第24話 夕凪が運んだ血のかほり
第24話
栗落花淳が初めて海野美優を見た通学路。星見山の麓から街へ向かう路地。
【撮影】愛媛県八幡浜市。愛宕山の麓。この先に新町商店街がある。
最初は、一目惚れだった。
星城学園。中等部と高等部が同じ敷地に並ぶ。海抜五〇メートルほどの星見山の中腹に、その校舎は建っている。
日が傾き、街灯がまだ灯らない時間帯。影と紺の制服の群れが、海風に混ざって流れていく。
同じ中等部の生徒──。クラスメイトもいたので、それが女子弓道部の生徒たちだと分かった。
女子たちが名前を呼び合いながらお喋りしている。
その流れの真ん中で、ひとりだけ、髪が光をつかんでいた。
――その女子生徒が「うみ」と呼ばれていた。
それが、海野美優だった。
実は以前より、クラスの女子の間で美優は話題になっていた。
「うみちゃんって可愛いよね」「うみは学年で一、二位を争う美少女だから」
だが、淳はクラスが違うせいもあって、その「うみ」という子にまだ会ったことはない。
だから気にはなっていた。
目の前で初めて見る、噂の美少女。
実際は、噂以上だった。
好みのど真ん中だ。
だがクラスが違うため、美優との接点が淳にはない。
淳と美優が接触するのは、もう少し時間が経ってからだ。
◆ ◆ ◆
ある日、淳は昼休み、体育館脇にある、陸上部の機材が置いてある場所に倒れていた。
棒高跳び用の大きなマット。そこで“プロレスごっこ”と呼ばれてきたあの乱暴。
淳は、マットの上からまったく動けず、涙を流していた。
淳を襲った数多くのプロレス技。
最後のバックドロップで後頭部を強打し、体が痺れた。
そのショックは、背骨の奥で鈍く鳴った。
情けなさ。
悔しさ。
体が震える。
(ちくしょう……、ちくしょう……)
辛かった。格好悪かった。悔しかった。屈辱だった。
動きたくなかった。
これから午後の授業が始まる。
(もう、嫌だ……)
涙は止めようとしてもまったく止まる気配を見せなかった。
そんな淳の頬に触れたものがあった。
「大丈夫?」
女子の声だ。
目を開けると、そこにあったのは。
(“うみ”さん……)
他ならぬ美優の顔だった。
「泣いてるけど。何かあった?」
頬にあたっていたのは美優のハンカチだ。
やわらかく、いい匂いのするハンカチ。
ハンカチの角が頬の涙の道をそっとなぞる。
憧れの女子に、僕は今、涙を拭われている──。
(うわあああああああああああああ!)
世界の音が、一瞬だけ消えた。
うれしさはもちろんあった。
だがそれより、何より、恥ずかしかった。イジメに遭っている、それを見られる、こんな格好悪いことはない!
「大丈夫だよ!」
つい強めに言ってしまった。自分の心を悟られたくなかったから。
だが美優は、まったく怯むことなく、むしろ笑顔でこう言ってくれた。
「早くしないと、午後の授業が始まっちゃうわよ。そのハンカチ、あげるから使ってね」
走り去る美優の後ろ姿。
スカートの裾が、風にふわりと跳ねた。のぞいた両脚の細さと、形の美しさに目を奪われる。淳の心は、痛みも屈辱も忘れてトキめいた──
これが“恋”だ。
そう、淳は“目撃”した。
自分が“恋”に堕ちる瞬間を。
初めての体感。初めての感覚……
◆ ◆ ◆
そして。
高等部に進学したある日、淳は奇妙な本を見つけた。
化学準備室のさらに奥――今は使われていないオカルト研究会の部室。
棚には、埃をかぶった二冊の書。『錬金術入門』と『Goetia解説』。
そもそも化学は、錬金術から発生した学問だと言われている。
錬金術師を英語で「Alchemist」と言う。
そして化学は「Chemistry」。
綴りを見ればその名残に気づく。
それは淳も知っていた。だから錬金術の本があっても驚きはしない。
だが『Goetia』とは何だろう……?
ページを開いてみた。「Goetia」は「ゴエティア」または「ゲーティア」と読むらしい。そしてその内容は。
悪魔を呼び出す方法を書いてある魔導書、その解説本……。
”悪魔”。
その不穏な二文字に、淳の胸がかすかに熱くなった。
いじめられて苦しい時、淳は学校で配られた『聖書』を読んだりもした。
感動して涙も流した。
そして祈った。
神様。どうか、いじめの苦しみから僕を解き放って下さい……!
だが。
いじめは、なくならなかった……。
(神様は、僕を、救ってくれない)
それでも、すがりたかった。
なにかに。
神に。
神様はきっといる!
