第33話 紫煙の向こう、日常をつなぐ細い糸
第33話
「それでね、大熊のおじさん。わたし、お父さんに言っちゃったの。『お母さんから連絡来なくて寂しいのは仕方ないよ。国際的女優の夫になった人の運命だもん』って」
これに、大熊英治がは、腹の底からどっと笑った。
いつものリビングのL字ソファーに、ぎゅっと並んで座る。
美優はクッションを抱えたまま、制服のスカートの裾をぱたぱたさせて笑っている。
笑うたび、まだあどけなさの残る頬がふわっとゆるむ。
“人前モード”の美優とは少し違う、十五歳の少女の表情だ。
「いやあ、まったく。あの人にそんなにビシッと言えるのは、嬢ちゃんぐらいだよ。ワシらから見ても、あれは普通に怖い人だからな」
「ほんとです。現場班でも、あの方の名前出るだけで空気が変わります」
背の高い青年──高木英人が、苦笑まじりに相づちを打つ。
そこへ、デルピュネーが盆を手に、静かに現れた。
「粗茶でございます。人間の皆さまに合わせ、温度は八十二度に調整しております」
盆を置くデルの膝はきちんと揃い、踵がぴたりと床を捉える。所作が絵のように静かだ。
膝を揃えて盆を置く動きは、教本の挿絵みたいに無駄がない。
大熊は一瞬だけ目を丸くし、それから「やっぱりな」とでも言いたげに目尻を下げた。
「ほう……ちゃんとメイド服までいるのか。さすが北藤家だな」
大熊のその声には、“驚き”よりも“納得”の色が濃かった。
「翔太くん……だったな。さすがは北藤神父の息子さんだ。彼女、“使い魔”で間違いないか?」
「……っ」
唐突に核心を突かれ、翔太の肩が小さく跳ねる。
デルの不本意な発言もあったからだろうが、不意に秘密を見抜かれ、翔太の体がビクリと震える。
「そっちの猫も、セットなんだろ?」
ソファーの端では、シャパリュがぐうぐう寝息を立てていた。
「ご安心を。国際魔術会議本部なんか、もっと騒がしいですよ。羽はえてたり角はえてたり」
高木がさらっと言い足し、翔太は余計にツッコミが思いつかなくなる。
(これが国際魔術会議……。一目で分かるのかよ……)
得体の知れなさに、翔太の警戒心がにじり寄る。
けれど、大熊はあくまで「古い知り合いの家に来たおじさん」の顔を崩さない。
「使い魔……でございますか。そうですね……呼び名は気になりません。必要とあらば、お好きなようにお呼びくださいませ」
デルは軽く一礼すると、すっと下がった。
“隠す”という発想自体が、最初からないように。
大熊も高木も、そのやり取りに一切驚いた様子を見せない。
“この程度の怪異は、仕事柄よく見る”──そんな空気だけが、当たり前のように部屋を満たしていた。
デルの背中を目で追っていた大熊が、「おっと」と思い出したように懐へ手を入れた。
翔太は条件反射で背筋をのばす。
「そうそう。翔太くんに渡しておけって、ワシが預かってたもんがあってな。危うく忘れるところだったよ」
手のひらサイズの布袋が、ぽんと差し出される。
中には、細長い布にぐるぐると巻かれた、ずしりと重い何か。
布に書かれた文字は、見たことのない祈りの文言だった。
ただ、その一つひとつが、なぜか“じっと自分を見返している”ような気配がする。
「その封印を取ってみたまえ」
言われるまま布をほどいていくと、古びた銀色の十字架が姿を現した。
キリスト像の顔は、小さなはずなのに妙に“生々しく”見える。
「……十字架……?」
「『イエス十字架』だ。君のお父さん──北藤神父から、ワシが預かってたものだ」
金属の冷たさが、指先から心臓までまっすぐに伝わってくる。
教会で何度も見てきたはずの形なのに、これは“別物”だと、体のどこかが告げていた。
「お父さんとお母さんのことは……本当に、残念だったな」
大熊の声が、少しだけ低くなる。
「この十字架な。『もしワシに何かあったら、息子に渡してくれ』──そう言って、北藤神父がワシに託したんだ」
「父さんが……?」
「神父ってのはな、“風向き”読むのが仕事みたいなもんでな。……自分に何か近づいてるって、どっかで分かってたのかもしれない」
