第39話 心霊探偵・瑚桃⑥
デルピュネーイメージ
第39話
「大丈夫でございますか……翔太さま、瑚桃さま」
『ラ・ヨローナ』が霧散した余韻の中、デルピュネーは風より静かに駆け寄った。
夜気にはまだ“泣く女”の怨嗟が微かに残り、草葉が潮風を受けて、歪な形のままなびいていた。
翔太の脚は小刻みに震えている。
本人は気づいていない──「人間でいたい」という防壁が、少しだけ軋んだせいで震えていることに。
瑚桃は叫ぶ寸前の顔で、全身の力を失ったようにして固まっていた。
「これはいけません。少々、お待ちください」
デルピュネーは槍をそっと土に預け、両手をかざした。
指先からこぼれるエメラルドの光は、海底に差す月明かりのように静かで──
瑚桃と翔太の傷口へ、やさしく沁み込んでいく。
(──この程度の傷で安心いたしました)
デルピュネーの笑顔は、打って変わっていつものほんわかした表情に戻っている。
傷が塞がり、瑚桃は正常な意識を取り戻した。
そして、ハッと正気に戻るやいなや。
「な、な、な……なんなのアレ!? なんでこんなホラー映画のラスボスみたいなのが出てくるの!?」
壊れた玩具のように、ガクガクと喋り始める。
「センパイっ、これ何!? 何が起こってたんですか!? アタシなんでこんな目に遭ってるんですか!? なんか、変な声、聞こえませんでした!? 体も急に固まって……! ていうかこのメイドさん誰!? なんで銀髪!? なんで美少女!?」
叫びながらも、瑚桃の指先はかすかに震えている。
(よほど怖かったんだろうな)と、翔太は他人事のようにひとりごち、それから、ふぅと大きく息を吐いた。そして瑚桃に教える。
「この子は、デルピュネー」
「デル……、なんですか、それ、名前ですか?」
「今、うちで家事なんかをやってもらってるメイドの名だ」
「うちで? ってことは同棲ですか? つか外国人? しかも美少女? アタシより年下? なのにメイド? で、あの化け物、倒したの? ブチかまし、まくりメキったの? あーもう、頭が混乱して、なんも分かんないーーーーー! まくりメキったーーーーーー!」
デルピュネーは苦笑した。
そして、一応、翔太の置かれてる非現実を心配した。
「申し訳ございません、翔太さま。……やはり、ベレスさまのご意向を優先して姿を隠すべきでしたでしょうか」
「いや」
翔太は答えた。
「助かったよ。ありがとう。あの状況なら、これが最善だった。瑚桃には後でちゃんと説明しておく。もう隠し通せるレベルじゃないからな」
瑚桃はまだ翔太の横で頭を抱えている。意味不明な言葉を吐き続けている。
「まくりメキったのがデルなんとかで、白い女が消えて、ぶちかまされて、まくりメキメキで……! で、メイドで……センパイと同居で……何人!? 外国人!? 銀髪!? ああああああ……頭がまくりメキメキる~~~~!」
翔太は翔太で、デルピュネーに念を押す。
「それより。もう完全に終わったのか? あの白い女の化け物、倒せたのか?」
「いいえ、そうでもなさそうです、翔太さま」
驚くようなことを、デルピュネーは表情1つ変えずに言った。
「あの悪霊の胴体を切り裂いた時、驚くほど手応えがありませんでした。斬った感触がほとんど無かったのです。おそらく物理攻撃が無効になるような、そんな呪いをかけられている悪霊ではないかと思います」
「呪い……?」
「はい。ただ、一瞬だけその呪いが切れました。だから通りました。退治ではなく“退散させた”だけ――そう見るべきでしょう。私もあの悪霊の呪いを打ち破る策を考える時間がなかったものですから、退散してもらえて幸運だったと言うべきです」
「そうか……でも、最終的に追い出したのはデルの力だ。ありがとう、助けてくれて」
「え?」
デルピュネーは不思議そうな顔をした。
一瞬の奇妙な間。
そして。
「デルを助けてくれたのは、翔太さまではないのですか?」
海から大きく風が吹き上げた。
なんだ? デルは何を言ってるんだ?
(俺が……デルを、助けた……?)
どういうことなんだ……?
だが、考える暇もなく、瑚桃が翔太の腕の袖をギュッと掴んで引っ張った。
翔太は体のバランスを崩す。
「ちょ、おい」
瑚桃は震えながら言う。
「怖かった……」
それはそうだろう。
あんなものを見たら誰でも……。
その時だった。
瑚桃がこの言葉を口にしたのは。
「あの白い女の人も、さっき聞こえた“変な声”も……」
──意味が分からなかった。
(声……?)
