第27話 格闘術・シラット
第27話
翔太は不良たちの前に、静かに立った。
見ていられなかった──それだけの理由で、体が動いた。
その背後には栗落花淳。
胸の奥で、幼いころの靴音が一瞬よみがえる。
逃げる足、地面の冷たさ。誰も助けてくれなかった校庭。
立ったはいいが、脳裏がざわめいた。やかましいほどに。
翔太はそのざわつきを、数を数えるようにして一つずつ沈めていった。
(大丈夫だ、イケる……はず)
だがまず、翔太が足を向けたのは淳へ、だった。
「立てるか?」
そう手を差し伸べる。
淳はその手を取り、翔太の肩を貸してもらいながら立ち上がった。
「う、うん」
翔太が拳を入れた不良はピクリとも動かない。
その時、翔太のスマホが震えた。
非通知──。
おそらくデルピュネーだろう。
翔太は通話ボタンをタップする。
「もしもし」
『デルでございます』
(やっぱりな)
思ったとおりだ。
『翔太様、問題ございませんか? 場合によっては助太刀いたしますが?』
どうやらまた肉体をアストラル化して近くで見守っているらしい。仕事熱心なことだ。翔太は手短に答えた。
「大丈夫だよ、デル。これはデルの出番じゃない」
一拍おいて、低く続ける。
「……俺の“領分”だから」
『ですが……』
言葉を切るように通話を閉じ、ポケットへ戻す。喉の奥で固く結んだ言葉を、自分に向けて繰り返す。
(これは、俺の──)
「これは、俺の問題だッ!!」
そんな翔太へ威圧的な言葉が放たれた。
「思い出したぜぇ。お前、北藤だろぉ」
その口調を聞いた瞬間、胃の奥が冷たくなった。
忘れたはずの名前が、刃のように戻ってくる。
「身長があまりにも違うから最初、分からなかったよぉ。俺がわかるかぁ?」
翔太は改めてその顔を見る。
声変わりはしているが間違いない。
──覚えている。
小学生時代。
翔太をイジメていた先輩の一人だ。名前は確か。
──金子。
「金子だよ、金子宏樹」
「金子センパイですよね。お久しぶりです」
「やあ、こんにちは、イジメられっこの北藤くん」
金子はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「お前、中学に上がる前に転校しなかったっけ? 戻ってきてたのか」
「……」
翔太は沈黙で答えた。
金子は拳をボキボキと鳴らしながら近づいてくる。
「不意打ちにしてはよくやったというべきだろうが、そんなんハッタリにもならねえぞ」
「……」
「お前、弱かったよなぁ。なんだっけ? なんとかっつー格闘技やってたわりには、一打一打がハエが止まったぐらいにショボくてよ」
金子は小学生時代から柔道を習っていた。
当時から体は大きい方だったが、高校三年生になった今はさらに大きく、ゴツく、身長は190センチほどあるように見える。
体型はまるで鉄の弁当箱のようだった。
四角く、分厚く、まるで人間というより装甲の塊。
あの装甲の中には筋肉がぎちぎちに詰まっているのだろう。
「まあ、あの頃から逃げ足だけは早かったからな。すばしこくて。だが捕まえてしまえばどうってことない」
金子は柔道の構えを取る。
「イジメられっ子は、イジメられっ子と仲良くぅ……」
金子の脚に力が入ったのが分かった。
「ふたりまとめて、お仕置きだあぁぁぁああああっ!!」
その巨躯に似合わず、金子の動きは恐ろしく早かった。
柔道選手特有の、一瞬の突進力だ。
靴底が屋上の床を鳴らす。風が、さっきと逆に流れた。
翔太の瞳が静かに、氷の冷たさを帯びていく。
そして。
翔太の動きはさらに早かった。
逃げる足はもう使わない。
金子が奥襟を取りに伸ばした右腕を、翔太は左手で“はじく”ようにいなした。
わずかに軌道をずらし、半歩、右肩線を空けて懐へ滑り込む。
金子の懐に敢えて巻き込まれるように見えた。
その瞬間——回りながら右肘を、顎へ!