「そう……ですか……」
十字架を見つめていると、亡くなった父の『聖書』を読み上げる声が、敷地内の礼拝堂からわずかに反響してくるような錯覚がした。
翔太が黙って十字架を見ている横で、芽瑠はもぐもぐとドーナツを頬張っていた。
「どうだ、お嬢ちゃん。甘いのも、少しは口に合うか?」
問いかけに、芽瑠は首をぶんぶん振る。
「おいしい。でも、芽瑠、お漬物のほうが好き。お茄子がいちばん好き」
「なんて渋い……ワシより年寄りな味覚してるじゃないか」
大熊がまた豪快に笑う。
芽瑠の口元についた粉糖を、美優が親指でそっと拭ってやる。
芽瑠はくすぐったそうに肩をすくめ、ソファのクッションに半分沈み込んだ。
そして。
「おじさんたち、ごはんは? もう食べた?」
湯気をよけるように、美優は髪を耳にかける。
細い首筋から鎖骨へ、蛍光灯の光がすべっていく。
「ああ、“暁”に寄ってきた。旧港の店だ」
「黒いお寿司のとこだ!」
美優の目がきらっと光った。
「そうそう。水城一番の老舗だ。黒い温泉が湧いたとかで、『黒い商店街』なんて呼ばれてるだろ?
寿司まで真っ黒でな、ワシもさすがに二度見したよ」
「いいなぁ……。あのカウンター、写真でしか見たことない」
「竹炭で色をつけてるらしいが、味は変わらん。魚は相変わらず抜群だ。あれを東京で出したら、三倍はふんだくられるな」
「じゃ、おじさん。今度はわたしたちも連れてってよ」
「おう。嬢ちゃんが案内してくれるなら、いくらでも奢ってやるよ」
「じゃあ、お酌ぐらいはしてあげるね。……未成年のジュースで」
「世知辛い時代だな、まったく」
美優はソファの隙間に落ちていたティッシュを指先でつまんで整えた。
そういう“家の子らしい”仕草が、一気に場の空気をやわらかくする。
老舗・割烹居酒屋「暁」
【撮影】愛媛県八幡浜市旧港「高松屋 暁」。明治時代から続く老舗。
この土地には「龍王様」が眠るとされており、実際、建て替え工事中に白蛇が現れ話題になった。
◆ ◆ ◆
一見すれば、ただの親戚の集まりみたいな夜だった。
けれど、翔太の胸の奥で鳴り始めた警報だけは、ずっと止まらない。
(……で、結局。何しに来たんだ、この人たちは)
十字架の冷たさと、地元グルメの話題。
日常と非日常が、無理やり同じテーブルに並べられているような違和感があった。
「それでさ、大熊のおじさん。今日は“ただの寄り道”って顔じゃないよね?」
美優が、マグを両手で包みながら首をかしげる。
「お、勘がいいな。さすがは嬢ちゃんだ。……まあ“視察”ってことにしてもいいが、ちょっと見せておきたいもんがあってな、ワシにも」
「水城の『カスケード』調べに来たんでしょ? それだけ?」
「それだけなら、こんな時間に神父の家は押しかけんよ」
大熊は紅茶をひと口すすり、「高木」と名前を呼んだ。
「はい」
高木は無言で鞄から地図を取り出し、テーブルの上に広げる。
紙のこすれる音が、妙に大きく聞こえた。
翔太と美優、芽瑠も身を乗り出して覗き込む。
美優のうなじに一本だけ乱れた後れ毛が張りついていて、彼女は指でそれを直しながら、さっと表情を引き締めた。
「……なに、この赤と緑」
「今わかってる“行方不明者”の現場だ。赤が、前回の『カスケード』から一週間以内。緑が、それ以降のやつらだな」
地図の中心には“水城市”の二文字。
赤い印が市街地と歓楽街のあたりに固まり、緑の印がじわじわ外側へにじみ出ている。
「これ、全部失踪……? 多くない?」
「全部じゃないが……これだけで五十件は超えてる。で──」
大熊の指先が、ひとつの緑色の印を軽く叩いた。
北灘橋の真ん中。大山結衣がスマホだけを残して消えた場所だ。
「見ての通り、水城市を真ん中にして、半径二十キロ圏内に広がってる。つまり“震源地”は、このあたりだと考えてる」
日常会話みたいな口ぶりなのに、内容だけが洒落になっていない。
「ちょっと待って。前回の『カスケード』から、まだ二ヶ月も経ってないよね? これ、普通じゃない数よ」
