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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第一章 サバト編~その愛は、死を招く

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第30話 距離、近すぎます神表さん

第30話


「なあ聞いた? 栗落花つゆりのヤツ、三年のフロアに突っ込んだってよ!」

「マジ? 一ヶ月半ぶりの登校でそれ!?」

「しかも背、十センチは伸びてんだぞ。声も別人みたいに低くなってた……」

「三年って、あの元崎もとざきさんがいるはずだよな」

「元崎さんたちは今日も休みだよ。あのグループがいねーって時点で、やべーだろ。誰か他に止められるヤツらいねーのかよ!」


 ◆   ◆   ◆


「……ああ、なるほど。こりゃあ、強いな」


 栗落花淳つゆりじゅんは、拳の皮がひび割れた手を軽く回し、「人間の骨ってこんなに軽かったっけ?」と、他人事のように笑った。


 息が上がらない。心臓も、痛くない。

 それが何より、心地よかった。


 その淳の前には五人の不良たち。どれも浦辺の手下──学園でも問題児扱いの連中ばかりだ。彼らにはもう、立ち上がる余裕すらない。


 星城学園せいじょうがくえん高等部三年生のフロアは大騒ぎになっていた。その騒然とした廊下を、淳は臆すことなく歩いていく。


 淳が一歩進むたび、廊下のざわめきが音をなくす。

 誰も目を合わせない。ただ、彼のために道ができる。

 その“恐れ”が肌に触れるたび、舌の奥が甘く痺れる。

 口角だけが上がり、瞳は一滴も笑っていない。


(これで僕も、今後いじめられることはないな)


 思わず笑みがこぼれる。その笑顔は、三年生たちをゾッとさせるには十分だった。


 これまでの淳にはなかった表情……。


 それは。


 かつて“助けを求めても誰も振り向かなかった日々”の、反転。


 ──“悲哀”を帯びた“邪悪”さだ。


 ◆   ◆   ◆


 朝のホームルーム。担任が教壇を叩きながら怒鳴る。


「いいか! 暴力で物事を解決するなんて、うちの学園では断じて許さん! 困ったら教師に相談だ!」


 当然、話題は“栗落花淳”。

 朝の騒ぎは翔太の耳にも届いていた。

 あの淳が──人を殴った、という。


「分かったな! ……というわけで、こんな時期に珍しいが、転校生を紹介する。入りなさい」


 その声で教室に入ってきた生徒を見て、翔太と美優は思わず同時に声を上げた。


「「あっ!」」


 声に反応し、その生徒は翔太と美優を交互に見る。


「お、見覚えあるね。かわいこちゃんに、その“王子さま”のお兄ちゃん。再会だ」


 それは、国際魔術会議ユニマコン悪魔祓い師(エクソシスト)神表洋平かみおもてようへいだった。


「なんだ、知り合いか?」

「はい。一度、お会いしたことがありまして」


 と神表は陽気に笑う。


「そうか。なら、話は早い。北藤ほくとう、海野、神表くんをよろしくな。彼は剣道二段。転入試験もほぼ満点で合格した優秀な生徒だ。皆も仲良くするように」


 転校生の笑顔は無邪気に見えたが、翔太と美優には一瞬、見えた。

 あの“光の裏"の素顔が。


 ◆   ◆   ◆


「何が目的なの?」


 昼休み。美優は神表を、校舎の屋上に呼び出していた。もちろん、翔太もだ。


国際魔術会議ユニマコンの人間がこの街に派遣されることは珍しくないけど、転校までして入り込んでくるなんてよほどじゃない」


 翔太としても気になる。例の高校生集団飛び降り事件。その直前に、デルピュネーやシャパリュ、そして神表との戦闘があったと聞いている。この男が敵なのか味方なのか。翔太にとって重要な問題だ。


