第31話 「悪魔って、信じる?」
第31話
(かたじけパーリナイって何だろう……)
翔太は、まだ気にしている。
そんなどうでもいい言葉を。
クラスの中、席に座ったまま小さな声でつぶやいてみる。
「かたじけ……パーリナイ……」
口に出した瞬間、後悔した。
隣の女子が、明らかに引いた顔をして目をそらす。
翔太は、そっとノートで顔を隠した。
悔しいことに、神表の“あの間”まで、耳から離れない。
脳のどこかで、あの軽口が延々とループする。
(かたじけ……パーリナイ……かたじけ……)
萎える。
どんどん冷えまくる。
だが。
『危険よ』
その美優の予言が翔太の心へ一気に熱を与えた。
それに。
あの時、神表は俺の目を覗き込みながらこう言った。
『お前、何か、まじってないか……?』
再度、自分の“魂”の形を思い出す。
破壊王”666の獣”とエジプト最高神の喰い合い。
(いや、俺は、人間だ)
何度もそう言い聞かせる。だがその心の声は言えば言うほど虚空に吸い込まれていく。
神表の言葉に、翔太は現実を支えきれなくなり始めていた。
あの寒いキメ台詞も含めて……
(かたじけ……パーリナイ……)
◆ ◆ ◆
──そんな翔太のもとへ、放課後、訪ねてくる者があった。
「北藤くん。ちょっといい?」
栗落花淳だった。
その声で、クラスの空気が一拍止まる。
何人かの視線が、反射的に黒板の方へ逸れた。
理由は分からない。ただ、翔太も息をのみこんだ。
「おお、栗落花……? 久しぶりじゃん」
……と、椅子から淳を見上げた。
と、同時に声を失う。
噂は本当だった。
身長が──違う。違いすぎる!
つい一ヶ月半前に彼を不良から助けた時は、淳は160センチ前半というところだった。
だが、今は翔太と同じぐらい……いや、もしかしたら少し高いぐらいになっている。
成長ではなく、何か“造り変えられた”ような違和感。
こんなの、自然現象では、あり得ない……
「つ、栗落花、お前……いや、あのさ……」
「今日、星見山を降りるまで一緒に帰らない? ちょっと話したいことがあるんだ」
だが翔太の言葉を淳は遮った。
その淳の笑顔が、どこか“時間の外”にあるように見える。
周囲のざわめきが遠のいた。
黒板が紺色に光り──教室ごと、歪んだように見えた。
思わず周囲を見渡す。
ざわめきが戻ってくる。
美優を探した。
いた。
美優がこちらをチラと見て、まばたきの“間”で何かを伝えた。
き・を・つ・け・て。
それから吉川りこに声をかけた。
「りこ、一緒に帰ろ」
美優は、りこと連れ立ってクラスを去って行ってしまった。
──分かっている。
翔太としてもこれは警戒に値する。
だけど、翔太としても、こう言うほかない。
「あ、ああ。いいよ。帰ろっか」
なんでもないかのように翔太は席を立つ。
これは、あの暴力沙汰やこの体型の変化について聞き出す、良いチャンスかもしれない──
胸に湧き上がる不穏とともに、翔太はクラスを出た。
その背後を、淳が着いてくる。
にこにことしながら……
◆ ◆ ◆
星城学園の校門から見た光景。
【撮影】愛媛県八幡浜市愛宕山。八幡浜の中心街が一望できる。
星城学園は、星見山の中腹、海抜五十メートルぐらいの位置にある。校門を出て眼前に広がるのは、水城市の全景。
港町として栄えた過去があり、平野の向こうには夕陽の光でギラギラと水の腹を光らせた海が見える。
水城湾の左の岬・諏訪崎への入り口に造船場。
リアス式海岸のその岬は、知る人ぞ知る美しい景観を誇っており、南国ならではの透明感ある青の海がキラキラと海面の腹を光らせている。
諏訪崎は、地元の人からも昔から愛される癒やしポットだ。
これらを眺めながら坂道を下っていくと、ゆるやかなカーブがある。ここから剣道部や柔道部が練習を行う武道館。その道のりは桜並木になっている。
この季節。
桜はほぼ葉桜。
それでもヒラヒラと舞い落ちるピンク。
それも、時期外れであり、翔太の不安はますます増していった。
「聞いたぜ、今朝の話」
