第40話 愛されなかった少年の堕ちる音
第40話
ザーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー……。
テレビの砂嵐が、白い息を吐き続けていた。
ポタ、ポタ……。流しの水滴だけが、この部屋の時間を刻んでいる。
カーテンは閉め切られ、外の昼か夜かすら分からない。
ここだけが、世界から切り離された小さな穴倉のようだった。
「殺……シテ……。殺……シテ……」
魔界の植物バロメッツの蔓に、椅子の背もたれへと縫いとめられた浦辺が、喉の奥を擦るような掠れ声を漏らす。
目だけが生きており、助けを乞うでもなく、ただ誰かの“終わり”を待っているようだった。
ガチャッ。
そこへ、グレーのパーカー姿の栗落花淳が帰ってきた。
フードを目深にかぶったその格好は、諏訪崎で秋瀬瑚桃を闇へ誘った時と、まったく同じだった。
床を赤く染めていた血は、すでに黒く乾き始めている。
淳は靴を脱ぐことも忘れ、その境界線を踏み越えた。
無造作にフードを外し、黒ずんだ血だまりの上を、そのまま踏みしだいた。
ニチャッ、ニチャッ。
靴底がねばり、濡れた音だけがやけに大きく響く。
もう「汚した」という罪悪感は、どこにも残っていなかった。
ニチャッ、ニチャッ。ガガッ、ガーッ。
淳は、浦辺の向かいに腰を据えた。
そして両手で頭を抱え込む──
(また……あいつだ……)
握りしめた拳の中で、爪が掌に食い込む。
胸の奥で燃えているのは、怒りか、悔しさか、まだ自分でも言葉にできない。
(北藤翔太……)
――それは、淳にとって衝撃だった。そして、何よりも屈辱だった。
本来なら、自分は“選ばれた側”になったはずだ。悪魔の力を得て強くなり、さらに強くなるため、多くの魂を集め、誰もがたどり着くことの出来ない力を得ようとしていた。
「持たざる者」だった自分は、ようやく「持つ者」の側へ踏み出した――そう信じていたのに。
なのに、あのメイド服の悪魔。そして、あの“声”……。
(俺より先。俺より上だ……)
心のどこかで「追いつける」と思っていた相手が、気づけばはるか頭上にいた。
指先がじりじりと熱い。
憧れが、羨ましさを撫で回し、やがてザラリとした嫉妬へと変わっていく。
淳は、呼び出した悪魔に従い、さらなる力を得るために人間の魂を集めてきた。
使い魔『ラ・ヨローナ』を操り、何人もの人間を静かに闇へ引きずり込んできた。
北灘橋の欄干から、電話口のまま足首を掴まれて消えた大山結衣も、そのうちのひとりに過ぎない。
そのたびに、悪魔は満足げに喉を鳴らし、淳の中の“何か”も少しずつ黒く塗りつぶされていった。
母の小指をピンキーリングごと喰らった。
その呪いを受けてから――もともと幻術を授かっていた淳の肉体は、物理的にも魔術的にも、目に見えて強くなっていた。
鏡を見るたび、そこに映る自分は“別人”に近づいている。瞳の奥に、ときおり自分のものではない影が揺れる。
だから、失敗するはずはなかった。
――なのに。
現実は、淳の頭の中で描いていた“勝利のシナリオ”を、あっさりと踏み潰した。
その日も、数人に幻術をかけ、諏訪崎の使われていない運動広場へ連れていった。そこにある祭壇に“捧げる”つもりだった。
――その淳の前に、北藤翔太が現れた。
かつて自分をいじめから救い出し、一瞬で不良たちを地面に転がした、その背中を思い出させるように。
これまで自らの幻術と、『ラ・ヨローナ』の力で、多くの人間をさらってきた。
その『ラ・ヨローナ』を。
北藤翔太と、突然現れたメイド服の少女が──軽く撃退してしまった。
「なんなんだよ! アイツは!!」
ガン! とテーブルを両手で叩く。
(なんで、アイツは、何でも持ってやがるんだ!!)
格闘術という“力”だけではない。
淳が憧れる海野美優とも幼馴染で仲良し。
それだけでも嫉妬に値する存在だったのに、あのメイド服の少女の強さといったら……。さらには、淳すらも身震いした、“あの”声。
正直、今は自分が最強だと思っていた。
もう格闘術だけじゃ、僕は倒れない。
肉体的にも強くなった。幻術もある。『ラ・ヨローナ』だっている。
「やっと、あの北藤翔太の“上”に立てた」――本気でそう信じていた。
ほか、別の老人の姿をした使い魔『コシチェイ』とかいうやつもいるが、ヤツは淳ではコントロール出来ないので戦力外。だがヤツも操れるようになれば……。
やろうと思えば、闇に潜んで、翔太をさらい、その魂を悪魔に捧げられると思っていた。
少なくとも、自分は翔太を超えたと思っていたのだ。
それが……。あの……。
『やめろ』
その声は、淳の肋骨の内側から響いた。
正直、ビビった。
一体、何だ。あの声は。
自分の心臓を、外側から握りつぶされかけたような感覚だった。
俺は、俺は。
あの“声”を聞いた瞬間――みっともなく、逃げ出した……。
テレビの砂嵐に時折浮かぶ白い光と、水滴の音。
砂嵐の粒が寄って離れ、山羊のような三つの角の黒がゆっくりと重なっていく。
台所に、蝋の焦げる匂い。
その匂いが、淳にまとわりつき、そっと耳打ちする。
『慌てるな……焦りは、美味だがな』
声が、頭蓋の内側をなぞった。
『お前は、ただ、我を完全体にすればそれで良い……』
片言だった悪魔の言葉は、すでに、たやすく聞き取れるほどになっていた。
それだけ、魂が充足し、完全体に近づいているという証だ。
『お前は魂を集めろ。それでいい。完全体になれば、秤はこっちに傾く』
「嘘だッ!」
叫びながら、自分でも“まだ信じようとしている”ことに気づいて、さらに腹が立った。
その気配を見透かしたように、笑い声がキッチン中に響き渡る。
『我の力が高まっていくと同時に、お前の能力も上がっていってるのは分かっているだろう。その幻術で、お前が嫌いなヤツらを全員、処刑できただろう? 茜色の夕日に映る、ヤツらの飛び降りるシルエットは、得も言われぬほどに、美しかったであろう』
「でも……!」
『我の使い魔『コシチェイ』の力もある。そこの男を捕らえた頃と今――お前の“力”は雲泥だ。そこへ母の死の呪いが加わった』
「……!」
『その呪いが、お前の肉体を強靭にした』
「言うな!」
淳は耳を抑えて叫んだ。
母の話は。
母の話は今、聞きたくない!