「海野さん、って言ったかな、かわいこちゃん」


 神表は、校舎の風を背に、いつもの調子で笑う。


「知ってるよね。『カスケード』。霊的エネルギーが世界で暴れ始めてる。で、爆心地はこの水城市……この水城市が爆心地だ」


 美優は表情を引き締める。


(やっぱり……。彼が真っ先に送り込まれた理由が分かったわ。この街に、異常が起きてる……)


「で、俺はその調査ついでの“転校生ミッション”。上は“線が全部ここに集まる”って言ってた──ぶっちゃけ、ヤバい」


 お父さんの説明と矛盾してるところはない。美優は尋ねる。


「そのヤバいってのが私も気になってるの。何が、どうヤバいの? 聞いてる?」

「いや、それが、な~んにも」


 翔太は拍子抜けした。

 そうだ。こんなヤツだった……。


「上のやつら、俺たちに命令するだけで肝心なところはな~んも教えてくれないの。命令だけ早い。中身はスッカスカ。……ま、俺の仕事は単純。湧いてくる化け物を全部ぶっ飛ばすだけ」

「……軽いな」翔太がぼそり。

「いやあ、命かかってる分、明るくしないとね? ストレスでハゲたくないし」

「うるさい」


 相変わらず食えない。

 美優は思わず口元を緩めかけて、神表の目に宿る“温度ゼロ”を見て、笑みを引っ込めた。


「それでもいいけど、なんかきな臭いんだよなぁ。俺の親父もその上層部にいるけど、まったく連絡取れね~し。まったく、国際魔術会議ユニマコンが何して~のか、俺もどんどんわからなくなってくるよ。……まあ、それは置いといて。なあなあ、かわいこちゃん。俺たち同じ国際魔術会議ユニマコン関係なんだからさ、住所とLINESと電話番号を教えてよ。仲良くしよーぜ」

「は?」


 突然、自分の矛先が向いて美優は驚いた。


「もしかしたら俺が知っている情報で、かわいこちゃんが知らないこともあるかもしれない。逆もまたしかりだ」

「あ~。そっか。そっかそっか。……バカなのね」

「ああ、バカだ」と翔太。

「バカなら仕方ないか」

「仕方ないね……」

「う~ん。素晴らしいね。その“ツン”の感覚、それも俺の好みだ。萌えか。これが萌えなのか」


 とんだラブコメ野郎だ。

 いやわざと、こんなふうにはぐらかしてる可能性も。


「まあ、いっか。それより水城市を離れることを決めた世帯が何十とあるらしいぜ。それほどここは危険だと誰もが思い始めた。そんな危険な場所で、遊撃隊として単独行動。しかも隠密で、姿をあまり見せないように……無茶ぶりもいいとこだよ。な? そう思うだろ。王子さま」


 あまり聞いても得になる情報はなさそうだ。

 翔太は手っ取り早く、自分が聞きたかったことを口にした。


「俺の死んだ親父が国際魔術会議ユニマコン関連の神父だった。お前。悪魔祓い師(エクソシスト)だろ。もしかして、俺の親父のこと、知ってるんじゃないか?」

「い~や、知らないねぇ」


 神表は興味なさげに答える。


「俺の親父も神父職だ、でも国際魔術会議ユニマコン上層部の情報はまったく話さない。てか、ほとんど連絡も取れない。──まあ、あんたよりは俺の方がいろいろ知っているだろうが、生憎あいにく、俺は男に優しくする趣味はない」