「もちろん、全部が『カスケード』のせいとは限らない。家出もいるだろうし、ただの事故って線もある」
「でも、“それにしても”って顔してる」
「……まあな。ワシらから見ても、ちょっと笑えない数字だ」
大熊は地図から視線を外し、ソファにもたれた。
「前回の『カスケード』そのものはな、規模だけ見りゃ、そこまで大事故じゃなかった。だが、そのあとになって、こうも“質の悪い揺り返し”が来てるのは、おかしい。──ワシら国際魔術会議としては、“ここらで何か特別な怪異が目を覚ました”と見ている」
「——特別な怪異……」
美優が、ゆっくりと言葉を繰り返した。
窓の外で、遅い潮風がカーテンをわずかに揺らした。
さっきまで“黒い寿司の話”をしていた部屋とは思えない空気が、ひたひたと入り込んでくる。
「ああ、そうだ。ここから先は、嬢ちゃんよりも──翔太くん、きみに聞きたい」
「……ぼくに、ですか」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥の警報が一段階音量を上げた気がした。
大熊は、さっき渡したばかりの十字架へちらりと視線を落とし、それから翔太の目をまっすぐに見る。
「『反キリスト』って言葉に……聞き覚えはないかね、翔太くん」
「……っ」
喉が勝手に鳴って、返事が遅れる。
十字架の冷たさと、大熊の声。その二つが重なったところから──
ようやく、さっきから続いていた胸騒ぎの“名前”だけが、ぼんやりと形を取り始めていた。
——『反キリスト』……つまりは、『聖書』に記されている“666の獣”。
さっき大熊から受け取った十字架が、指先の中で、ひときわ重く感じられた。
思えば、最初からおかしかった。大熊って人も、高木って青年も、玄関に現れたときから──どこか、自分を見る目つきが違っていた。親戚の家に来た“おじさん”って雰囲気なのに、目だけは、犯人を探す刑事みたいだった。
さっき見えた、あの魔術のオーラ。あれだって、ただの“能力自慢”じゃない。
──自分を警戒している証拠だ。
十字架の冷たさと、その視線だけが、やけにくっきりと胸に残っている。
返事をする前に、喉がひとつ、ごくりと鳴った。
指先は勝手にブレザーの裾をつまみ、視線はカップの縁へ逃げる。
──でも。こう言うしかない。
「いえ……聞いたことがありません」
「そうか。それは残念だな」
大熊の目が、ほんの一瞬だけ十字架へ落ちてから、また翔太に戻ってきた。
「実はな。北藤神父は、この“反キリスト”ってやつを、若い頃から追いかけていたらしい」
大熊は「ふう」と息を吐き、ソファーにどさりと背中を沈めた。
その動きは大げさなくらいラフなのに、背もたれに預けた両腕だけは、いつでも立ち上がれる位置にあった。
「神父さんには、国際魔術会議の“頭脳班”をやってもらってた。けどな──神父さんの研究だけは、国際魔術会議の中でもほとんど治外法権でね。ワシらにも、詳しい中身までは分かっちゃいない」
「……はい」
だからこそ今、こうして“息子”の反応を見に来ている──そんな含みが、さらっとした口調の奥にねばりついていた。
「『反キリスト』って存在はな、『新約聖書』のヨハネの黙示録に出てくる“666の獣”だって説が有力だ」
手のひらの上の十字架が、自分とは関係のないはずの“証拠品”みたいに思えてくる。
「ざっくり言うと、神に反する者。復活を約束されたキリストの“偽物”……偽預言者だな。人を騙して、間違ったほうへ歩かせる」
「…………」——翔太としては黙っているほかない。
「それが、“審判の日”──世界が一回ぶち壊されて、浄化される前に現れるって話だ」
翔太の指先で、銀色の十字架が小さくきしむ。
自分で力を込めていることに、本人だけが気づいていない。
大熊はそれを目の端でちらりと観察をしている。
「けどな、北藤神父は、そこで話を終わらせなかった」
翔太は顔を上げ、真正面から大熊を見る。
「……と、言うと……?」
「『反キリスト』は、そんな生易しいもんじゃない。もっと、底のほうが真っ黒な何かじゃないか──そう考えてたらしい」
