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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第一章 サバト編~その愛は、死を招く

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第26話 怖がりな拳 ─接触─

第26話


 翔太の家は教会併設のため周囲より広く、中庭では武具の練習ができ、奥にシラット用の小さな道場もある。広いのに、不思議と浴室の笑い声だけは届いてくる。


『きゃっ! やめて芽瑠ちゃん。そこは触っちゃダメ』

『だって、美優お姉ちゃん、おっきいんだもん』

『やったな~! そんな子には、こうだ!』

『キャハハハ♪ ぬるぬるしてくすぐったいよ~♪』


(聞こえない。聞こえない。聞こえ──る……)


 ダメだ!


 翔太はキッチンで湯を沸かしながら、無理やり別のことを考える。

「水素、ヘリウム、リチウム、ベリリウム……」

 周期表を暗唱。やかんがコトコト鳴くたびに、心拍も一緒に上がっていく。


『じゃあ、シャワー浴びるわよ~♪』

『ぷはっ! 冷たい! まだお水だよぉ』


(ほら聞こえない、聞こえなくなった)


『だからダメ! くすぐったいの! そこは! ちゃんと背中向けて!』

『だってぇ。くっついてたら一緒にお湯あったかあったかだよ~♪』


(聞こえない! 聞こえな……って言いながら、ちゃんと聞こえてるじゃねぇか俺)


 落ち着け。俺の三か条。①見ない ②考えない ③近づかない!


 ダメだ。物理でも自己暗示でも、聞こえるものは結局聞こえる。


 なんとか落ち着こうと、マグカップに湯を注ぐ。

 香り立つミントティーに顔を近づけると、ようやく頭の熱が引いてきた。


 幼なじみといっても、もう高校生だ。境界線は守る。

 ……そのはずが、想像のほうが勝手に越境してくる。


(人間って、仕様バグ多すぎだろ……)


 その時、カーテンがふわりと逆風に揺れた。

 春風でもなく、冷たい気配が、ほんの一瞬、頬を撫でた。

 だが──窓は開いてない。


(……気のせいか)


 翔太は自分の腕をこすりながら、理性をもう一度整えた。

 マグを両手で包み、深呼吸した。

 羞恥はある。けれど、同時に──美優が今、入浴中だと意識するだけで、頬が緩む自分もいる。


(よし。“笑ってる”のはいい。ここでニヤけるのはダメ。表情、ニュートラル!)


 幼なじみなので小さい頃に一緒にお風呂に入ったことはある。だが、その時見た“体”が、高校生になった今、どうなっているのか。


 いやいやいや。


 想像しようとしてかぶりを振った。俺は……何を考えてるんだ。


 だがこのあと、美優が入った湯船に、翔太も浸かることになる。その時、果たして自分は、動揺せずにいられるのだろうか……?


 こんな毎日がしばらく続く。


(いや、ダメだ)


 必死に思考を打ち消す。


(そんなこと考えちゃ、美優に失礼だ)


 あまりに自分が気持ち悪い発想をしている。それが嫌だった。


 気をしっかり持たなければ。


 自身を制さなければ。


 幸い、美優にあてがった客間は、翔太の寝室から遠い場所にある。それに芽瑠もいる。デルピュネーやシャパリュも。二人っきりというわけではない。


(そうだ。学校で普通に話すように、家でもいつも通り過ごしているように、俺は振る舞うだけだ)


 テレビは今も、集団高校生飛び降り事件について報道している。


 それを見ると、浮かれている場合じゃないことが思い出される。


(女の子にかまけている時間なんてないんだ)


 しかし。


 翔太は、同級生たちがあれだけ酷い死に方をしたにも関わらず、なぜか自分がそれほどショックを受けていないことが、逆に気になっていた。


 そういうものなのだろうか。


 何かショッキングな事件があっても、それとそこまで関係のない自分は、そして人は、日常は日常として、いつも通りの生活を続けてしまうのだろうか。


(それって冷たくないか?)


 自分がまるで、人間味というものを失っているように思えてしまう。


 自身の魂の形=反キリストが巣食う自分の心の違和感。


 罪悪感。


 報道は続いている。昨夜の惨事を淡々と流し続けている。字幕だけが静かに部屋を横切った。


(同じ街の、俺の学校の生徒、隣のクラスの出来事だ。けど、俺は今、ミントティーの湯気に逃げてる)


 胸の奥で、魔王ベレスに見せられた自身の真の“魂の形”がうずく。


(もし俺の心が、あの形の方へ傾きはじめていたら? ショックを“感じにくい”のも、そのせいなんじゃないか?)


