第32話 《被害者Y —橋の上で、彼女は消えた》
第32話
──深夜。
大山結衣は、夜の海岸線を一人、歩いていた。
北浜公園横の細い歩道。少し先に橋があり、その向こうが自宅への帰り道だ。
酔ってはいたが、足取りはまだ真っ直ぐ。
潮風が肌に冷たくまとわりつく。
上司や男の同僚に、相変わらずしこたま飲まされた帰りだった。
入社二年目。まだ下っ端扱いなのは分かるけれど──
(今どき“女の子だから”って、お酌や取り分けを押しつけるなんて、ほんと時代錯誤だよ……)
結衣はため息をついた。
タクシーを使う気にはなれなかった。
亮の声を聞きながら歩いて帰れば……きっと機嫌も戻ると思ったから。
青木亮。高校時代から交際している大切な恋人。
特に高校では目立つ生徒ではなかった。どちらかというと変わった性格で、いつも決まった数人の友達と一緒にいた。
その“少し変わった”性格が、妙に目を引いたのかもしれない。
落書きで始まった文通は、結衣にとって宝物だった。
結衣と亮が通っていた高校では、社会の時間だけ。
世界史と日本史。
その選択科目によって文系クラス内の行き来があった。
結衣は日本史を専攻。
亮は世界史。
そして世界史の授業の時、結衣の席に座っていたのが亮だった。
ある日、日本史が終わり帰ってくると、席近くの壁に、ある落書きを見つけた。
それは、あるボカロの曲の歌詞の一節──。
(きっと、亮くんだ)
結衣は悟った。そしてその歌詞の後に、こうメッセージを残した。
『これって、「廃墟の国のアリス」の歌詞だよね』
次の社会の授業の後。
返事が記されてあった。
『そうだよ、よく知ってるね!』
うれしそうに踊ったように見える文字。
亮だ。
それからだ。社会の時間、壁の落書きでの“文通”が始まったのは。
アプローチしたのは結衣の方から。亮は震える手で、結衣のことを優しく抱き寄せてくれた。
「僕と、つき合って……?」
――卒業後、彼は専門学校進学で水城を離れてしまったけれど、距離と反比例して、結衣の好きはどんどん大きくなる。LINESのやり取り毎朝毎晩。お互いのインスタにコメントを寄せ合う。
ビュッ。
酔いのせいではない“寒気”が、結衣のうなじをそっと撫でた。
(寒っ……!)
もう五月なのに。
(そうだ。こんな時こそ亮くんに電話)
橋の上でワクワクしながら、スマホを取り出す。
亮はすぐに出た。
「あ、亮くん? そう。今、仕事の飲み会の帰り」
ゆっくりと歩を進める。
「もう本当に、おじさんたち、しつこいよ~。私も酔い潰されそうになったし」
『でも、結衣ちゃん、お酒強いじゃん』
「うん。結局、こっちが酔い潰してやったけどね」
スマホの向こうで、亮が笑った。
ああ、好きだ。この独特の笑い声……。
その笑い声を聞くだけで、胸の奥があたたかくなる。
この時間が、結衣は何よりも好きだった。
──だからこそ、違和感に気づくのが遅れた。
橋の欄干に並ぶ反射板が、ひとつだけ。
チリ、と震えた。
ドンッ!
その時、突然、結衣にぶつかって、追い越していく男。
「あっ!」
その衝撃で持っていたバッグを落としてしまう。
ばらまかれた化粧品やら筆記用具やら。
拾うために腰を下ろす。
『どうしたの? 結衣ちゃん。何かあった?』
「大丈夫。なんか男の人にぶつかられた」
一体、誰よ!
結衣の視線の先にいたのは、グレーのパーカーを着てフードを頭からかぶった男性。
まだ若そうなのに、まとわりつくような“圧”だけが残る。
男は、何食わぬ顔で歩き去り、やがて橋の先の闇の中へと消えて行った。
まったくもう。謝るくらいしなさいよね!
「ちょっと待っててね、亮くん」
薄暗い中、道路に忘れ物がないか確かめる。大丈夫だ。全部拾った。
そう確認した時だった。
反射板がもう一度、チリ……と震えた。
「よし、これで大丈……、えっ!?」
しゃがんだ足首に、
ひゅるり、と冷気が巻きつき──
そのすぐ後で、“何か”が触れた。
冷たい。
冷たさが、皮膚ではなく
骨の奥へ先に届いた。
心臓が、ひゅっと縮む。
亮の声がスマホで遠くなる。
「な、なに!?」
それは──女の手だった。
白く、細く、まるで死体のように冷たい。
その指は。
節だけが不自然に“硬く”。
爪先は紙やすりのように乾き、ざらついていた。
──結衣の体を、一気に鳥肌が駆け上がった。
人差し指が結衣のくるぶしを。
こり……こり……。
その音が。
結衣の“体の内側”だけで鳴っていると気づいた瞬間──
「い、いや……」
叫ぶより早く、
その“何か”が足首を強く締めた。
次の瞬間──
視界が、ぐん、と“横へ跳ねた”。
世界が急に傾き、身体ごと地面から引き剥がされる。
脳が追いつかず、
世界が流れる早さと身体の感覚がズレていく。
喉から絞り出した声が、
一度、空気に引きつって──
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
結衣の体は。
うつぶせのまま。
“すべるように”引きずられていく。
橋の鉄板が、容赦なく結衣の腕と脚を削っていく。
腕を必死に伸ばしても──指先は虚空を掴むだけ。
声の形だけが空気にちぎれる。
夜の橋は。
その悲鳴に、何の反応も返さなかった。