そう想いながら淳は育った。
同時に。
強い力を持つ者への憧れも増していった。
自分を守るには“強い力”が必要だ。
その“強い力”。
神様。
大天使。
淳はそこからオカルト本も読み始める。
そこで、“悪魔”と呼ばれる存在が元は“堕天使”であったり、別の地域では“神”と崇められていた存在であったことも知った。
そう。
世に伝えられる悪魔は、ユダヤ教以前には他宗教や古代文明で“神”とされた存在でもあった──
“悪”と“魔”――その語感に。淳の胸は高鳴る。
『聖書』に背く“背徳心”。
悪いことをしている──という高揚感。
悪魔に憧れを抱くのは、思春期特有の、一種の病──
そして、呼び出したのだ。本当に。その“悪魔”を。書に従って。
『より多くの息が要る』――
ページの文字が、息を吹きかけるたび黒く濃くなった。
学校からチョークを持ち帰る。
砕き、自室のフローリングに魔法陣を描く。
白い息が足首にまとわりついた。
その瞬間、階下のやかんが、コト……コト……と鳴いた。
そしてその数日後に起こった。
あの『濃霧現象』が。
ある惨劇にて、呼び出された、とある“悪魔”。
その悪魔に淳は忠誠を誓った。
そして得たのだ。
大いなる力を。
その眷属と共に。
自分の魂、そして“ある人”の魂と引き換えに。
『我がその力を完全に発揮するにはより多くの魂が必要だ。その為の使い魔もお前にくれてやろう』
この時には、栗落花淳は、“人間”ではなくなっていた。
悪魔の御子となったのだ。
◆ ◆ ◆
そして現在――。
「ただいま」
と、淳は帰宅した。
返事はない。
「そりゃ、そうだよな……」
と、淳はひとりごちる。
「口も聞けないか」
淳は二階の自分の部屋へ行き、鞄をベッドの上に放り投げた。
そしてもう一度、階段を降りた。
キッチンリビングのドアを開ける。
一気に。
――むせかえる、血の匂い。
【画像元】七三ゆきのアトリエ
https://nanamiyuki.com/
床いっぱいに、赤黒い液体が広がっていた。光を吸い込みながら、まるで夜そのものが溶けているようだった。壁の隅では、滴がゆっくりと線を描きながら垂れていく。
音はない。
ただ、湿った空気の重さだけがあった。
血を踏みつける音が、ぴちゃり、と短く響く。
淳は気にも留めず、キッチン奥の棚からカップラーメンを取り出した。
指先にはまた、赤がこびりついている。
さっき、ドアのノブでついてしまったものだろう。
それでも、彼の動作は異様なほど丁寧だった。
まるで何かの儀式をこなすように。
選んだのは「豚骨」だった。
無意識のうちに、血と同じ香りを思い浮かべていたのかもしれない。白濁のスープ。脂の膜。その下に沈む、何か。
そして赤──
あ。
確か、紅生姜が冷蔵庫の中にあったはず。
ふと見た冷蔵庫の取っ手にも、指の跡が残っていた。
それが赤いのか、茶色なのか、もはや分からない。
ひとまず、やかんを火にかける。
静かな部屋に金属の唸りが広がる。
空気が熱を帯び、血の匂いが一層濃くなった。
窓の外では、風鈴が一度だけ鳴って止まった。まるで音そのものが、息をひそめているかのように。
それから冷蔵庫の中の紅生姜を取り出し、指先でほぐす。
手のひらにまた、赤が滲んだ。
すでにそれが生姜の汁か、それとも──もう確かめようとも思わなかった。
沸騰してやかんが悲鳴を上げた。
淳は慎重に湯を注ぐ。
テーブルへ運ぶ。
湯気が立ち上がるたび、空気がかすかにゆがむ。
その揺らぎの中で、誰かの影が見えた気がして──すぐに消えた。
「あと三分、か……」
砂時計の音が、やけに耳に残った。
ぽたり、ぽたり。外で雨でも降り出したのかと思うほどに。
「ようやく食事だ」
胃が鳴る。昼はパン一枚だった。
空腹は痛みを鈍らせる。
それは、淳が覚えた新しい知恵だった。
生き物を壊すたびに、腹が減る。
そして、食べれば──静まる。
「さて、と……」
淳はテーブルに両肘をついた。
見慣れたダイニング。だが、床に広がる赤だけが現実を否定している。テーブルの脚の影が、血の表面に揺れて歪む。
「……気分はどうだい、浦辺くん」
その声はやさしく、まるで親が子に語りかけるようだった。
けれど、その眼だけは笑っていなかった。
テーブルの向こうに、ひとりの少年が座っていた。
何かの植物の蔓のようなもので縛られ、血にまみれた制服を着て。
照明の明かりが彼の顔を照らす。
生きてはいる。だが、その瞳の奥には、もう何も残っていなかった。
──それが、浦辺だった。
イジメ、カツアゲ、喧嘩。
学園の裏掲示板でもさんざん嫌われていた問題児。
だが先生の前だけではいい顔をする。本物の不良には絡まない。弱い者ばかりを狙う。そしてそんな自分に酔っている。
そして彼こそが、警察が行方不明とした、その張本人だった。
左腕から先だけが見つかった、あの事件。
──その浦辺は今、ここにいた……。
かすかな呼吸音。まだ息はある。
口の中が鉄くさくなった。漂白剤の甘い匂いがそれを上書きした。
そして。
浦辺の左腕は、肘の先から先が、もう存在しなかった。
包帯も、止血もない。肉の断面が乾き、黒く変色している。
それでも。
かすかに呼吸をしているのが奇妙だった。
フローリングには、赤い足跡が規則正しく続く。
まるでそこを歩いた者が、何かに導かれていたかのように。
その向きは、リビングの中央──浦辺の椅子を指していた。
──そう。警察が発見したのは、この浦辺の左腕。
淳は、まんまと浦辺に復讐を果たしていたのだ。
いや正確には、それも道半ば。
まずは生かさず殺さず……
淳の恨みは、浦辺を弄ぶ、快楽へと変貌していた。
砂時計の砂は落ちきっていた。
そこからかすかに、カチ、カチ、と、小さな砂粒がさらに細かく砕け散っていく音が聞こえていた。
栗落花淳イメージ




