第25話 『マグス』の娘は、湯気のなかで恋を知る
第25話
「こら! 芽瑠ちゃん、そんなに暴れたら目にお湯が入っちゃうでしょ」
「わーい、わーい!」
ぱしゃっ、ぱしゃっ。湯面の花びらみたいにしぶきが散る。
「芽瑠、うれしいの! 美優お姉ちゃんとお風呂~♪ 美優お姉ちゃんとお風呂~♪」
「もう…やめないと──こうだぞ、くすぐりの術っ」
「きゃははは! やめて〜、美優お姉ちゃん、くすぐったい〜!」
と、はしゃいでいた芽瑠の動きが、ふいに止まる。
(あれ……?)
美優も動きを止めると……
「……お湯、目に入った」
その芽瑠の言葉に、美優は思わず吹き出した。
「分かったでしょ、おとなしくお湯に浸かりなさい」
「だってぇ」
と甘えた声を出す芽瑠。
「美優お姉ちゃんとお風呂、初めてだもん」
「ほら、しっかり肩まで浸からないと、風邪ひきます!」
ぶーっと頬を膨らませながらも、芽瑠は素直に肩まで浸かった。
「……はあぁい」
芽瑠の、顎まで浸かった顔だけが桃みたいに浮いて、可愛い。
美優は、鎖骨をつたい落ちる水滴を指で払う。
濡れた髪がうなじに貼りつき、湯気が頬の赤みをちょっとだけ濃くした。
◆ ◆ ◆
──「えっ、それってどういうこと、お父さん」
湯船の中で美優は思い出していた。
『上からの司令だ。どうやら闇の者たちが発する波動が強まった気配があるらしい』
「上って、国際魔術会議?」
『そうだ。その魔術師たちのネットワークからの情報によれば、“マグス”の素質を持つ者、すべてに何かの危険が及ぶ可能性があるらしい』
「マグ……、え。それ何?」
『マグスとは、いわゆる“秘術師”のことだよ、美優』
LINES通話越しに父は答えた。
『聖書に登場する呼称だ。語源はゾロアスター教における“聖職者”だが、つまり神代以前のペルシャ系の祭官をそう呼んだと記されている』
「その“聖書以前の神官”を、聖書では『マグス』って書いてあるのね」
『まあ、そういうことだ。聖書的には、ユダヤ、キリスト教ともに神学的な体系に属させるわけにはいかなかった。だから預言者や、神父、あるいは牧師とは切り分けて書かれてあるのだが。マグスに関しては、特に異端ともカルトともされなかった』
「ユダヤ教以前の存在……」
『ある意味、敬意が込められていたのだろうね。“神秘”の謎を解く“秘術師”としての意味合いが強い。ゆえに、国際魔術会議では、そうした力を持つ可能性がある者を、マグスと呼んでいる』
「それが、私やお父さん。まあ、つまりは、なんらかの“才能持ち”ってことね」
『そうだ。内面的には、美優は私の血を色濃く受け継いでいるからな』
「でも私の見た目はお母さん……。きれいに血が合わさったものね」
と、美優はからかうように言う。
「そうだな。美優はお母さんにそっくりだ」
「ね、お父さん、お母さんからはちゃんと連絡あるの?」
『ないな。おそらく映画の撮影で忙しいのだろう。美優のところへは?』
「たまにあるわよ。でもあっちはアメリカでしょ? なかなか時間が合わなくて」
『そうか。美優には苦労をかけてるな』
父はバツが悪そうに言った。
『アレは女優すぎて、お芝居の為なら、いつでも猪突猛進だったからね。今も映画のことで頭がいっぱいで私のことなんて忘れてしまってるだろう』
「仕方ないわよ。それは、国際的な女優の夫になった人の運命」
『ハッハッハ。そうだな』
その笑い声には苦笑い的なニュアンスが込もっていた。そして、どうやら、この通話も特に愉快な連絡ではないらしい。
「それで? 私はどうすればいいの? その為に連絡してきたんでしょ」
『そうだな。本題はこれからだ』
父の声が真剣になった。
『水城で起こっている『カスケード』だが、実は数百年の過去には、世界中にその現象があった』
「うん。前にお父さんから聞いたことがある」