街灯がすごい速さで流れていった。
足先に深い闇が迫ってきた。
火花のように散る痛みが。
全身をかすめていく。
そして結衣は。
橋先の闇の、そのさらに奥へ──
──橋の上を吹き抜けた風が。
まるで誰かのすすり泣きを運んできた。
その後に残ったのは。
ちゃぷ、ちゃぷ……。
桟橋に打ち寄せる、波の小さな音だけ。
ちゃぷ、ちゃぷ……。
この闇の中、それ以外の音は消えていた。
『どうしたの? 結衣ちゃん!?』
その静寂を破るように、橋の中ほどに落ちたスマホから。亮の声がする。
『結衣ちゃん! 結衣ちゃん!!!!!!』
けれど、結衣にはもう返事ができない。
したくたって、できない。
だって。
もう、いないのだから──
スマホの液晶には『通話中 01:47…01:48…』
数字だけが増えていく。
やがて、その画面の光も。
結衣と同じように。
夜の闇に。
引き込まれるように。
ふっと。
息が止まるみたいに、消えた──
◆ ◆ ◆
翔太が栗落花淳と共に下校した、あの不穏な夕暮れから──数十日が過ぎた、ある夜。梅雨も近づき、水城の空気は、あの頃よりわずかに重く湿り気を帯び始めていた。
そんな一際、空気の重いその夜、翔太の家に“訪問者”があった。
インターホン越しに聞こえたのは、しわがれた低い声──
『海野美優さんが、こちらにいらっしゃるはずなんですが』
ただの来客ではない、と翔太は即座に悟った。
声に、妙な“重さ”があったからだ。
モニター越しの男は、大柄な体格に白髪混じりの頭。
刻まれた皺は“老獪”という語がそのまま形になったようで、背後には精悍で背の高い青年が控えていた。
その立ち姿は、警察官でも軍人でもない。
もっと“異界に触れてきた者”の重さを纏っていた。
モニターの前で、翔太は美優を呼ぶ。
美優はモニターを見るなり、ぱっと花が咲くみたいに表情を明るくした。
「大熊のおじさんだわ!」
翔太の知らない、美優の“家族の匂い”が一瞬だけ漂った。
細い黒髪が肩で跳ね、笑うより先に目だけが柔らかく細くなる。
そして翔太に声をかけるよりも早く、自然に玄関のドアを開けていた。
家の中にいる時よりも、美優は“娘”の顔になる。
そして大熊英治が入ってくると同時に、美優は飛びつき抱きついた。
「大熊のおじさん! 久しぶり!」
「おお、嬢ちゃん。相変わらず元気そうだな」
「うん、元気! またこんなに早く会えるなんて思わなかった!」
大熊の声には、親戚の子に向けるような親しさが混じっていたが──
その奥にある“仕事の色”が消えていないのを、翔太は感じ取っていた。
その後ろから青年が入ってくる。高木英人だ。
高木英人は、翔太を見ると静かに会釈した。
その所作は、年齢に似合わず洗練されている。
彼だけは笑っていない。
観察者の目──そんな冷静さがあった。
「あの、美優……。この人たちは……」
そんな翔太に、美優は満面の笑顔で言った。
「大熊のおじさんよ! 私のお父さんの知り合い。国際魔術会議の……ベテランエージェントなの!」
「そういうわけだ。よろしくな、兄ちゃん」
大熊はニンマリと笑みを見せながら、翔太を値踏みするように見た。
その瞬間──胸の奥で、ドクン、と鼓動が跳ねた。
(見られている……?)
まるで“自分の内側”を覗かれたような錯覚。
この男は、ただの知り合いなんかじゃない。
そのまなざしは、獣医が動物の体温を測るときのように冷静で、けれど“何かを確信した者”の目でもあった。
それに、この二人がまとっている奇妙なオーラ……。
彼らの身体からは、大きな“魔術の痕跡”が立ちのぼっていた。
笑う目尻には穏やかな皺が寄るのに、まとった空気だけが夜風よりも静かに深く揺らいでいる。
その揺らぎは、まるで“何か”が翔太の胸の奥に呼応しているようだった。
国際魔術会議。
父が関わり、美優の父が所属していた──謎めいた組織。
“追う側”なのか、“守る側”なのか。
翔太には、まだ判断がつかない。
父が関わっていた、そして美優の父が所属していた。
情報はただ、それだけだ。
「嬢ちゃんに話があってな。ちょっと上がらせてもらうぞ、兄ちゃん」
許可を求めるようでいて、その声には“拒否は想定していない”圧があった。
無邪気な美優の笑顔と裏腹に、奇妙な不安で胸が高鳴り続けていた。
「上がって上がって! スリッパ……あ、ごめん、左右ちがった。はい、猫と無地、どっちがいい? あ、翔太くん、これ使ってもいいんだよね?」
緊張の中なのに、美優の日常の気配がふっと灯る。
その柔らかさが、逆に“非日常”をくっきり浮かび上がらせる。
翔太は「あ、うん」としか言えない。ただ、そこで立っていることしかできない。
自分の知らない美優の姿は、まだあった。
それに、こうなってはもう、仕方がない。
翔太は、この突然の闖入者を受け入れることにした。
ただ、心の奥で。
“大熊英治は、この家に来るべきではなかったのかもしれない”
そんな答えの出ない不安だけが、静かにしこりのように湧き立った。
……胸の奥で、ひどく静かな警鐘だけが鳴っていた。
それが何を告げているのか、翔太にはまだ分からない。
大山結衣が引きずられていった橋
【撮影】八幡浜市「北灘橋」。北浜公園のすぐ近くにあり、港を渡る小さな橋。




