第29話 母のピンキーリング
第29話
──あれから、いくつの夜を越えただろう。
冷蔵庫のデジタル時計は、いつも『3:00』で止まっている。
秒針だけが、ゆっくりと呼吸するように明滅を繰り返していた。
栗落花淳は、鉄と腐葉土が混ざったような匂いに包まれたキッチンで、テーブルに額を押しつけるように座っていた。
いや。
正確には二人──
淳をカツアゲしていた主犯格の浦辺がテーブルの向かい側にいる。
浦辺の体は、椅子ごと蔦に呑み込まれていた。
緑というより、黒ずんだ赤──乾いた血を吸って色が変わった“根”のようだ。
浦辺の顔は、もはや血と蔦とを見分けられぬほど赤黒く沈んでいた。
左腕の肘から先を失い、その部分からはもう血は流れ落ちていない。
浦辺を締め上げる蔦のうち数本が、左腕を固く巻き、血を止めているからだ。
さらには、その蔦は、浦辺の口の中へも潜り込み、流し込んでいる。
それは、人が生きていくにはギリギリの栄養だった。
つまり浦辺は、淳が呼び出した悪魔に与えられた使い魔の力により、無理やり、“生かされて”いた。
その使い魔の名は、『バロメッツ』。魔界の植物と呼ばれる存在だ。
俗に『スキタイの羊(agnus scythicus)』とも称されるが、実際の“羊”を生むわけではない。
代わりに、木や根に宿る“子羊の実”を結び──それが熟せば、まるで子羊のような姿を模した肉の房が出現する。
今、この家に伸びているのは、浦辺の胸に埋められた“小さな種”から芽吹いた蔦である。
まだ実を青く膨らませる手前だが、すでに人の血と肉の匂いで色を変え、キリスト教の数珠のように絡みつき、浦辺を縛り、口の奥へと這い入っている。
最終的には、餌にした人間を乗っ取り、異形の姿の魔物と化す。
『濃霧現象』直後の「女子高生失踪事件」。帰宅中に突如、首をはねられ、体・血・頭も肉体も丸ごと、一気に民家へ引きずり込んだあの光景は、このバロメッツの仕業だった。
つまり、その「民家」とは、栗落花淳の自宅だった。
「なあ、浦辺。僕は、失恋したんじゃないよね」
淳がバロメッツに縛り付けられている浦辺に話しかけた。
「あの二人は、ただの幼馴染だよ。別につき合ってるってわけじゃない。そうだよね?」
だが、浦辺の口から漏れる言葉は、……助けを乞う声だけだった。
「……スケテ……助ケテ……」
「違うよね。僕が聞いてるのは、そんなことじゃないよね!」
「……許シテ……、モウ、許シテ……クダサイ……」
「だから、違う!!!!!」
淳は怒りで立ち上がった。
そして、足の裏が血で汚れるのも気にせず、浦辺のもとへ行く。血はほぼ固まっており、淳の足の裏で不快にねばついた。
「……モウ、シマセン……、モウ……オレハ……、コレ以上、ヒドイ事、シナイデクダサイ……」
「うるさいっ!」
淳は浦辺を殴りつけた。非力ながら、浦辺の顔が大きく揺らいだ。
「答えろよ! 答えてくれよ! お前、僕のお金ずっと使ってきただろ! 少しは恩返ししろよ! 役に立てよ!」
何度も殴りつける。
「ヤメテ……、ヤメテ……、モウ、殺シテ……」
◆ ◆ ◆
テレビは砂嵐を流し続けていた。
画面の奥で光が断続的に瞬く。モールスのような光、そしてノイズの裏に“何かの声”が重なっていた。
まるで悪魔が世界の周波数を乗っ取ったように。
淳は、あの日から学校へ行っていない。翔太と美優が幼馴染だということにショックを受けたこともあるが、そんな自分に嫌気がさしたからだ。
せっかく助けてくれた優しい同級生。
なのに。
どうして、僕は……翔太くんを憎んでしまうんだ。
あんなに優しいのに。
僕の中の“黒い何か”が、勝手に噛みつくんだ。
良心の葛藤だった。
美優への憧れ。
翔太への憧れ。
そして憎しみ。
正義への絶望。
力への訴求心。
感謝しなければならなかったはずなのに。
だが僕はこうして憎悪の境をさまよっている。
その罪悪感。
さらには疑念。
──いや、つき合ってはいないはず。ただ、仲がいいだけなんだ。
だが、妄想が重なればなるほど、頭がおかしくなってしまう。
クラスの奴らにもムカついた。僕が殺してやったのは、僕をイジメてたヤツと、それを見て見ぬ振りをして、もしくはあざ笑ってたヤツらだ。そいつらが死んだぐらいで、みんな暗い顔しやがって。
晴れ晴れしないのか?
