第30話 距離、近すぎます神表さん
第30話
「なあ聞いた? 栗落花のヤツ、三年のフロアに突っ込んだってよ!」
「マジ? 一ヶ月半ぶりの登校でそれ!?」
「しかも背、十センチは伸びてんだぞ。声も別人みたいに低くなってた……」
「三年って、あの元崎さんがいるはずだよな」
「元崎さんたちは今日も休みだよ。あのグループがいねーって時点で、やべーだろ。誰か他に止められるヤツらいねーのかよ!」
◆ ◆ ◆
「……ああ、なるほど。こりゃあ、強いな」
栗落花淳は、拳の皮がひび割れた手を軽く回し、「人間の骨ってこんなに軽かったっけ?」と、他人事のように笑った。
息が上がらない。心臓も、痛くない。
それが何より、心地よかった。
その淳の前には五人の不良たち。どれも浦辺の手下──学園でも問題児扱いの連中ばかりだ。彼らにはもう、立ち上がる余裕すらない。
星城学園高等部三年生のフロアは大騒ぎになっていた。その騒然とした廊下を、淳は臆すことなく歩いていく。
淳が一歩進むたび、廊下のざわめきが音をなくす。
誰も目を合わせない。ただ、彼のために道ができる。
その“恐れ”が肌に触れるたび、舌の奥が甘く痺れる。
口角だけが上がり、瞳は一滴も笑っていない。
(これで僕も、今後いじめられることはないな)
思わず笑みがこぼれる。その笑顔は、三年生たちをゾッとさせるには十分だった。
これまでの淳にはなかった表情……。
それは。
かつて“助けを求めても誰も振り向かなかった日々”の、反転。
──“悲哀”を帯びた“邪悪”さだ。
◆ ◆ ◆
朝のホームルーム。担任が教壇を叩きながら怒鳴る。
「いいか! 暴力で物事を解決するなんて、うちの学園では断じて許さん! 困ったら教師に相談だ!」
当然、話題は“栗落花淳”。
朝の騒ぎは翔太の耳にも届いていた。
あの淳が──人を殴った、という。
「分かったな! ……というわけで、こんな時期に珍しいが、転校生を紹介する。入りなさい」
その声で教室に入ってきた生徒を見て、翔太と美優は思わず同時に声を上げた。
「「あっ!」」
声に反応し、その生徒は翔太と美優を交互に見る。
「お、見覚えあるね。かわいこちゃんに、その“王子さま”のお兄ちゃん。再会だ」
それは、国際魔術会議の悪魔祓い師、神表洋平だった。
「なんだ、知り合いか?」
「はい。一度、お会いしたことがありまして」
と神表は陽気に笑う。
「そうか。なら、話は早い。北藤、海野、神表くんをよろしくな。彼は剣道二段。転入試験もほぼ満点で合格した優秀な生徒だ。皆も仲良くするように」
転校生の笑顔は無邪気に見えたが、翔太と美優には一瞬、見えた。
あの“光の裏"の素顔が。
◆ ◆ ◆
「何が目的なの?」
昼休み。美優は神表を、校舎の屋上に呼び出していた。もちろん、翔太もだ。
「国際魔術会議の人間がこの街に派遣されることは珍しくないけど、転校までして入り込んでくるなんてよほどじゃない」
翔太としても気になる。例の高校生集団飛び降り事件。その直前に、デルピュネーやシャパリュ、そして神表との戦闘があったと聞いている。この男が敵なのか味方なのか。翔太にとって重要な問題だ。
「海野さん、って言ったかな、かわいこちゃん」
神表は、校舎の風を背に、いつもの調子で笑う。
「知ってるよね。『カスケード』。霊的エネルギーが世界で暴れ始めてる。で、爆心地はこの水城市……この水城市が爆心地だ」
美優は表情を引き締める。
(やっぱり……。彼が真っ先に送り込まれた理由が分かったわ。この街に、異常が起きてる……)
「で、俺はその調査ついでの“転校生ミッション”。上は“線が全部ここに集まる”って言ってた──ぶっちゃけ、ヤバい」
お父さんの説明と矛盾してるところはない。美優は尋ねる。
「そのヤバいってのが私も気になってるの。何が、どうヤバいの? 聞いてる?」
「いや、それが、な~んにも」
翔太は拍子抜けした。
そうだ。こんなヤツだった……。
「上のやつら、俺たちに命令するだけで肝心なところはな~んも教えてくれないの。命令だけ早い。中身はスッカスカ。……ま、俺の仕事は単純。湧いてくる化け物を全部ぶっ飛ばすだけ」
「……軽いな」翔太がぼそり。
「いやあ、命かかってる分、明るくしないとね? ストレスでハゲたくないし」
「うるさい」
相変わらず食えない。