だが、話を切り出したのは翔太からだった。
「一人で三年に乗り込んだって聞いた。勇気あるな」
視線が、もう見上げる角度になっている。
それを翔太は気づかないふりをした。
淳は照れ笑いを浮かべた。
「うん。そうなんだ……。クラスのみんなも驚いてくれたよ」
風は背から前へ吹いているのに、淳の前髪だけが遅れて揺れた。
淳がいるB組は「集団飛び降り事件」でその半数を失った。
B組は、今もその悲しみと衝撃でいっぱいのはずだ。
だが淳の笑顔には、“その事実”がない。笑顔に揺らぎがない。
「ちょっと……。ちょっと一ヶ月半ぐらい学校を休んで、秘密の特訓をしてみたんだ。それでどれぐらい力がついたか試してみようと思って」
「いや、数週間じゃ背は……いや。力はつかないだろ」
淳のブレザーの袖口がすでに短い。 手首の骨が、桜色の光に白く浮いている。
「先輩、五人ほど、のしちゃったんだろ。栗落花、本当はお前、もともと喧嘩強かったんじゃないか?」
そこで淳は意味深な笑みを浮かべた。
「どうかな……。でも、自信はついたよ」
ふと、青臭い湿りが鼻先をかすめる。
葉桜の香りにまざって、生け垣を切った後みたいな、緑の匂いがした。
「これからも、もっともっと強くなるつもりでいるんだ。翔太くんにも負けないぐらい」
「そっか、それは怖いな」
嘘ではない。そう思わせる凄みがすでに淳には宿っている。
「俺も聞いて驚いたよ」
ここで翔太は例の三年生を叩きのめした件を聞き出そうとした。
もっと詳細を知りたかったからだ。
だが、その言葉も淳に遮られた。
「身長のことには触れてくれないんだね」
一瞬、時間が止まった。
聞き出す順番として、それはあまりにも確信に近すぎた。
けれど、そう言われた以上、もう話を合わせるしかない。
「……背、伸びたよな。なんか、すごいな……」
「そうでしょ。自分でも驚いているんだ。こんなことってあるんだね」
一瞬、脳裏をかすめた。
──まさか、今の『カスケード』の活性化と栗落花淳の異変。何か関係があるのではないか……と。
「でも、一ヶ月半でどうやって……」
「ねえ、翔太くん」
また遮ってくる。
そして歩調だけは合わせながら、ふっと笑う。
「この世にさ、“死んでもいい”って思えるくらいのクズ、いない?」
淳の声の温度が変わった。
春風が凍りついた。
何を言い出すんだ、こいつは……
疑惑が抑えきれない。
気づかない間に、ドッドッと心臓が胸を強く打ち始めている。
「今、……なんて言った?」
「いや。翔太くんも昔、僕みたいなイジメられっ子だったって聞いてたからさ。今でも恨みを持ってるヤツの一人や二人はいるのかなぁって」
翔太は答えを失う。
いや。確かにその話はした。
だが触れられたくない過去を、慰めるために敢えて明かしたエピソードだ。
それをこんなにも軽く……
まるで人間の心をなくしてしまったかのよう。
翔太はより警戒を強める。
「世の中には、死んだほうがいいヤツらはたくさんいる。僕はね、そういうヤツらを根絶やしに出来ないかなって考えてる。うちみたいな進学校にも、クズみたいなヤツらはいる。世の中に出たら、きっともっとゲス野郎はいる。そいつらをこの世から消してしまい。そう考えるようになった……」
目の前の知り合ったばかりの“友達”を、まだ人間だと信じたい自分がいる。
「だから僕は、僕みたいな、虐げられるだけだった人を救いたい。その為には、力がいる」
「力……か……」
「悪魔って信じる?」
「え……!?」
それはあまりにも唐突だった。
──こいつ、まさか……。
翔太は思わず自分の“魂”……胸に手をやった。
「ねえ。どうしたの? 聞いてるんだよ。僕は」
もし、神表が言う『カスケード』の世界規模の霊的エネルギーの影響が淳に及んでいるとしたら……
「ねえ、悪魔って信じる?」
執拗な淳の質問に翔太は、かろうじて笑った。
笑っていないと、淳が『カスケード』の何かしらの“活性化”に巻き込まれたという疑いが、確信に変わりそうだった。
見たのか、悪魔を……?
