ち上げ、市もそれを容認した。
県庁からは飲食店へ深夜営業の自粛、従業員の帰宅安全の確保、不審者報告の義務化が通達された。
しかし、夜の灯りが消えるほどに、
“逆に危険を呼ぶのではないか”という声も上がり始めた。
特に飲食店は死活問題で、市民のあいだに小さな亀裂が生まれていた。
市民の間に分断が生まれた。
街は、静かに“音の底”へ沈みつつあった。
◆ ◆ ◆
季節は梅雨入り前。紫陽花が赤や青、紫の影をまとい始め、
水城の街はしっとりと色づきつつあった。
「ただいま~」
しとしと降る雨の中、美優が傘を畳む。
玄関に入る前に、傘の先を二度だけ軽く振り、水滴を丁寧に落とした。
今日も吉川りこと二人、連れ立って帰ってきた。
翔太の住む教会は、ちょうど星見山の麓あたりにある。帰宅まで10分もかからず、しかも“結界”で守られた土地。だから「大丈夫だろう」とたかを括っていた。
そこから、りこの家までは人通りの多い住宅街。特に問題はないはずだ。
この土地は、外よりもわずかに空気が澄んでいる──
そんな気配を、美優はいつも感じていた。
教会から、デルピュネーと翔太の妹の芽瑠のはしゃぐ声が聞こえていた。
「デル~! 見て見て、私、早~い!」
「ダメですよ、芽瑠さま。そんなに走っては、転ぶかもしれませんし、床に汚れが残ってしまいます」
どうやら雑巾がけで礼拝堂の床を掃除しているようだ。
雨音とは別に、家の中だけ少し明るい──そんな気がした。
(まったく、かわいいんだから)
「あ、痛ッ!」
「ほら、芽瑠さま。せっかくの立派なマリア像が倒れてしまいます。どうぞ、走るのをおやめください」
思わず美優は微笑んだ。
そのまま廊下を歩き、自らにあてがわれた客室へと進む。芽瑠とデルピュネー以外の声は聞こえてこない。どうやら翔太はまだ帰ってきてないようだ。
部屋に入ってドアを閉めた。そして、制服を脱ぎ始める。
高校生になって最初に翔太の家を訪れた時は、わざと目立たないようなボーイッシュな服装でキャップで顔を隠すようにしていた。
だが。
(今日は、どれにしよう……)
自分の家でないことは、やはりストレスにもなる。もし自宅であるなら、パジャマでもいいし、最悪ジャージでも構わない。だがさすがに、翔太や芽瑠、デルピュネーやシャパリュといった他人の目があるとそうはいかない。
美優だって年頃の女の子だ。幼馴染とはいえ同級生の男子がいる場では、やはり、可愛い格好をしておきたい。
そう思って、顔を赤らめてしまった。
(いや、別に翔太くんに見せる為じゃないんだからね……)
脱ぎながら美優は、「今日は、黒の七分袖のシャツに、腕のピンクラインのトップス。下は、白のオーバーサイズの七分丈。横に黒い細いライン」と、ややスポーティーな部屋着にすることに決めた。
部屋に置かれた本棚には父親から影響を受けたCDが多く入っている。
70年代から90年代初頭の音楽が多く、「セックス・ピストルズ」などのパンクから「プライマル・スクリーム」や「ミニストリー」「マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン」などのフジロック系。そのほか、JAZZやピアノ系のクラシックも多く、ベートーヴェンやバッハ、ラヴェル、ショパンなどのタイトルが並んでいる。
特に、ピアニストのフリードリッヒ・グルダのピアノソナタは、いかに邪道と言ってもお気に入りだ。
一番好きなアーティストは「NIRVANA」。
最新の音楽はサブスクで。ボカロなどはYouTubeで補完していた。
サブスクだけでは、美優の好きな音楽をすべて網羅できないのだ。
それは、好きなアーティストの時代が古いので仕方ないことでもあった。
美優は下着姿になった。
今日は体育の授業があったので、下着も汗で汚れているかもしれない。
ブラを外し、パンツも着替える。
足首まで下着を下ろした、その瞬間だった。
「──!」
美優は何者かの視線を感じた。
「誰っ!?」
だが。
部屋は静まり返っている。
ドアは完全に閉まっており、窓にはカーテンが引かれている。
しかし、ほんの少しの隙間を見つけ、美優は手で胸を隠しながらカーテンを閉めた。
(おかしい)
妙な視線は消えない。
部屋を見渡してみる。
壁、天井、床。
特に穴が空いているなどの不自然な点はない。
だが一つだけ気になることがあった。
(静かすぎる)
静寂というより、深い闇の底に沈んでいく感覚。深海に1人、取り残されたような寂しさ。だからこそ、感じられる、何者かの息遣い……。
背筋がゾッとした。
廊下の足音や生活音が、一瞬だけ真空に吸われたみたいに消えた。
静けさの“厚み”が、余計、耳に触れた。
(大丈夫……よね……?)