「底のほう……真っ黒?」
「ああ。真っ黒だ」
その返事は短いのに、やけに重かった。
大熊の目が、さっきまでの“親戚のおじさん”の目じゃない。
「つまり──破壊者だ」
容疑者に「アリバイは?」と聞くときの、刑事の目……
「“世界や、神々そのものの敵”ってわけだな」
翔太は、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
沈黙を守っている、というより──下手に口を開くのが怖かった。
──そうだ。
自分の中に、その“獣”がいる。
さっきまで他人事だった「666」が、胸の内側からこちらを数えてくる。
その“獣”は、世界の破壊者。世界や神々の敵。
それは、魔王ベレス=成宮蒼の口からも聞かされていた話だ。
翔太自身はいまだ半信半疑だ。
けれど、一応“自分の目で魂の在り方”を見た”のも事実だった。
まさか、自分がそんな大それた存在だなんて。
しかも、それを──親父が、ずっと調べていたなんて。
出来すぎていて、笑えない。親父は一体、何をしようとしていたのか。
……それでも。
自分は、人間だ。
そう信じていたい。
けれど、こうして改めて言葉にされてしまうと──心のどこかがぐらついた。
十字架の重さと、“獣”という言葉の重さが、じわじわ同じ重さになっていく。
「ちょっと、おじさん。そろそろやめなさい」
空気が張りつめかけたところを、美優が、あっさりと切り裂いた。
まさに“助け舟”というタイミングだった。
「翔太くんも、あんまり真に受けない!」
その声だけで、翔太の肺にやっと空気が入る。
「私、分かるの。今の大熊のおじさんの喋り方、半分くらいハッタリ」
「おいおい」
大熊は「参ったな」とでも言いたげに、肩をすくめて笑った。
「だってさ、矛盾してるもん」
美優は言う。いつもの、あの凛とした空気が戻っている。
「翔太くんのお父さんが、その……“反キリスト”ってやつを研究してたとしても、中身はおじさんたち知らないんでしょ?」
「まあ……そうだな」
「それって、国際魔術会議の中でちょっと囁かれてる“噂話”レベルってことじゃない? つまり、確証はない」
そんな美優を大熊は苦笑いしながら見ている。
だが、その笑いが目の奥まで届いていないのを、翔太だけは見てしまう。
「だから──カマかけたんだよね。“息子の翔太くんなら何か知ってるかも”って」
「おいおい、嬢ちゃん……」
「分かります! その噂がなんだかは知らない。でも、そのヒントを探りに来た。噂がどこまで本当か。あるいは、どの噂が真実に近いか」
「……こいつはまいったな」
「私に会いに来たってのも半分、口実。実は、”ちょうどいい条件”ぐらいに思っていたんじゃない?」
美優の声は穏やかなのに、論理だけは容赦なく相手を追い詰めていく。
「まあまあ……そこまで。嬢ちゃん、そこまでだ」
大熊は口元に困ったような笑みをたたえて言い、高木と目を合わせた。
「いやあ驚いた。嬢ちゃん、あんた、刑事に向いているよ」
「また! そうやってすぐ茶化す!」
「こりゃあ、海野博士の血だな。優しい顔して理屈詰め。分かった。嬢ちゃんにゃあ、敵わねえ」
「まったくもう。そういうところ、全然変わってないわね。元刑事のそういうところが嫌い!」
「嫌いはひどいな。嬢ちゃん、子どもの頃は“おじさん大好き”って言ってくれてたじゃないか」
「それとこれは別! でも分かったわ。大量の失踪者、これまでとは違う怪異。前の『カスケード』がこれまでとは違うんじゃないかってこと。それと、世界中で『カスケード』が起こりそうな予兆があること。うちのお父さんの言ってたことと合わせると、そういうことかしら」
「まあ、そんなところだ。それでワシらも派遣されて来た。水城に来るのは何年ぶりかな」
「数年ぶり? まあ……」
ここで美優は一旦、呼吸を戻す。
「いろいろあったけれど、情報提供には感謝するわ。でも、あまり翔太くんをいじめるのはダメ。芽瑠ちゃんだって、怖がっちゃうでしょ」
「うん! おいちゃん、怖い!」と芽瑠。