『『コシチェイ』の大鎌が、その男の左腕を斬り落とすのを見た時は、うれしかったであろう? そのかぐわしい血の香りがお前を絶頂に導いただろう……?』
「じゃあ『コシチェイ』も、僕の使い魔にしろよ!」
淳は叫ぶ。
「あの殺人狂、ただ遊びで人を殺しまわるだけじゃないか!」
『それは、今は、叶うまい』
悪魔は答える。
『順番だ。――今じゃない』
「なんでだよ!」
『いずれ分かる。『コシチェイ』とお前が協力できる場面は必ず来る。今は『ラ・ヨローナ』と、魂を集めれば良い。それで、お前の望みは叶えられる』
「でも……」
と淳は反論する。
「あれは。北藤翔太の、あの力は、あの“声”は、あの”恐怖”は……!」
『『ラ・ヨローナ』の“呪い”を打ち消した“声”か……』
悪魔は静かに告げていく。
『案ずることはない』
「……」
『この街に、もう一柱いる。――あいつに力を貸す“何か”が』
「え!?」
淳は驚く。
「お前みたいなヤツが。魔王と呼ばれるほどの者が。北藤翔太に!?」
『おそらく、だ。まだ今の我では見通せぬ』
「そんな……」
すべてを持つ北藤翔太。
……少なくとも、淳の目にはそう見えていた。
そのアイツが。
僕がようやく手にした、この“魔”の力さえも――
持っているだと……!?
自分だけの切り札だと思い込んでいたカードを、あっさりと上書きされた気分だ。
『だが、捨ておけ……。我が完全体になりさえすれば、まずはこの街。そしていずれはこの国……。誰もお前に逆らえなくなる。すべてがお前の手に入る。金も、力も、女も……』
「……」
『そして、あの、海野美優とかいう少女の心さえも……』
「……!」
海野さん……。
淳はポケットから、ハンカチに包まれた美優の写真を取り出した。
丁寧にくるまれたそれは、一度は不良に破り捨てられた。
破られた写真は、夜ごと少しずつ繋いだ。欠片は――一つも落としていない。
苦労した。
慎重に、丁寧に。
そして今、こうして淳の手の中にある。
◆ ◆ ◆
『泣いてるけど。何かあった?』
『早くしないと、午後の授業が始まっちゃうわよ。そのハンカチ、あげるから使ってね』
◆ ◆ ◆
当時の美優の言葉を思い出す。
ハンカチは洗えず、そのまま。縁が少しほつれている。
淳は口元に当て、そっと息を吸う。
あの日と同じ、やわらかな匂いがした――気がした。
美優の優しさに抱きしめられているような感覚が淳の心を揺らした。
「海野さん……! 海野さん……! 海野さん……!」
再び、そのこの世のものとは思えぬ笑い声が、キッチンに満ちた。
そして砂嵐が泡立ち、画面に“影”が結ぶ。
大きな角。山羊の横顔――そこまでで崩れる。
美優のハンカチと、美優の写真で、自分の身と想いを、どうにか繋ぎとめる。
あまりに哀れな慰めだと、自分でも分かっているのに、やめられない。
前後する右手に合わせて息は荒くなる。
叶わないと知りながら、諦めきれない恋心だけが、ここだけはまだ人間のままだと告げている。
その“人間の証明”である体液が、排出された。
ひときわ強く息を吐き出したあと、全身から力が抜ける。
何かが空しく、床の向こうへ落ちていった気がした。
そんな淳の欲と心のうつろいを、魔王を名乗るその山羊頭はいかにも楽しそうに眺めていた。
『集めろ、栗落花淳。――迷うな! 歴史上、我ほど人間界に影響を与えた魔王はおらぬ。お前は金も地位も女も強さも、世界さえも手に入れる。我が完全体になれば、まずこの街を沈める。次に国だ。北藤翔太も、まとめてだ!』
その宣告を、遠くで鳴るサイレンのように聞きながら、栗落花淳は肉体も魂もきしむのを感じた。
(僕は……僕は……いや――)
「……俺は……!」
胸のどこかで、『僕』と名乗っていた声がひび割れ、『俺』が這い出してくる。
淳の筋肉が、ミシミシと音を立ててふくらむ。
憧れも、感謝も、届かなかった恋心も――全部まとめて、ひとつの黒い感情に溶けていく。
それに気づいた時には、もう引き返せない。
その自覚が、彼のわずかな人間性を食い散らかしていく。
それは嫉妬と呼ぶにはあまりにも濃く、醜く、熱かった。
そして見開かれた瞳は──
本来なら光の色であるはずの金色が、むしろ闇をまとって、この場の光を奪う音を立てながら輝いていた。