 否定したくて、カップを握り直す。


(違う。人間は、ときどき守るために鈍くなる。美優の笑顔で救われることだってある。揺れるのは、まだ人間だからだ)


 小さく、確認するように口に出す。


「……俺は、人間だ」


 浴室から、美優と芽瑠の無邪気な笑いが重なる。


(守りたいって思える限り、俺はまだ人間だ)


 ミントティーの湯気が消えるころ、テレビの音だけが部屋に残った。


 画面の隅では、“飛び降り事件の続報”というテロップが、何度も何度も流れていた。


 ◆   ◆   ◆


 翌日。


 完全に寝不足だった。


 美優とひとつ屋根の下。


 やはり、気になって仕方なかったのだ。


「はあ」


 大きなため息をつく。


 結局、俺は、その程度の男なのか……。


 世の中が黄色く見える。陽の光がやけにまぶしく思える。


 この日は休校にはならなかった。


 進学校であることもあり、また生徒たちの親の要望もあり、学園としても授業をするしかなかったようだ。


 そして、その昼休み。


 いつものように翔太は校舎の屋上に寝そべり、空を眺めていた。


 今日も空が青い。まるで、一昨晩の悲劇など、なかったかのように澄み渡り、その美しさを誇示してくるようだ。


 だが今日だけは、その青が、やけに“偽物”のように見えた。


 ◆   ◆   ◆


 今朝、翔太と美優は時間差で家を出た。


 幸い、ご近所同士だ。よほどタイミングが悪くなければ学校の生徒たちに悟られることはない。


「お兄ちゃん、行ってきま~す!」


 芽瑠もデルピュネーに連れられ、元気よく家を出て行った。


 美優も落ち着いたものだ。


 玄関に“来客用”と書いた新しいスリッパをそっと出しておいた自分に、思わず苦笑いする。


(たぶん、気づかれないのがいちばんいい)


「じゃ、私、先に出るわね」


 扉が閉まる音に合わせて小さく会釈して、その数分後に翔太も出た。


(ちょっとは気にしてくれてもいいようなもんだが)


 翔太はちょっとねる。もちろん、翔太に美優の乙女心は分かっていない。だからこそ、ひとりだけドギマギしている自分がバカみたいだった。情けない、自分に腹が立つ。自分のことが嫌いになる。


 授業を受けていても気はそぞろだった。


 どうしても昨晩のことを思い出してしまう。


 そして今晩もきっと……。


 脳裏に蘇る、お風呂ではしゃぐ美優の声の記憶。


(こんなんじゃダメだ!)


 あと何日、同じ屋根の下で美優と暮らすかは分からないが、このままでは心が持たない。なるべく普通に過ごそう。俺も、気にせずに単なる日常だと思って接しよう。


 昨晩から数えて、もう十回目の決意だ。


 繰り返し、繰り返し、翔太は自分を取り戻そうと努めていた。


 紳士であるべきだ。


 変な期待など持つべきではないのだ。


 なんだかんだ言って、結局モヤモヤしていた。


 雲の端がわずかに暗くなり、風向きが変わる。


(山の方から……? 風が、いつもの逆だ)


 そう思った瞬間──


 バタンッ!


 突如、乱暴に屋上の扉が開けられた。


 ぞろぞろと屋上に入って来たのは、学園でもよく見かける不良たちだ。


(なんだよ、せっかくの憩いの時間を)


 と、翔太は頭を起こしかけた。


 しかし──その様子に、翔太は息を呑んだ。


 不良たちは、ある生徒の胸倉を掴み、乱暴に引っ張って屋上に連れ込んでいた。


(あれは……)


 知っている。


 隣のクラスの生徒だ。


 見覚えがある。


(確か……)


 あの、集団高校生飛び降り事件。


 その生き残りの一人。


 名前は……。


栗落花つゆり! ノロノロしてんな! 早く来いよ」


 ぐいっと胸ぐらを引っ張られた少年がよろめいている。


 そうだ。


 栗落花淳つゆりじゅん


 確か、一度だけ話したことがある。翔太が落とした財布、それを拾って、声をかけてくれた生徒だ。


 淳の制服のボタンはすでに弾け飛んでいる。不良たちは栗落花を屋上の床に投げるように突き落とすと、その周囲を囲んだ。


 ◆   ◆   ◆


栗落花つゆり、お前、よく学校来られたな」


 不良の一人が言う。


「自分のクラスの半分以上が死んだのに、心は痛まねえのかよ!!!」


 別の一人が淳の髪の毛を鷲掴みにしてブンブンと振る。

 

智美さとみだってよ、死んじゃったんだぜ! あの智美がよ!」

「あいつは自殺するようなタマじゃないんだよ。分かるか、あぁ?」

「お前、なんか言ったんじゃねえか? 智美や、あの連中によ」

「このクズ野郎が!」


 ぺっ、と頬にツバを吐きかけられる。


 淳は座り込んだまま、キッとその不良たちを睨んだ。


「あ、なんだよ、その目は? 文句あんのか?」


 そう言われ、淳のその勇気はすぐに消し飛んでしまった。


「少しは喪に服すって態度、見せろや、コラァ!!」


 そう言って不良は淳の顔を蹴り上げる。


 ガッ!!