美優は思わず口元を緩めかけて、神表の目に宿る“温度ゼロ”を見て、笑みを引っ込めた。
「それでもいいけど、なんかきな臭いんだよなぁ。俺の親父もその上層部にいるけど、まったく連絡取れね~し。まったく、国際魔術会議が何して~のか、俺もどんどんわからなくなってくるよ。……まあ、それは置いといて。なあなあ、かわいこちゃん。俺たち同じ国際魔術会議関係なんだからさ、住所とLINESと電話番号を教えてよ。仲良くしよーぜ」
「は?」
突然、自分の矛先が向いて美優は驚いた。
「もしかしたら俺が知っている情報で、かわいこちゃんが知らないこともあるかもしれない。逆もまた然りだ」
「あ~。そっか。そっかそっか。……バカなのね」
「ああ、バカだ」と翔太。
「バカなら仕方ないか」
「仕方ないね……」
「う~ん。素晴らしいね。その“ツン”の感覚、それも俺の好みだ。萌えか。これが萌えなのか」
とんだラブコメ野郎だ。
いやわざと、こんなふうにはぐらかしてる可能性も。
「まあ、いっか。それより水城市を離れることを決めた世帯が何十とあるらしいぜ。それほどここは危険だと誰もが思い始めた。そんな危険な場所で、遊撃隊として単独行動。しかも隠密で、姿をあまり見せないように……無茶ぶりもいいとこだよ。な? そう思うだろ。王子さま」
あまり聞いても得になる情報はなさそうだ。
翔太は手っ取り早く、自分が聞きたかったことを口にした。
「俺の死んだ親父が国際魔術会議関連の神父だった。お前。悪魔祓い師だろ。もしかして、俺の親父のこと、知ってるんじゃないか?」
「い~や、知らないねぇ」
神表は興味なさげに答える。
「俺の親父も神父職だ、でも国際魔術会議上層部の情報はまったく話さない。てか、ほとんど連絡も取れない。──まあ、あんたよりは俺の方がいろいろ知っているだろうが、生憎、俺は男に優しくする趣味はない」
「じゃあ、私には優しくしてくれるわけね」と美優。
「翔太くん、ちょっと下がっといて。私、あなたが持っている情報とやら、気になってるの。私たちが何を知らなくて、あなたが何を知ってるのか。教えてくれないかしら」
「さすが、かわいこちゃん! その上から目線、たまんないね」
神表はニマニマ笑ってばかりだ。
「でも、こうしてクラスメイトにもなれたわけだし。守秘義務以外のことで、何か分かったら当然、情報共有する」
「そう。じゃあお願いするわ」と美優が帰ろうとした時。
「ただぁ」と神表。
「今、この街。化け物がうようよいるって話。それは知ってる?」
美優の顔色が変わった。
「なに! そんな重大なこと、なんで黙ってたのよ!」
「いやあ。それぐらいは知ってるって思っててね。知らなかったのかあ」
おそらくその中に、デルピュネーとシャパリュも入っている。
だが、うようよというからには、それだけじゃない。
「数は? どれぐらい? どんなヤツら?」
詰め寄る美優にニヤニヤしていた神表だったが、ふと、突如、真顔に戻った。
「なあ、北藤」
突如、呼び捨てにされて驚く。
「なんだよ」と翔太はやや不機嫌に答えた。
「俺のことも神表と呼び捨てでいい。そっちの方が楽だからな」
「そんなのどうでもいいよ。それより何だよ。呼んだからには用があんだろ」
「それにしても、お前の目は面白いな、北藤」
────え?
神表が、一歩、距離を詰める。
急に真剣な表情になり、じっと翔太の目を見つめる。
「ちょ、ちょっと」
なぜか美優のほうが慌てる。
「少~し、よく見せてみ?」
神表は右手で、ためらいなく翔太の顎を上げた。
顔が近づく。
吐息が頬を撫で、睫毛の影が重なりそうな距離。
翔太は一瞬、息を呑んだ。
なぜか、動けない。
金縛りにあったみたいだ。
「な、な、……何してんのよ! あんたたちっ、距離感!」
「しっ! 黙って」
そう美優を制し、人差し指を自身の唇に当てる。
神表の声が一段、低く落ちた。冗談の温度が消えている。
翔太はゴクリと息を呑む。
「ちょ、ちょっと! 近い! 近い近い近い!」
美優は真っ赤になって手をばたつかせる。
だが。
耳元で囁かれた次の言葉で状況は一気に変わった。
「お前……何か、混ざってないか……?」
「……!」
翔太の胸がひときわ大きく鼓動した。
瞳を通して、その胸の奥の翔太の“魂の在り方”まで覗かれているような気がした。
──こ、こいつ……まさか……?