「じゃあ、私には優しくしてくれるわけね」と美優。

「翔太くん、ちょっと下がっといて。私、あなたが持っている情報とやら、気になってるの。私たちが何を知らなくて、あなたが何を知ってるのか。教えてくれないかしら」

「さすが、かわいこちゃん! その上から目線、たまんないね」


 神表はニマニマ笑ってばかりだ。


「でも、こうしてクラスメイトにもなれたわけだし。守秘義務以外のことで、何か分かったら当然、情報共有する」

「そう。じゃあお願いするわ」と美優が帰ろうとした時。

「ただぁ」と神表。

「今、この街。化け物がうようよいるって話。それは知ってる?」


 美優の顔色が変わった。


「なに! そんな重大なこと、なんで黙ってたのよ!」

「いやあ。それぐらいは知ってるって思っててね。知らなかったのかあ」


 おそらくその中に、デルピュネーとシャパリュも入っている。

 だが、うようよというからには、それだけじゃない。


「数は? どれぐらい? どんなヤツら?」


 詰め寄る美優にニヤニヤしていた神表だったが、ふと、突如、真顔に戻った。


「なあ、北藤ほくとう


 突如、呼び捨てにされて驚く。


「なんだよ」と翔太はやや不機嫌に答えた。

「俺のことも神表かみおもてと呼び捨てでいい。そっちの方が楽だからな」

「そんなのどうでもいいよ。それより何だよ。呼んだからには用があんだろ」

「それにしても、お前の目は面白いな、北藤」


 ────え?


 神表が、一歩、距離を詰める。

 急に真剣な表情になり、じっと翔太の目を見つめる。


「ちょ、ちょっと」


 なぜか美優のほうが慌てる。


「少~し、よく見せてみ?」


 神表は右手で、ためらいなく翔太の顎を上げた。

 顔が近づく。

 吐息が頬を撫で、睫毛の影が重なりそうな距離。

 翔太は一瞬、息を呑んだ。

 なぜか、動けない。

 金縛りにあったみたいだ。


「な、な、……何してんのよ! あんたたちっ、距離感!」

「しっ! 黙って」


 そう美優を制し、人差し指を自身の唇に当てる。

 神表の声が一段、低く落ちた。冗談の温度が消えている。

 翔太はゴクリと息を呑む。


「ちょ、ちょっと! 近い! 近い近い近い!」


 美優は真っ赤になって手をばたつかせる。

 だが。

 耳元で囁かれた次の言葉で状況は一気に変わった。


「お前……何か、混ざってないか……?」

「……!」


 翔太の胸がひときわ大きく鼓動した。

 瞳を通して、その胸の奥の翔太の“魂の在り方”まで覗かれているような気がした。


 ──こ、こいつ……まさか……?


