第38話 心霊探偵・瑚桃⑤
第38話
『ラ・ヨローナ』の右腕は、跳ね上げるようにデルピュネーの左頬あたりにヒットした。
たまらずデルピュネーは、茂みのその先の、とんでもない遠くの森の方へと吹き飛ばされる。華奢な体が木々の枝を次々と折っていく音が森から繰り返し聞こえた。
「デル!!」
翔太が叫ぶ。
『ラ・ヨローナ』は、その翔太と瑚桃の方へと、ゆっくりと顔を向けた。
「あ…………」
驚く暇を与えてくれなかった。
『ラ・ヨローナ』は現れては消えを繰り返しながら。
例の見えないほどの速さで二人の前に立つ。
棒立ちのまま、道路に座ったままの翔太と瑚桃を見下ろす。
◆ ◆ ◆
「ダメだ! 行きますよ! 大熊さん!」
「しゃあねえな。高木、お前は援護に回れ!」
対象が死にでもしたら、調査どころではない。
影で見ていた大熊と高木が、一気に戦闘モードに入った。
大熊は立ち上がり、コートの下にある細長いナイフを取った。それぞれ指の間に一本ずつ。両手を入れて合計六本のナイフが大熊の拳から突き出す。
高木の棍がさらに青い輝きを増す。
国際魔術会議のエージェント。彼らの本職。それは“化け物退治”だ!
だが、二人が飛び出そうとした瞬間。
大熊が拳に挟まれたナイフを、投げようとした瞬間。
その「瞬間」の手前で、世界が一拍だけ、「瞬間」を噛んだ。
『ラ・ヨローナ』がまさに翔太と瑚桃に襲いかかろうとしていた瞬間ともかぶった。
海鳴りが平らな線になり、水平線が一瞬だけ裏返る。
街灯が同時に一度だけ呼吸を忘れ、影が半歩ずつ別方向へずれる。
月が鋸歯のように欠け、一瞬、何者かの瞳のような形を象った。
そして。
声ではなかった。音ですらない“意志の落下”が、翔太の胸郭を内側から叩いた。
時間が、一度だけ脈を失う。
風が伏せ、海鳴りの線が折れ、世界の“呼吸”が止まる。
それは、
ごく、
異様なほどの、
無表情で、
──やめろ。
鼓膜は震えていない。
だが“魂”のほうが一瞬で跪いた。
その命令だけが、世界の中心から落ちてきた。
そして、『ラ・ヨローナ』は視てしまった。
翔太の奥底で、三つの瞳孔が別々の“季節”を回していることを。
光ではない。重さを発する虹彩だった。
見てはいけない、だが目を離せない。
その矛盾が一気に脳を焼き、思考が足元から落下した。
『……ッ!?』
体が自分のものではなくなる。
首、肩、腕、脚──別の意志が中から折りたたむようにねじれていく。
遅れて、氷柱が割れるような音が体内で連鎖する。
『ア……アアア……アアアアアア──ッ!』
たまらず、『ラ・ヨローナ』は姿を消そうとした。
再生のためだ。
だが、消えるはずの“瞬き”そのものを、この世界が許さなかった。
体内の「再生」の合図が、ここでは届かない。
それは、『ラ・ヨローナ』に“呪い”をかけたという“神の力”すら、はるかに凌駕していた。
いや、すでに位相そのものが別次元へずれていた。
彼女の再生のプロトコルが切断され、心の絶叫だけが残る。
意識を保ったまま、ただただ、“遥かに高い位相”の摂理に従って、「壊れる」しかない。
──そして、形を失ってしまった。
黒い涙が地面を打ち、着弾点ごとに“呪いの花”が咲いた。
それは悲鳴より先に“死”を連れてくる花だった。
この異常な光景に、瑚桃が声にならぬ悲鳴を上げた時である。
森の奥で、大地が低く唸った。
風が反対方向へ逃げ、木々が、ざわめきの“終わり”だけを先に響かせる。
そこから夜空を裂くように、ひとつの影が昇った。
そして、風を切る音と木々の激しいざわめきが重なった。
そう。森の奥から天高く。
夜空に踊り。
アスファルトに舞い降りたのはデルピュネー。
外傷はほとんど見えない──だが。
その目のエメラルドは、怒りで“縦に揺れて”いた。
彼女の周囲だけ、夜気の密度が変わる。
世界が“武器になる者”を識別したように。
小さな唇が、静かに開く。
「ブチかまし、まくりメキます」
言葉とともに、タガが外れた。
次の瞬間、デルピュネーの姿だけが世界から“先に”消えた。
空気は遅れて反応し、遅れて風が裂け、
さらに遅れて、斬撃が生まれた。
神速ではない。