何を話しているんだ?
声って誰の?
何か、聞こえたのか?
俺が聞き逃しただけか?
「ちょっと待った」
思わず翔太は瑚桃の言葉を止めた。
率直に質問する。
「その……、声って、なんだ?」
瑚桃は目をパチクリする。
「え!? センパイ、聞かなかったんですか?」
心の底から驚いた、というような表情だ。
「なんか急に、胸の奥で直接『やめろ』って。耳じゃなくて心臓で聞いた感じ……すっごい怖い声だった。聞こえたでしょ!?」
「……悪い。俺には……本当に、何も聞こえてない」
これには、デルピュネーも驚いた。
「翔太さまは、あれを、お聞きになられてないのですか……?」
デルまで……
一気に不安が翔太を襲う。
だが答える。
「何度も言うが、俺は聞いてないぞ」
「そんな……はずはございません」
デルピュネーは一瞬だけ眉を寄せた。
2000年の観測者としての冷たい計算が、胸の奥で静かに動き始める。
「お前ら二人とも何言ってんだ? 本当にそんな声したのか?」
沈黙。
声。
『ラ・ヨローナ』の動きを、能力を、封じた、その声。
翔太はそれを聞いてないと言う。
だが、明らかにそれは翔太から発せられた声。
──デルピュネーは考える。
(……あれが“宿主”本人に届かなかったということは──侵食の位相が、また一段深まっている……)
これは、もしかして。
(良くない兆候なのでは……)
再び、翔太に目を遣る。いや、正確にはその“魂の形”へ。
あれを翔太自身が聞いていないとなると、それは“666の獣”の侵食が。
太陽神ラーへの取り込みが。
進んでいるとは言えないか……。
翔太と瑚桃が雑談を続けている中、翔太は突如、思い出したように声を上げた。
「いや、そんなことより、瑚桃」
「はい?」
「俺、お前に、探偵ごっこはやめろって言ったよな」
「あ……」
「なんでこんな所まで来てるんだよ。俺が来なかったらどうするつもりだったんだ?」
「いや……、それは、あのぉ……つまり……」
慌てる瑚桃。
「いや。ちょっと精神的にイケイケになっちゃってたって言うか。で、繁華街行ったら、なんか怪しいヤツ見つけて、アタシのマルマルモリモリな好奇心に火がついたっていうか……」
「マルマルモリモリ……?」
「い、いや、そうじゃなくて、芦田愛菜ちゃんも鈴木福くんも関係なくて、そう、犯人! 絶対、あいつが犯人なんですよ!」
「どこだ!」
「はい。あの、この先に!」
背後を指差す瑚桃。翔太もそこを見る。
だが、そこにはすでに、あのフードの男の影も形もなかった。
「あれ?」
翔太は再び瑚桃に視線を戻した。
「フードの男?」
「あれれれれ?」
「いないけど」
「い、いなくなっちゃったっすね」
「本当に……いたのか? お前の勘違いじゃなくて?」
「はい。それは本当です! だから、ここまでつけてきたんです、……けど」
瑚桃は唇を軽く噛んだ。
その仕草は、“強がりの仮面”が少しだけ割れた、小さな素直さだった。
瑚桃は思い出す。
翔太が来るまでは確かにいた、と思う。だが、今はその痕跡もない。当然、その男と共にゾンビのように歩いていった人々の姿も。
本当に、あの人、どこ行っちゃったんだ……。
しばらくの沈黙が流れる。
おかしい。
確かに、確かに。
さっきまで、そこにいたはずなのに。
そこでまた気になる。
──声って、なんだ……?
(どうしてだ。俺だけ……? ……いや、落ち着け。こんなの、ただの聞き逃しだ……)
突如、理不尽に襲ってくる不安感。
単なる“声”じゃないか、と翔太は思う。
だが、その“声”が、デルを……救った?