そんなヤツら、死んだほうがマシだったと思えないのか!?
僕が殺してやったんだ! みんな感謝しろよ!
ザーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
そしてこの砂嵐は、淳にとって。
“通信機”でもあった。
ポタッ、ポタッ。
シンクで水道の蛇口から水滴が垂れ落ちている。
砂嵐のノイズ、そして砂嵐の中に不規則に現れる光、そしてこの水滴。
これらが合わさり、それは一つの言葉となって、淳の耳には届いてくる。
ザーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
音が急に遠のく。空気の密度が一瞬だけ変わった。そして。
『ドウシタ……我ガ子ヨ……怖イノカ……?』ポタ……ポタ……。
蛇口から落ちる水滴と砂嵐がそう、囁きかけた。
淳は反抗する。
「怖くなんかない!」
『自分ノ不安ニ、押シ潰サレソウニナッテイルノカ……』ポタ……ポタ……。
「そんなことない! ただ僕は……、僕は……」
淳は声を振り絞る。
「もっと強くなりたいんだ! 弱いから僕はいつも酷い目に遭うんだ! 強くなれば、僕だって……」
『僕ダッテ……?』ポタ……ポタ……。
「海野さんだって!」
『海野……?』ポタ……ポタ……。
砂嵐の底から、ラテン語が逆再生で漏れた。
〈mea culpa... peccavi... miserere...〉──“罪”の祈りが歪んで笑い声に変わる。
電流が床を這い、家の影がひとつずつ伸びた。
途端に部屋中に、不気味な笑い声が響き渡る。
ワハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!
合唱のように多声で、音程だけが半音ずつずれていく笑い。だが次の瞬間、ぷつりと途切れる。
再び砂嵐が部屋に充満する。
ザーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
「な、なんだよ!」
淳は強がる。
だが脚は震えている。
「なんだよ!!!!」
もう一回怒鳴った。
同時に、浦辺を殴りつけた。
無性に腹が立っていた。
僕は。
怖がってなんか。
いない!
諦めてもいない!
混乱する。
自分が自分でなくなる。
感情が。
感情が。
抑えきれないでいる。
「僕だって、強いんだよ! 本気を出せば! 僕だって、もっともっと体を鍛えれば!」
ザ────の音が、一瞬だけ止んだ。
再び水滴が喋り始める。
『女カ……』ポタ……ポタ……。
「え……?」
『ソウカ……。女ガ欲シクテ、盛ッテイルノカ……』ポタ……ポタ……。
「うるさいっ!」
水滴に向かってドスドスと歩いていく。
「悪魔なんかに、僕の何が分かるもんか!!!!!!」
『分カルサ……』ポタ……ポタ……。
水滴はあざ笑うように言った。
『言エ、我ガ子ヨ。オ前ノ“告白”を。懺悔を。我ハ、“赦し”ヲ与エル。“力”ガ欲シイノダロウ?』
ポタ……ポタ……。
「……え」
心を見事に見透かされて、淳は動揺した。
『ソシテ女……、女ガ欲シインダロウ……?』ポタ……ポタ……。
「そ、それは……」
『ヤレナイ事モナイ……』ポタ……ポタ……。
そして再び、水滴は笑う。
幾つもの笑いが重なる。子どもと老人の声が半音ずつずれて、合唱みたいに広がっていく。
「ちくしょう!」
淳は、そこにあったグラスを手に取った。それを床に投げる。
グラスは粉々に砕けた。