淳には、旋風が巻き起こったかに見えた。
ただ、風だけが翔太の周囲を回った。
そう感じるほど、翔太の動きが人の動きを越えて見えたのだ。
金子の左手が、勢いの惰性で、翔太の右腕があったであろう場所で、開いたり閉じたりした。奥襟を取った後、翔太の制服の袖口を掴み、投げようとしていたのだろう。
だが翔太は、それを躱しての内側からのカウンター。
まるで居合抜きのごとく目にも留まらぬスピード。
(な……、なんだ?)
金子は一瞬、何が起こったか分からない。
脳震盪だ。
顎の先が鋭く撃ち抜かれ、頭蓋が揺らされる。
脳を内側から何度も壁にぶつけて、意識が断たれる──
それが、翔太の修めたシラットの静殺法。
金子の体はそのまま、前のめりに崩れ落ちた。
──油断だった。
おそらく、翔太をなめてなかったら、少なくとも奥襟ぐらいは取れたであろう。柔道とはそれほど、喧嘩において最強クラスの格闘技だ。
だがこれを、翔太の格闘術=シラットが上回った。
金子の油断、翔太の素早さ、技のキレ、すべてが合わさっての綺麗な一本勝ち。
金子の体が床に沈んでいくのを、誰も直視できなかった。
しかし、静寂が続いたのはほんの数秒。
別の不良が翔太の胸ぐらを乱暴に掴んだのだ。
「つ~かま~えた~♪」
その相手も身長は180センチほど。
体格にこれだけ差があれば、余裕でいなせると思ったようだ。
「調子に乗ってんじゃねーよ、この野郎!」
グッと全力で翔太の体を引き寄せる。
それが仇となった。
翔太は胸ぐらの手を切って引き離そうとも、後退しようとしなかった。
逆に、引きの力をそのまま借りて、すっと懐へ入る。
「ちょ……え?」
力いっぱい引き寄せたつもりだったので、逆に翔太が懐に入り込まれ、一気に力が抜けた。
胸ぐらはわざと掴ませた。
そして引かれる流れに任せて相手に近接し、同時に両手を素早く相手の後頭部へ。
そのまま左右つないで、十指を絡めた。
ガッシと両指を固定。息を一つ吐き、そのまま。
グルン!
体を軸ごとひねる!
重い空気が回った。
相手の後頭部を手のひらと腕、肘で固めて。
そこからの、自分軸への誘導回転。
遠心+体重で相手の体も、翔太と同じ方向へとねじられる。
見た目には、翔太の体と相手の体が一つの軸となって、回転したように見えた。
遠心と体重を重ね、相手の体ごと地面へ。
そしてコンクリート直撃寸前に、致命傷は避けるよう顔の角度を少し外し、後頭部固定に全体重を乗せる。
そのまま相手を、顔面ごと。
ゴンッ。
──叩きつけた。
ひどく鈍い音がした。
その一撃には、怒りではなく“正確さ”しかなかった。
コンクリートの床に押し付けられた不良の顔。ピクリとも動けない。
そこから血が広がる。鼻血でも出たのだろう。
さすがの不良たちも、そして淳も。
この間、まったく身動き一つできなかった。
それほど早かったのだ。
それほど凄まじかったのだ。
静寂の中、翔太は指をほどいて、ゆっくりと立ち上がった。
呼吸は乱れていない。眼だけが、真っ直ぐ前を見る。
翔太に、逃げる足は、もうどこにもなかった。
「……行こう、栗落花」
指全体をゆっくり開き、息を整える。
昔の震えが、指先でようやく消えた。
パンパンと体についた埃を払う。
そして、屋上のドアへ歩いていく。
「ま、待って。北藤くん!」と、淳は慌てて続いた。
もうすでに、その二人を止める者は、誰もいなかった。
翔太と淳はそのまま屋上を去る。
声もなく立ち尽くす不良たちと、三人の倒れた不良生徒を置いて──。