 淳は派手に後ろへと吹き飛ぶ。舌を噛んだのか、口の中で血の味がする。


(痛い……っ!)


 殴られ、蹴られ。その痛みは、どれだけ毎日やられても、慣れることはない。淳はゆっくりと体を起こし、口元の血を手で拭った。そしてこう呟いた。


「お前らも、そうなるんだぞ……」


 一瞬、沈黙が流れる。そして……。


「ああ? なんだって?」

「もう一回、言ってみろよ」

「よく聞こえねえよ。青少年の主張をしたいんなら、ハッキリ述べろよ、このゴミムシが!」

「はい、もう一回、言ってみようか。なんだって? 俺たちがなんだって?」

「……僕はもう、……昔の僕じゃ……ないんだ」


「はあ?」


「何言ってんの、こいつ」

「……僕はもう、……昔の僕じゃ……ない……」

「小声すぎて分かんねえ、昔の僕がどうとか、こうとか」

「もういいや。さっさとぶん殴って、お小遣い、もらおうぜ」

「栗落花~。お前、今日はいくら持ってる?」

「一人頭、一万円。七万あれば、俺たち最高潮ってわけだ」

「あぁ? 聞いてんだよ、栗落花! お前、いくら持って……」


 淳の心臓が、ドッドッドッと弾けるように脈打った。


 怖い!


 こんなやつら……。


 あの力が今使えたら。魂をもっともっと集められたら。すぐにでもぶっ飛ばせるのに。


 後悔させてやれるのに!


 再び胸ぐらを捕まれ、恐怖が絶頂に達した。


 助けて。


 誰か、助けて……。


 もう。


 もう。


 もう、こんなの嫌だ!


 傷つけられるのも。


 傷つけるのも!


 その瞬間、空気がざらついた。

 不良たちの足元の影が、風とは逆に“生き物みたいに”波打った。

 コンクリートに落ちたその黒は、誰の影でもなく――まるで“別の何か”が、影に潜り込んだように見えた。


 風景が少しだけ傾いた。

 電線が斜めに見える。

 空の青が、灰に変わるほどのわずかな違和感。


 理由もなく胸を押さえ、額に汗を浮かべる。

 その足元の影が、一瞬だけ“誰かの手”の形に見えた。


 それは“惑い”だった。

 淳の心が悲鳴を上げるたび、まわりの世界がほんの少し軋む。

 けれど、まだ魂が満ちていない。

 呼べば来る影も、今は――少なくとも今はまだ。

 人前では、動かしたくない!


 だが。


 もう。


 もう……!


 もう……!!


(僕はもう、こんなのは嫌なんだッ! もう、後なんか知るもんか!!!)


 淳の瞳に金の線が閃く。

 焦点の定まらない光。それは怒りでも恐怖でもない、“人の世界に属さない色”──


 だが直後。


 ──『ドンッ!!!』


 空気を切り裂くような鈍音。淳の目の前で、拳と肉がぶつかった。

 一瞬、止めようとして伸ばした手が、結果的に“殴る形”になった――そんな、偶然にも見える動きだった。


(……え?)


 淳の胸ぐらを掴んでいた不良が、訳もわからぬまま後方へ吹き飛ぶ。


 拳を振り抜いたというより、「止まれ」と叫んだ腕が、そのまま軌道を描いたように見えた。


 残った連中が、ざわめきとともに振り返る。

 その中心に、拳を突き出したまま、微動だにしない生徒がいた。

 不良たちは吹き飛ばされた生徒に目をやり、そして次に、その主に目をやった。


 思い切り拳を叩き込んだ者――。

 拳を突き出している生徒。


 ――――彼は不良たちに比べれば、ひと回り小柄だった。


 身長にして170センチと少し。けれど、妙に“重心の低い”立ち方をしていた。

 拳の形が、痛みを知っている人のそれに見える。

 殴り慣れているというより、殴られ慣れている手。


 どこか、“怖がっているくせに引かない人”の匂いがした。

 いじめられっこの淳だからこそ、それが分かった。


「ほ、北藤ほくとう……くん……?」


 淳の口から驚きの声が漏れた。


 北藤翔太ほくとうしょうた


 そう。


 不良に拳を叩きつけたのは、先ほどまでそこで寝そべっていた翔太だった。


 これまで同じクラスになったことはない。

 北藤くんも、僕と同じ側の人間だったはずだ。

 その北藤くんが――!?


「……それ、まだやってるんですか。センパイ」


 声は低く、震えも混じっていた。威勢よりも、“見過ごせなかっただけ”の響き。


 一瞬だけ空気が止まった。翔太は息を吸い込み、どこかで深呼吸の仕方を思い出そうとしていた。


 不良たちは顔を見合わせ、すぐに拳をパキパキと鳴らした。

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