自分で自分に語りかける。少なくとも、ここに“人間は”いない。いない、はずだ。だが、ここは結界で守られている。
逆に言えば。
いるとすれば、それは“人間”なのだ。
◆ ◆ ◆
さきほどまで感じていた“誰かの視線”が、まだ胸の奥にざらつくように残っている。
美優は、思考の端がほどけていくような混乱を覚えていた。
ここ数週間、説明のつかない出来事が続いている。“何か”が潜んでいても不思議じゃない──。
……それでも、ただの気のせいだと思いたかった。
そう思わないと、日常が軋んでしまいそうだった。
想定していた黒のシャツと白のパンツを手に取り、急いで袖を通す。
パンツに足を入れかけた、その時──
ふ。と。
背中に貼りついていた“憎悪の気配”が、突然、薄膜のように剥がれ落ちた。
まるで、こちらから興味をそらした……そんな直感が、美優の皮膚だけを先に冷やした。
……それが、余計に怖かった。
息を飲む音さえ、部屋に響きそうで。
その時。
ドアが開いた。
「え……!」
「美優お姉ちゃ~ん!」
まだパンツを履ききれていない。下着姿のまま。
心臓が跳ね上がり、指先が少し震えた。
芽瑠は駆けてきて、そのまま美優の脚に抱きつく。
無邪気なぬくもりが、さっきまで漂っていた“冷気”を一瞬だけ押し返した。
「ちょ、ちょっと待って、芽瑠ちゃん、私、まだ着替え中……!」
「美優お姉ちゃん、私、美優お姉ちゃんが帰ってくるの、待ってたの」
ぐりぐりと太ももに頭をこすりつけてくる芽瑠。
その仕草があまりにも生活の音を取り戻してくれて、胸がほっとした。
ふと視線をあげると、ドアの外にはデルピュネーが控えていた。
目が合うと、デルはいつものように静かに頭を下げた。
その静けさは、まるで礼拝堂の空気のように穏やかで揺るぎない。
「分かった! 分かったから、ちょっと待ってて!」
美優は慌てて白いパンツを腰まで上げた。
そして芽瑠を抱えあげると、子どもの体温が手に心地よく伝わってくる。
「さあ、これで大丈夫。どうしたの? デルと教会で遊んでたんじゃないの?」
「芽瑠、今日の夜はお漬物が食べたいの」
と芽瑠はべそをかく。
その涙ぐむ目が、思わず抱きしめたくなるほど正直で愛おしい。
「デルちゃんのご飯、美味しいんだけど、今夜は白いご飯に、お漬物がいい。洋食は今日はもういいの」
デルの方を見ると、いつもと変わらない無表情。
そこに“気にする”という感情がないのは、美優もよく知っている。
(そっか……。人間じゃないものね。そんなことで傷つかないか)
美優は芽瑠に向き直った。
「分かった。じゃあ今日は、デルにちゃんと白いご飯を炊いてもらう。お漬物は私が用意するわね」
確か、「浅漬の素」がまだ冷蔵庫にあったはずだ。
「やったー!」
と、抱え上げられたままで芽瑠はバンザイした。
抱いた小さな体の温度に、美優は胸がじんわりした。
血はつながっていなくても、芽瑠はもう“守りたい家族”だと思えた。
もし、私に妹がいたら──
きっと、この感情のもっと深いところまで知るのだろう。
玄関のほうから、男の子特有の少し低くなった声が聞こえる。
「ただいまー」
翔太だ。
「あっ! お兄ちゃん!」
聞き慣れたはずのその声。
でも今日は、なぜか胸の奥に小さく届く響きが違って聞こえた。
その理由が分からないまま、美優は一瞬だけ視線をそらした。
だが。
美優は芽瑠をおろし、その肩にそっと手を置く。
「さ。お兄ちゃんも帰ってきたわよ。今からお漬物作ってあげるから、キッチンへ行こうね」
「は~い!」
芽瑠は大喜びで走り去り、デルが落ち着いた様子でそのあとを追う。
その背中を見送りながら、美優の胸には、妙な不安と、行き場のないストレスがじわりと積もっていく。
(今夜は……ちょっと、翔太くんに、手合わせしてもらおうかな…………)
棚に置かれたシラット用の道着が、視界の端で静かに揺れた気がした。
高校生になってからの翔太とは、まだ拳を交えたことがない。
果たして、どれほど強くなっているのだろう。
幼い頃の技のキレ、飲み込みの速さ。
美優の目から見ても、あの才覚はずば抜けていた。
ただ──
肉体の成長が遅かった。それだけが、翔太の不幸だった。
(おっと。でも、その前に……)
まずは芽瑠のために、お漬物を作らなければならない。
(お野菜、何があったっけ)
美優は部屋を出て、後ろ手で静かにドアを閉めた。
美優が去ったあと。
誰もいない部屋は、急に音を失った。
窓は閉まっている。
風もない。
……にもかかわらず。
ふ、と。
薄闇の中で、カーテンだけが、ゆっくり揺れた──
星見山の麓。翔太の家の前の道路。左手が翔太の家。この坂道を登ると星城学園がある。
【写真】愛媛県八幡浜市、愛宕山の登り口。