それとも、見たのか、俺の中の“魂の在り方”を……
──桜の花弁が一枚、靴先で潰れた音がした。
潮の匂いがここまで上ってくる。
翔太が「信じない」と言う前に、淳がもう一歩、翔太へと近づいてきた。
坂の下、水城市がきらめいた。その一角だけ、光が抜けた気がした。
「どうして笑うの?」
「あ……いや」
翔太は、口元だけで笑おうとしてうまく形にならず、頬の筋肉がわずかに震えた。
もうすぐ訪れる夏を飛び越し、秋の温度まで空気が冷えた気がした。
「話がね、唐突だなと思って」
「そうでもないよ」
栗落花淳はそう続ける。
「神はね、何もしてくれないんだよ。僕がどれだけいじめられても、見て見ぬふりさ。薄情だろ? そんな存在より──悪魔のほうがずっと“人間らしい”。魂に見返りを求める。約束を守る。代償もなしに『愛』を与える存在なんて、信用できないよ。だって、責任を取らないってことだから」
その言い方は、まるで“実際に見てきた”かのようだった。
『カスケード』の活性化。霊的エネルギーの増大。
その影響……淳にだけ強く触れた可能性もある。
だが、翔太の直感は否定する。
“淳そのもの”は、まだ人間だ。
──ただし、“何か”が触れた痕がある。
その“痕”の正体だけが、分からない。
「どうだろうな……」
疑惑は増す。
かまわず淳は騙り続ける。
「世の中はね、善と悪なんて単純な二元論じゃ測れないんだよ。力には力を──悪には悪をぶつけるしかない。“力”って、それ自体が悪だ。代償のない博愛なんて幻想。純粋な正義? そんなものは存在しない。祝福も、優しさも、所詮は嘘だよ。……だから僕は、力で相手を屈服させて分かったんだ。勝った者だけが“正しい”んだ、って」
「…………」
淳の声の奥底に、ほんのかすかな震えがあった。
それは──「助けて」と言っているようにも聞こえた。
だが、表情は笑顔のまま。
そのギャップが、いちばん怖い。
急な成長。体内ホルモンの異常……?
医学的な問題に『カスケード』が影響を与えた?
分からない。今の淳からは、分からない。
「正義は主観的なものでしかない。僕がアイツらに行った行為は、アイツらにとっては悪かもしれないけど、僕にとっての正義だ。絶対の正義……そんなものを説く神様の言葉なんて、耳障りのいい免罪符だ」
神への冒涜の言葉の数々……
だが、すべては否定できない。
翔太は美優の言葉を思い出した。
──「神表洋平……。あれは、自分の“正義”の為なら人だって殺すタイプね」
淳の言っているのはそれに近いのかもしれない。
その背景は置いておくとして、とにかく淳は今、自分の力に自信を持っている。信じられないことだが、この数週間で、淳は精神的にも肉体的にも大きく強くなった。
もし『カスケード』がこのように人体にも影響を与えることがあるのだとしたら。
彼はその被害者ということになる。
逡巡する。困惑する。
別れ際、淳は「翔太くんなら分かってくれると思ったから話した」と言った。
「だって翔太くんも──“正義”の人間じゃないよね?」
背中越しのその声が、妙に低く響いた。
翔太はなぜかそれが、自分への“悪意”を帯びているように感じた。
麓にある翔太の家の前から、淳が向かった先は繁華街の方。
寄り道でもするのだろうか?
それとも何か買い物?
坂道上がりにある掲示板。迷い猫の張り紙の上に、今日貼られたばかりの「行方不明」の紙が揺れている。その紙が、風と逆にめくれる。
背筋が寒くなった。淳に一体、何が起こったのだろう。
やはり、今の栗落花淳は、
おかしい……
そして──ちょうどその頃からだった。
水城市で、“説明のつかない失踪”が増え始めたのは。
風向きが変わったかのように。
街全体が、見えない何かに飲み込まれていくように。
翔太と栗落花淳が話しながら歩いた通学路。
【撮影】八幡浜市愛宕山。奥に見えるのは武道館。春になるとこの坂道は美しい桜のアーチができる。