折れそうになった心を支えあげるように、翔太は無理に声を張った。
「だとしても、だ!」
翔太は瑚桃を睨みつける。
「こんな時期に、あんないろいろなことがあったのに、そんな危なそうなヤツについていっちゃダメだろ」
「はい……」
「小学生でも分かるぞ。お前、何やってんだよ」
ぐうの音も出ない。それに、あの時、なんだか頭の中がおかしかった気もする。
だがそんな言い訳を飲み込んでから言う。
「あはは……。バカですよねー。ウケますよねー」
「ウケねえよ! もし、お前がスマホで位置情報を知らせてなくて、もし、デルが異変に気づいていなかったら……。今ごろお前、死んでいたかもしれないんだぞ、分かってんのか!?」
怒鳴り声のような強い口調になる。
「あ、センパイ、マジになっちゃって、ウケる」
「だからウケねえってば!」
翔太の目は真剣だ。
「いいか、今後、絶対に危ないことには手を出すな」
「……」
「オヤジもおふくろも死んで……」
「……」
「……お前まで、失うところだったんだぞ!」
怒りの奥に、震えるほどの優しさが滲んでいた。
その声は、翔太自身も少し驚くほど必死だった。
「……え?」
瑚桃の中の時が止まる──
そして。
「瑚桃!」
「は、はいっ!」
「約束しろ。絶対に、だ」
「絶対に……?」
「絶対に、二度と、金輪際、無茶をしようとするな! いいか!?」
◆ ◆ ◆
このはるか上空──
月光すら触れられぬ高さに、ふたりの影がふわりと浮かんでいた。
「さっきのあれは、神がなんらかの形で関わっている悪霊の類だな。だからデルでも倒せなかった」
宙に浮かび、この光景を見守っていた者たちがいた。
魔王ベレス。すなわち、成宮蒼だ。
そしてもう一人……。海のように青い髪色をした美女。
月の光に照らされ、この諏訪崎を、水城湾を、見下ろしている。
その口元には、牙が覗いていた。その耳は、エルフのように長く尖っている。
「つまり、呪いを受けたタイプの悪霊だろう」
「それは」
「南米の“泣く女”、『ラ・ヨローナ』だ」
「南米の有名な怪談に出てくる怪異ですね。でも、そんな者がなぜ、この世に」
「前回の『カスケード』だろう」
ベレスは言う。
「……おおよその絵は見えてきたよ。『ラ・ヨローナ』は単なる使い魔だ。だが、他の別の使い魔の存在も僕には感じられる」
「別の使い魔」
「そう」
ベレスの声は静かで、海の底のように温度を失っていた。
その眼差しは、下界の光景を“観察”しているというより、
“記憶の断片を照らし合わせている” ような雰囲気すらあった。
「『ラ・ヨローナ』、そしてもう一つの使い魔。その二体が今回の大量失踪事件の犯人だろうね。そして、それを操る存在はおそらく、あのサバトに悪魔。……だがもう少し。もう少し証拠が欲しい。レーン。動いてくれるかい?」
「はい」
レーンと呼ばれた青い髪の女は一切のためらいなくそう答えると、しばらく考え、そしてこう切り出してきた。
「ベレスさま」
眉間にシワを寄せる。
「さっきのあれは、反キリストの、“666の獣”の……声だったのでしょうか」
ベレスは、その青髪の美女の顔を見る。
そして落ち着いた声で答えた。
「ああ。この心の震え……。間違いないだろう」
「では……まさか、太陽神ラーは、すでに呑み込まれたのでしょうか」
セイレーンの声は震えていた。
忠誠ゆえの恐怖。
それでも主に寄り添おうとする強さ。
これに、ベレスはかぶりを振った。
「……いや。“まだ”だよ。」
たった一言で、夜の温度が変わった。
セイレーンはその“間”を聞き逃さなかった。
(……“まだ”? では、いずれ……?)
「そうではなさそうだ。その証拠に、デルも、レーン……そしてお前も、今ここにこうして存在している。アレが本当に覚醒したら。それだけで、お前たちはただでは済まない。いや、その瞬間、この世界は終わりを迎える」
「それほどまでの存在……。『反キリスト』とは、一体、何者なのですか?」
その質問にベレスは答えない。だが、下方で展開されている翔太と瑚桃のやり取りを見たままで答える。
「とにかく前回の『カスケード』で、確かに、何者かが、この世に顕現された。それほど大きな魔力の波動は感じられない。大したことないヤツだとは思うが、このまま放っておくこともできない」
「街じゅうに薄い魔力の膜がかかっています。魂をつなぎ紐にする系で、どうやら人間を利用して使役するタイプの者。つまり、ベレスさまが予想されている通りの……」
「ああ。人間の魂を喰らわなければ、顕現し続けられない、アイツだと僕はほぼ確信している」
「ええ」
「──雑魚だよ。……だが、“獣”の器に触れた時点で話が変わる」
微笑んでいるのに、その声音は氷の刃だった。
ベレスからいきなり、強大な魔力が発せられたのが感じられた。