二人は、動かなかった。たった数秒──なのに、永遠みたいに長かった。
「ちょ、ちょ、ちょっと、あんたたち。離れなさいよ。距離! おかしい! バグってる、距離!」
美優ばかりが、手をわたわたさせていた。
神表が口元をわずかに緩めた。
その笑みは、舞台の幕が降りる前に役者がふと素に戻る瞬間のようだった。
校舎の風が、三人の間を抜ける。
さっきまでの冗談が、まるで風と一緒にどこかへ運ばれていくよう。
ほんの一瞬の沈黙──それが、これから起きる“何か”のための空白になった。
そして。
神表は翔太の顎から手を放した。
「うん……」
翔太はまだ動けない。
そして耳の先まで真っ赤になっている美優に向かって言う。
「安心しろ。さっきも言ったが、俺は男には興味がない。……まあ、男のわりには“整ってる”とは思ったがな」
「そういう話じゃなくて!」
「いや──そういう話さ」
神表はようやく翔太から顔を離した。
その笑みは軽いのに、背筋の奥に冷たい指が触れたような感覚を残す。
翔太はいまだ、動けない。
そんななかで。
神表だけが、まるで舞台の幕が下りたのを察したように、「帰ります」モードに入っていた。
「北藤も、もし何かおかしな現象を見つけたら知らせてくれ。俺のLINESのIDは、小文字で“superelite”。……“スーパーエリート”だ」
一拍おいて、意味不明なテンションで続ける。
「LINES登録、事前に結果的に最終的に、君たちの超チルな卍行為に──かたじけパーリナイ!」
……風が鳴る。
すごく冷たい空気にさらされたような気持ちになった。
翔太も美優も、ただ絶句。
こうして、ラブコメ卍エクソシストは、背を向け、そのまま去って行った。凍える翔太と美優を残して……
神表が去っていく背中を、二人はしばらく見送った。
校舎のガラス窓が風に鳴る。
「……寒いわね」
「寒いな」
二人はそれぞれぼそっと呟く。
美優の頬の熱さはこの冷たい雰囲気で一気に下がっている。
元通りの美優だ。
そして。
「あれ、どう思う?」
「どう思うって……。デルとシャパリュの話だと、あれで相当に腕が立つらしいんだが」
「そっか」
「うん」
「腕が立つんだ」
「うん」
「鳥肌が立ったわ」
「わかる」
「もしかして、あの話し方で相手のやる気を削ぐだけって、オチじゃないわよね」
「あんなの戦闘中に聞いたら、味方ですら力抜けちゃうよな」
「敵にも味方にもしたくない感じ」
「そういう意味では」
「まあ、クラスメートにはなっちゃったけど」
「なっちゃったな」
「はあ」と美優はため息を付いた。
「でも……」
と、続ける。
「あれは、演じてるだけの可能性もあるわ。いわゆる煙に巻くってヤツよ。単独行動、しかも隠密で魔物退治を任せられるほどの人間なら、あの軽さも仮面のひとつかもしれない」
「あれを……演じてる?」
「どこまでが真意か分からないようにね」
「単に人間関係で損するだけだろ」
「それも計算かもしれない」
美優は空を見上げる。
「“あの”、国際魔術会議が認めた男よ。しかも私たちと同い年。何かないと、そんな子どもに、単独行動なんて許されると思う?」
「もしかして」
翔太はハッとする。
「美優、お前、あいつから何か……感じ取ったのか?」
「……うん」
美優は真剣な表情で言った。
「私の中の“マグス”の資質が、あの男を危険だと告げてる。……多分、彼は、自分の“正義”のためなら、人でも殺せる」
「まさか。あれでも悪魔祓い師っていうからには、神職だぞ」
「いいえ」
美優は断言する。
「私には分かる。敵に回さないに越したことない。今のところは平和同盟を結んどいた方がいいでしょうね。ことは起こさないことよ。あれ《・・》がいつ敵になっても……」
美優の言葉が風に溶ける。
翔太は無言で頷いた。
胸の奥で、なにか小さく泡立つような不安。
その不安が、どこから来るのかはまだ分からない。
ただ、校舎の影がわずかに長く伸びていた。
──美優には昔から、不思議な“力”がある。
「あの人は危ない」
そう彼女が言う人間は、ことごとく、何らかのクセがあった。
その美優が、神表を「危険」と言う。
しかも“断言”した。
翔太は、神表が去って行った方を見る。あの男をどう扱えばいいのか。
自分が魔物と同居していることが知られたら、あの男は俺も殺しに来るのだろうか……。
◆ ◆ ◆
その瞬間、太陽が雲に隠れた。
校舎の屋上に、ほんの少しだけ“影の時間”が落ちる。
それは、老人の姿をしていた。
全身を覆うフードを被り、手には巨大な鎌。そして顔から下には。
“肉”がない──。
完全に骨が露出しており、顔だけに肉、首から下は白骨──いわば、歩く“死”のような様相を呈していた。
血色の良い顔だけがニヤリと笑う。瞳はほぼ白に近い。
歯はところどころ抜け落ちている。
「バフォメットさまがおっしゃった通りだ」
その老人は言った。
「自らの母の小指を呑んだあの愚かな“呪いの卵”だけじゃない。ここにはワシらの餌が多い……。楽しみじゃ……」
ゲッゲッゲッと笑う。
その老人の元へ、雀が飛んで近づいてきた。
次の瞬間。
雀はポトリと落ちた。
魂を抜かれて──
魂を“喰われて”。
雀の目が白く濁り、胸は動かない。
老人は舌なめずりをする。
近づくだけで魂を抜く、その者……。
風も立てずに消え、校内チャイムの余韻が低く歪んだ。