淳は肩で息をし、割れた音に反射的に口をついて出た。
「……ごめん」
──ここに、もう母はいないのに。
『イイダロウ。与エテヤロウ』ポタ……ポタ……。
「なにが……!?」
『ダガ、ソノ為ニハ、マダ魂ガ足ラヌ……』ポタ……ポタ……。
淳は頭に血が上った。
「まだ、だって?」
ワナワナと手が震える。
「だって、もういくつも魂をくれてやっただろう? お前が家の前で襲った、あの女子のセンパイだって。クラスのみんなだって……」
「女子高生失踪事件」、フェリー乗り場における「高校生集団飛び降り事件」のことだ。
「そうだ! 浦辺の魂をやるよ! もうこの玩具にも飽きたところだし。……本当は、もっといたぶって、死ぬより辛い目に合わせたかったけど……」
『ソンナヤツノ魂ナゾ、イラヌ』ポタ……ポタ……。
「それに……」
淳は呟くように言う。
「僕の大事な……あの人も……」
再び、水滴は笑う。
おかしくて仕方がないといった様子だった。
『イイダロウ。コレ以上ハ、今ノオ前ニハ荷ガ重ソウダ……。オ前ガモット魂ヲ集メラレルヨウニ、オ望ミ通リ、マズハ“力”ヲクレテヤル……!』ポタ……ポタ……。
「力を……くれる……?」
『ソウダ……』ポタ……ポタ……。
『簡単ダ……』と水滴は続けた。『コレヲ喰ラエバイイ……』
ふと、視線が勝手にキッチンへ引かれた。力が働いたのは明白だった。
冷蔵庫の扉には『牛乳・たまご・淳の好きなやつ♡』と母の走り書きのメモ。
「今夜遅くなる、ごめんね」のメモ書きも、冷蔵庫の白に反射して小さく光る。
丸い字。いまだ剥がせず、残っている。
その文字に、何か温かいものを感じた。
だがその時。
──蛇口の口から、白い何かが「にゅる」と顔を出した。
最初は粘液に濡れた根かと思った。だが、
「…………!」
思わず視線が吸い寄せられる。
それは、細長く。
白く、青ざめて。
そして。
先端に──
空気がひときわ重くなった。
──細く尖った“人の爪”が生えていた。
「うわあああああああああああああああああああああああああ!!」
声は壁に当たって、すぐに折れた。
返ってくるはずの反響が、どこにもない。
音が吸い込まれていく──台所の暗がりの奥、黒い水面のような空気へ。
その底から、低く笑う声が這い出てくる。
『イマサラ……何ヲ、恐レル必要ガアル。オ前ガ……コロシタンダロウ』ポタ……ポタ……。
空気がひび割れ、冷蔵庫のランプが一度だけ明滅した。
匂い──ミルク石鹸。母の手のぬくもりが、なぜか鼻の奥に戻ってくる。
そう。
それは人間の指だった。
その指の根本あたりには、見覚えのあるピンキーリング──。
母が食器を洗うたび、からん、と鈴のように鳴っていた。
その音が、子どもの頃の淳は好きだった。
泡の向こうで、その小さな輪だけが、光を放っているのが。
◆ ◆ ◆
淳が幼い頃。
淳は母から聞いたことがある。
「この指環はね、淳のお父さんになるはずだった人が私にたった1つだけ、くれたプレゼントなのよ」
幼い淳は、それが何を意味するのか、よく分かっていない。
「だから、私の宝物。そして、淳も宝物。こうやってね、この指環をずっとつけてると、お父さんが今にも現れて、『やっぱり、俺も育てる!』そう言ってくれる気がするの……」
少し寂しげな母の表情。
その輝きだけは、記憶にしっかりと焼き付いている。
◆ ◆ ◆
あの音が恋しかった。
眠る前に聞こえる気がして、何度も目を開けてしまった夜もあった。
だけど今は──
「だ、だって、これは……」
淳は腰を抜かして後ずさる。