速さの概念をひとつ噛み砕いた速度。
『ゼウス』を救いに来るオリュンポスの神々をも退けた、彼女本来の力。
その槍——必殺の攻撃が。
神の“呪い”を失った、『ラ・ヨローナ』を。
──細切れにした。
だが、敢えて『ラ・ヨローナ』の頭だけを無傷で残していた。
“分からせる”ためだった。
デルピュネーは大地を蹴り。
振り上げた槍を。
残った頭のてっぺんへ。
その斬撃は、斬撃というにはあまりにも乱暴だった。
まるで巨大な鉄の塊で叩き伏せたような。
猛獣が小動物をその獰猛な爪で引き裂くような。
音速を超えた衝撃波が森全体を広くざわつかせ、何本かが千切れ、倒れた。
翔太と瑚桃も数十メートルも、路面を転がされた。
ゴンッ。
煌々と輝く月が『ラ・ヨローナ』の体液によってどす黒く塗り替えられる。
そのまま。音も声もなく。反撃をできるわけもなく。『ラ・ヨローナ』の肉片たちは。
霧のようにふわり、と消え失せてしまった……。
◆ ◆ ◆
「こりゃ、どうしたことだ……」
大熊は言った。
「体の……震えが止まらねえ……」
その背後では、棍を構えて今にも走り出そうとした姿勢のまま、体の動きを止めて震えている高木の姿があった。
「お、大熊……さん……」
声に出すのもやっとだ、といった様子だった。見るからに脚がガクガクと笑っている。
彼らも聞いていた。
「──やめろ」
あの“声”を。
「……おい、高木。立てるか……?」
大熊自身、声が震えていた。
ひざの皿が合わない。片耳の奥で古いモーターが回り続ける。
魔術による身体強化が“ズレた骨格”に追いついていない。
高木もまた、棍を構えた姿勢のまま固まっていた。
逃げるでもなく、戦うでもなく、
“次の指示が届かない生き物”になっていた。
それでも必死に声を振り絞った。
「こんなの……聞いてねえぞ……」
とはいえ、さすがベテランだ。
無理矢理にでも体を動かす。その術を長い職務で身につけている。
ただし、耐え難い苦痛が伴った。
「うぬう……」
それでも大熊は高木に近づき、肩を貸す。
大熊もその肩で息をする。
「い、……一旦、退くぞ」
まだ若い高木はその声に反応もできない。
彼らは人間だった。
どれほど魔術を扱えても、“魂への干渉”だけは防げない。
あの一言は、呪いではない。
“存在の序列”を突きつける一喝。
なまじ魔力など持っているがゆえ、
受けた“力”の余韻は──生命維持にかかわるほどだった。
大熊に棒切れのように引きずられ、高木はそのまま車に乗せられる。
大熊はエンジンをかける。
(こりゃ、わしらの……知らねえ領域に……脚を踏み込まされたかも……しれねえ)
必死にハンドルを握る。
激痛が襲う。
国際魔術会議の上層部からの指示は“666の獣”の発見。
あくまでも『聖書』上の、宗教上のものだと思っていた。
(上層部は何を隠してやがる……こんなの神とか悪魔とか世界の終わりなんて言葉じゃ足りねえぞ……)
意識を強引に起こす。
魔術の力を借りる。
大熊はアクセルを踏んだ。
まだ震える手でハンドルをしっかりと握る。
激痛を越える激痛。
痛みの回路を自身の魔術で遮断した。
だが痛みは、この魔術をいとも簡単に透過する。
(ええい……なめるな!)
ギリギリと噛み締めた奥歯が。
バキ。
わずかに欠けた。
かまわず、大熊は車をUターンさせる。
この時に味わった大熊と高木の恐怖は数日間、消えることはなかった。
最初の数日は、発狂しないよう支部内で拘束された。
解放されるまでに、一週間を要した。
──そして。
ここ諏訪崎でも。
あの夜の“残り香”は、この周囲一帯からしばらくは消えなかった。
影が一つ多いと言われる。
風の向きだけが観測から抜け落ちる。
静電気が抜けず、灯りが理由なく明滅する。
触れていないのに、同じ頁だけが勝手に開く。
通った魂が、どこかにピンで留められたように。
まるで、この世界に“標本”として並べられたかのように。
人々は怪異や原因不明の病魔に襲われることになる。
それは、決して『ラ・ヨローナ』の権能などではなかった。
“やめろ”と告げた、あの未知の存在の余韻──ほんの、その“名残り”だけであった。