『『カスケード』は、長い年月を超えて再活性しつつある──これが国際魔術会議の見解だ』
「再活性?」
『そうだ。霊的濃霧の活性期に入った。しかもこの報告は、かなり不穏なものだ。お父さんがチグリス・ユーフラテス川で見つけた……』
「パズズ像」
『そう。あの時に感じた未来予想が、今や、現実のものとなろうとしている』
「つまり?」
『水城での『カスケード』での波動は特に高まっている。国際魔術会議は、公表なしで水城市に対策部隊を出した。先陣はすでに到着していたらしいのだが、今後は、かなり大規模な動きが起こるはずだ』
先陣……。美優の脳裏に木刀を持った神表洋平の姿が思い出される。
(もしかして、あの人かな)
『国際魔術会議のエクソシストだ』『名は、神表洋平!』『かわいこちゃん』
そのふざけた声はしっかりと記憶にある。
父は続けた。
『特に夜間。マグスの素質を持つ者に危険が及ぶ可能性がある。今、父さんはイラクだ。母さんはカリフォルニア。美優を一人で置いておいて申し訳ないと思っている』
「うん」
『そこで、だ』
ここで父は切り出したのだ。
『水城に、理屈で説明しきれない強度の結界が張られた場所がある。何故そこにそれほど強い結界があるのか。それは誰にもわからない。ともかく、そこでしばらく寝泊まりしなさい』
「避難ってこと? つまりそこでしばらく暮らせって……?」
『そうだ。その場所は……』
水城市にある教会。
──そこが、翔太の家だった。
◆ ◆ ◆
父との通話が切れたあとの沈黙が、耳の奥にじんと残っている。
お湯の表面が小さく揺れて、さっきまでの父の声を映したように波打っていた。
その波に、翔太の横顔がふっと浮かんだ気がして、思わず目をそらす。
(……なに考えてるの、私)
ぼちゃん、と湯が揺れて、心臓も同じリズムで跳ねる。
(なんで……よりによって翔太くんの家なの? 偶然で片づけるには、できすぎてる)
思わず湯の中で足先が動いた。
お湯がわずかに波立つ。
その揺れが、自分の心のざわめきを映しているようで恥ずかしくなった。
(つまり……今、私は、翔太くんの家にいるってことなんだよね。しかも、お風呂まで借りて……)
笑顔で湯気に包まれながら、心だけは全力で深呼吸する美優。
(だ、だめ。落ち着け私。普通に。普通に…!)
顔の火照りを隠すように、両手で頬をぱしゃりと叩く。
湯の表面が揺れて、心臓の音まで映ってしまいそうだった。
と、芽瑠がいきなり、浴槽から勢いよく立ち上がった。
飛沫が、美優の紅く染まった頬に当たる。
「ね、ね。美優お姉ちゃん、体洗いっこしよ♪」
無邪気に笑う芽瑠を見て、美優は思わず笑い返し、小さな体をそっと抱き上げた。
(い、いくらなんでも……さすがに意識しちゃうよ~! なんで結界が、翔太くんの家なの!?)
平気な振り。
そう。私は、全然平気!
――たぶん。
こちらを振り返る芽瑠の笑顔が、救いのようにまぶしかった。
(ありがとね、芽瑠ちゃん。あなたがいると、心がずっと軽くなる)
でも本当は、誰よりも胸が高鳴っていることを、美優自身がいちばん知っていた。
知っていて、まだ“名前”をつけないでいるだけ。
(──結界があるから、ここに来た。それだけ。それだけ……!)
任務、避難、理性……と三つ並べて唱える。
そう自分に言い聞かせて、ばれないように、平常心の振りを。
(これぐらい普通にやってないと、平然としてないと、意識してるの気づかれちゃう)
廊下の向こうには、彼の部屋がある。
どんな顔して今、何をしてるんだろう。
(でも、子どもの頃はたま~に、ふつ~に、一緒に入っていたっけ……)
その言葉の後を紡ぐように出てきた妄想に、顔がじゅっと熱を持った。
「ないないない!」と声に出して、慌ててタオルを泡立てる。
笑顔で芽瑠の体を洗ってあげながら、美優は美優で、さまざまな乙女心に悩まされているのであった。