 二人は、動かなかった。たった数秒──なのに、永遠みたいに長かった。


「ちょ、ちょ、ちょっと、あんたたち。離れなさいよ。距離! おかしい! バグってる、距離!」


 美優ばかりが、手をわたわたさせていた。


 神表が口元をわずかに緩めた。

 その笑みは、舞台の幕が降りる前に役者がふと素に戻る瞬間のようだった。

 校舎の風が、三人の間を抜ける。

 さっきまでの冗談が、まるで風と一緒にどこかへ運ばれていくよう。

 ほんの一瞬の沈黙──それが、これから起きる“何か”のための空白になった。

 そして。

 神表は翔太の顎から手を放した。


「うん……」


 翔太はまだ動けない。

 そして耳の先まで真っ赤になっている美優に向かって言う。


「安心しろ。さっきも言ったが、俺は男には興味がない。……まあ、男のわりには“整ってる”とは思ったがな」

「そういう話じゃなくて!」

「いや──そういう話さ」


 神表はようやく翔太から顔を離した。

 その笑みは軽いのに、背筋の奥に冷たい指が触れたような感覚を残す。

 翔太はいまだ、動けない。

 そんななかで。

 神表だけが、まるで舞台の幕が下りたのを察したように、「帰ります」モードに入っていた。


「北藤も、もし何かおかしな現象を見つけたら知らせてくれ。俺のLINESのIDは、小文字で“superelite”。……“スーパーエリート”だ」


 一拍おいて、意味不明なテンションで続ける。


「LINES登録、事前に結果的に最終的に、君たちの超チルな卍行為に──かたじけパーリナイ!」


 ……風が鳴る。


 すごく冷たい空気にさらされたような気持ちになった。

 翔太も美優も、ただ絶句。


 こうして、ラブコメ卍エクソシストは、背を向け、そのまま去って行った。凍える翔太と美優を残して……


 神表が去っていく背中を、二人はしばらく見送った。

 校舎のガラス窓が風に鳴る。


「……寒いわね」

「寒いな」


 二人はそれぞれぼそっと呟く。

 美優の頬の熱さはこの冷たい雰囲気で一気に下がっている。

 元通りの美優だ。

 そして。


「あれ、どう思う?」

「どう思うって……。デルとシャパリュの話だと、あれで相当に腕が立つらしいんだが」

「そっか」

「うん」

「腕が立つんだ」

「うん」

「鳥肌が立ったわ」

「わかる」

「もしかして、あの話し方で相手のやる気を削ぐだけって、オチじゃないわよね」

「あんなの戦闘中に聞いたら、味方ですら力抜けちゃうよな」

「敵にも味方にもしたくない感じ」

「そういう意味では」

「まあ、クラスメートにはなっちゃったけど」

「なっちゃったな」


「はあ」と美優はため息を付いた。


「でも……」


 と、続ける。


「あれは、演じてるだけの可能性もあるわ。いわゆる煙に巻くってヤツよ。単独行動、しかも隠密で魔物退治を任せられるほどの人間なら、あの軽さも仮面のひとつかもしれない」

「あれを……演じてる?」

「どこまでが真意か分からないようにね」

「単に人間関係で損するだけだろ」

「それも計算かもしれない」


 美優は空を見上げる。


「“あの”、国際魔術会議ユニマコンが認めた男よ。しかも私たちと同い年。何かないと、そんな子どもに、単独行動なんて許されると思う?」

「もしかして」


 翔太はハッとする。


「美優、お前、あいつから何か……感じ取ったのか?」

「……うん」


 美優は真剣な表情で言った。


「私の中の“マグス”の資質が、あの男を危険だと告げてる。……多分、彼は、自分の“正義”のためなら、人でも殺せる」

「まさか。あれでも悪魔祓い師(エクソシスト)っていうからには、神職だぞ」

「いいえ」


 美優は断言する。


「私には分かる。敵に回さないに越したことない。今のところは平和同盟を結んどいた方がいいでしょうね。ことは起こさないことよ。あれ《・・》がいつ敵になっても……」


 美優の言葉が風に溶ける。

 翔太は無言で頷いた。

 胸の奥で、なにか小さく泡立つような不安。

 その不安が、どこから来るのかはまだ分からない。

 ただ、校舎の影がわずかに長く伸びていた。


 ──美優には昔から、不思議な“力”がある。

「あの人は危ない」

 そう彼女が言う人間は、ことごとく、何らかのクセがあった。


 その美優が、神表を「危険」と言う。


 しかも“断言”した。


 翔太は、神表が去って行った方を見る。あの男をどう扱えばいいのか。

 自分が魔物と同居していることが知られたら、あの男は俺も殺しに来るのだろうか……。


 ◆   ◆   ◆


 その瞬間、太陽が雲に隠れた。

 校舎の屋上に、ほんの少しだけ“影の時間”が落ちる。


 それは、老人の姿をしていた。


 全身を覆うフードを被り、手には巨大な鎌。そして顔から下には。


 “肉”がない──。


 完全に骨が露出しており、顔だけに肉、首から下は白骨──いわば、歩く“死”のような様相を呈していた。


 血色の良い顔だけがニヤリと笑う。瞳はほぼ白に近い。


 歯はところどころ抜け落ちている。


「バフォメットさまがおっしゃった通りだ」


 その老人は言った。


「自らの母の小指を呑んだあの愚かな“呪いの卵”だけじゃない。ここにはワシらの餌が多い……。楽しみじゃ……」


 ゲッゲッゲッと笑う。


 その老人の元へ、雀が飛んで近づいてきた。


 次の瞬間。


 雀はポトリと落ちた。


 魂を抜かれて──


 魂を“喰われて”。


 雀の目が白く濁り、胸は動かない。


 老人は舌なめずりをする。


 近づくだけで魂を抜く、その者……。


 風も立てずに消え、校内チャイムの余韻が低く歪んだ。

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