「ですが、その手が、『反キリスト』を宿す者……北藤翔太に及び、それがなんらかの刺激となって、復活の引き金を引く恐れも捨てきれません」
「そうだな」
「やはり、始末しておくべきでしょう」
空に突風が吹く。レーンの青い髪が風にあおられ、夜空の星と星をつなぐようになびく。
「ではレーンは、このままそいつの塒を探してくれ」
「仰せのままに」
「頼んだよ、セイレーン。君ほど確かな者はいない」
ベレスは月を見上げて彼女のフルネームを語った。
その言葉は優しさではなく、
“選び抜かれた道具への最大の評価” の響きを持っていた。
(……ベレスさまの期待。なぜだか、少し痛いほど嬉しい……)
セイレーンは胸に手を当て、礼をとった。
「ありがとうございます。ベレスさま」
そして、そっと……セイレーンは、その場から姿を消した。
セイレーン──。
叙事詩『オデュッセイア』で語られた、かつて人を歌声で沈めた怪物は、今や蒼=ベレスの右腕として、水と空と声を自在に操る“側近”となっていた。
セイレーンイメージ
最も信用できる部下であり、変身能力も備えている。人間の武器の扱いも熟知しており、スパイのような活動も可能だ。
デルピュネーほどの攻撃タイプではないが、人間界で活動するにおいては、ベレスにとって、これほど便利な存在はなかった。
「『反キリスト』……」
ベレスはひとりごちた。
あの“声”を聞いたのは、ベレスですら、初めてだった。
果たして自分は、翔太の寿命が尽きるまで、あの存在を眠らせておくことができるのか。
「『受胎』だけは……あれだけは、決して許してはならない」
夜空を渡る風が、ベレスの呟きを呑み込んだ。
そしてベレスもまた、水城湾の上空から姿を消した。
◆ ◆ ◆
実は、そのベレスには、また一つ目的がある。
それは。
『反キリスト』に対抗できるとされる。
ある“神”を探すこと。
その名を。
──『ウジャト』という。
すでにこの世にいるのか、神界のどこかで眠っているかも知れないその“神”。
『ラー』と『ウジャト』が出逢いさえすれば。
「万が一、『受胎』が起こったとしても──」
◆ ◆ ◆
「しっかり掴まってろよ!」
翔太は自転車のペダルを漕いでいる。
「はい!」
瑚桃は、抱きついた腕にすこしだけ力を込め、
翔太の背中へ、そっと頬を寄せた。
胸がひとつ、柔らかく跳ねる。
ようやく訪れた家路。
探偵・瑚桃の活動は、辛くも、とりあえずは無事に、終わりを告げた。
諏訪崎から街へと向かう一本道。
背中に触れる温度とリズムが、さっき怒鳴られた言葉を、何度も何度も思い出させる。
――お前まで、失うところだったんだぞ!
その一言が、胸のいちばんあたたかい隙間にしまわれる。
アタシの身を本気で案じてくれたセンパイ。
(北藤翔太、くん……)
心の中で翔太の名前を呼んでみる。名前だけで、頬がゆるむ。
――お前まで、失うところだったんだぞ!
温かい背中を感じながら、その言葉を何度も何度も反芻する。
笑いを噛み殺して、背中に頬を預ける。
宝箱に入れておきたい、この言葉、その気持ち。
(翔太くん……)
名前を呼ぶだけで、胸の奥のあたたかいところが、ふわりと灯る。
(君……やっぱり、超、ウケる……)
想いがこみ上げる。
自転車で猛スピードで坂道を下る中、翔太が少しこちらへ首を回して聞いた。
「なんか言ったか?」
「えっ?」
「……今、何か言ったのか?」
「い、言ってませんってば!」
瑚桃は慌てて言い返し、その頬だけが夕陽みたいに赤かった。
(ねえセンパイ。アタシ、今日、ほんとに……死ぬかと思ったんだよ?)
それでも。
「何も言ってないですよ、センパイ!」
「え、何?」
「何も言ってないですってば!!」
「そっか……なら、いい!!!」
翔太も笑った。
瑚桃は元気さを忘れない。
だってもう、アタシは、昔のアタシじゃない。
けれど……
(……でもね。一番怖かったのは、“センパイがいなくなること”だった。)
瑚桃はその言葉を胸にしまい込み、いつもの大声で叫んだ。
「おうよ! もっと飛ばせ~センパイ!」
「じゃあ、もっと飛ばすぞ! 振り落とされるな」
瑚桃が元気いっぱいの笑みをその顔に浮かべた。
「行け~! センパイッ! 負けるな~!」
──“ウケる”。
それは、瑚桃の、最高に愛情が込められた、“ウケる”。
街の灯りが徐々に近づく。
翔太と瑚桃と、瑚桃の想いが。
自転車に乗って、猛スピードで坂道を下っていった。
「良さそうかも」「続き読みたい」など思った方は、ぜひブックマーク、下の評価を5つ星よろしくお願いします。
していただいたら作者のモチベーションも上がりますので、さらに良いアイデアが湧くかもしれません。
ぜひよろしくお願いします!