「おや、そうかい。お姫さま、そりゃすまなかった」
「おいちゃん、死刑!」
ようやく、この場に笑いが起きる。
そこからは、美優の幼少期の思い出話、そして高木という青年が、非常に見どころがある若きエースだという話、彼と大熊の武勇伝などで盛り上がった。
大人たちの笑いが弾むたび、翔太は笑う口元だけ作って目は笑わない。
その薄さが、年相応の不器用さをにじませる。
そして一時間経った頃だろうか。この闖入者二人は全員に見送られて翔太の家を後にした。
美優は、スリッパをそろえ直し、玄関の上がり框を小型のモップで一往復ふいてから顔を上げる。
「またね」
そう小さく呟いた。
その仕草が、いかにも幼い頃から知っている美優らしいと、翔太は心の奥で思った。
◆ ◆ ◆
その教会から少し離れた、街灯の下──。
北藤家の窓明かりを見上げながら、大熊はたばこに火をつけた。
火の先だけが、暗がりの中で小さな赤い目みたいに光る。
「……どう見ました? 大熊さん」
高木の声も、さっきまでの柔らかさを消していた。
大熊は煙を細く吐き出しながら、ぽつりと言った。
「ありゃ、“クロ”だな……」
たばこの煙が、教会の明かりのほうへゆっくり流れていく。
「やっぱり……大熊さんも、そう見ましたか」
「ああ。刑事あがりの勘ってやつだ」
「じゃあどうしてあんなあっさり、あの場を後にしたんです?」
「いやあ。まあまあ……。確かに。最悪、今夜ここで殺し合いになってもおかしくないと踏んでたが……まあ、初日はこんなもんで済んだほうだろう」
軽口みたいな口調なのに、“殺し合い”だけは本気の温度だった。
携帯灰皿を取り出そうとして、大熊のコートの内側がわずかに開く。
その隙間から、細い刃物が何本も、鈍く光った。
たばこの火を消す手つきと同じくらい自然に、“いつでも抜ける”位置に仕込まれている。
「引き続き、失踪者の手がかりを追え」
「はい」
「それと──北藤翔太。あの子どもは何かを隠してる。『反キリスト』について、何か知ってるはずだ」
「そうですね……」
「もしかしたら、とんでもなく重要な“鍵”かもしれん」
大熊の指先から立ち上る紫煙が、夜空にまぎれていく。
「北藤神父の事故もな。仕組まれたものじゃないか、殺されたんじゃないかって線が、本部の上層部から上がっている」
「……聞いたことあります」
「そうか、ならいい」
大熊は携帯灰皿にたばこを押し付ける。
じゅ、と音を立てて火を消した。
たばこは根本まできっちりと吸われていた。
「なら……。いいか。あの少年から目を離すな。……ただし、気づかれるなよ」
“保護対象”ではなく、“監視対象”。
大熊の口ぶりは、その境目をはっきりと踏み越えていた。
高木の表情が、きゅっと引き締まった。
国際魔術会議に入って五年。大熊のもとで、散々“現場”を叩き込まれてきた。
だから分かる。
今の大熊の声には、懐疑だけじゃない。“恐怖”が混じっている。
この歴戦のベテランに、ここまであからさまな恐怖を言わせる状況。
そんなものが、いま水城市で動き始めている。
大熊は もう一度だけ、北藤神父の教会を見上げる。
今回の任務は、どう考えても楽じゃない。
いや──これは何か大きな騒ぎの“幕開け”にすぎず、その先には、とんでもない“破壊”が待っているのかもしれない。
──そうして、二人のエージェントの影は、ゆっくりと夜の闇に溶けていった。
その少し先からは、まだ、北藤家の窓越しに芽瑠の無邪気な笑い声が漏れている。
その笑い声が、これから始まる何かを、かろうじて“日常”に引き止めているロープのように聞こえた。
黒い寿司
【撮影】「暁」。黒い温泉が突如噴き出したことから八幡浜市は「黒い商店街」キャンペーンを。
各飲食店に「黒色」の料理が出される。その中の1つ。
ただし現在は、温泉の色が黒くなくなってしまい、キャンペーンは宙ぶらりんになっている。
だが、この八幡浜市に上がる魚は高級魚とされ、豊洲市場でも高値で取引されている。
特に、タイ、ヒラメ、アジ、サバ、ウニは有名。