「これは、僕の、僕の……!」
『自分デコロシタノニ、何ヲ恐レルコトガアル』
ドクン! と大きく心臓が跳ね上がった。
水滴は、どんどん淳を煽ってくる。
そう、それは淳の弱み。
この“悪魔”は全て知り尽くしている。
『オ前ハ、コレヲ喰ウンダ』ポタ……ポタ……。
水滴がうれしそうにわななく。
『母ノ指ヲ喰ウ! ソノ罪ガ、オ前ヲ強クスル! ソノ鍵ニナル!』ポタ……ポタ……。
その声は、なぜか母の声に似ていた。
「いい子ね、淳」──そう囁く調子で。
悪魔と母の境が、ゆっくりと混ざっていく。
「でも……」
『喰エ! 喰ウノダ! 欲シクナイノカ? “力”ガ……、女ガ……!?』ポタ……ポタ……。
『サラナル罪ヲ犯セ』ポタ……ポタ……。
『ソレガ我ノ至高ノ喜ビデアリ、オ前ヲ強クスル』ポタ……ポタ……。
『サア!!!!!! 喰エ!!!!!!!!!!!!!!!!!!』ポタ……ポタ……。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああ!」
淳は叫んだ。喉が裂けるかと思うほどに──強く、激しく。
『認メヨ! オ前ノ、“罪”ヲ!!』
淳は意を決した。
いじめられていた屈辱、辛さ、殴られる痛み、周囲からの冷たい目、深く傷つけられた心、正義の裏切り。神への欺瞞。そして。美優への恋心──。
震える指で、母の指を拾い上げた。
冷たく、やわらかい。
それでも、ミルク石鹸の香りがした。
そして口の中へ入れる。
涙目になりながらも。
唇に触れた瞬間、心臓が止まるような錯覚。
そのまま、噛んでしまえばすべて終わると思った。
だけど──噛めなかった。
涙と唾液が混ざり、ピンキーリングが歯に当たる小さな音がした。
もう。
止められない。
止まらない。
まるで何かに操られているかのように。
一気に──ごくり。
「ううう……ううう……うう……」
喉越しで感じる関節、それがぬらぬらと滑り落ちていく何とも言えない気味悪さが淳の背筋を寒くした。
実際、台所の温度が一度だけ下がった。
デジタル時計の「3:00」が、ひと呼吸遅れて「3:01」に変わる。
家の音が止まる。
世界そのものが、息を呑んだ。
砂嵐と水滴が混じり合う彼方で、
誰かが「アーメン」に似た別の語を、呟くように歌った。
──それは祈りではなく、契約だった。
すべての罪が。
世の中の悪が。
名もない怨嗟が。
憎悪、自惚れ、傲慢、嫉妬、色欲、憤怒。
人が積み重ねた黒い泥が、ひとつの“器”を見つけた。
違う。
湧いたのではない。
入ってくる。
胸の奥で、何十もの足音が駆け出す。
鼓動が重なり、心臓が“別の生き物”に変わっていく。
「やめろ……!」
声は少年のものだった。
だが次の瞬間、その声を誰かが喰い潰した。
犯される。
僕は……
犯された──
静寂の中、淳の瞳がゆっくりと“金”に染まる。
光のはずの色が、闇よりも冷たい。
体中が軋み、筋肉が膨れ、骨が伸びるたびに、
どこか遠くで母の声が泣いていた。
「……ごめんね、淳」
そして、家の電灯が一斉に弾けた。
「あああああああああああああああああああああ──ッ!」
光が消えたあと、
残ったのは、金色の瞳が映す血のような静けさだけ。
その静寂に、小さな裂け目が生まれた。
そこから、こう声が聞こえた。
「──それでも、愛してるよ、淳」
まるで誰かが夢の底から呼ぶように。
そして、その声も、ゆっくりと闇に溶けていった。
……もう、どこにも届かない祈りのように──




