第23話 邂逅
第23話
(もう嫌だ……! なんで僕ばっかり、いじめられるんだ!)
(お小遣いだってもう尽きた。お母さんも限界なのに、浦辺のヤツ、どうして──どうして……!)
(万引までして、それを売って……。そんなこと、いつまで続ければいいんだよ!!!)
──そして、あの『高校生集団飛び降り事件』が起こった。
◆ ◆ ◆
栗落花淳がこの世に現れたのは、蛍光灯の青白い光の下。
体重わずか一四〇〇グラム──掌におさまるほどの命だった。
「それ、本当に俺の子か?」男は、レシートを折るみたいな無関係そうな口調でそう言い放った。
まだ大学生だった淳の母は、恋人だと思っていたその男の言葉に途方に暮れた。
「妊娠? 困るんだよね。お腹の赤ちゃんに何があるか分からないから、もうここで働いてもらうわけにも行かないなぁ」
バイト先の店長からも理不尽にクビを告げられた。
「だから今日付けで」
彼女の母、つまり淳の祖母も、シングルマザーだった。必死に彼女を育ててはくれたが、相当に苦労したのだろう。いつもイライラしており、事あるごとに暴力を受けた。
それもあって、とてもじゃないが、母には相談できなかった。
彼女なりに考えた。
何度も、何度も、考え抜いた。
だが、彼女には産婦人科に行く勇気もなかった。彼女には目に見ただけでは分からない軽い発達障害があり、自閉症スペクトラムもあった。
悩んだ挙げ句、彼女が選択したのは。
──自宅での出産だった。
(この子、どうしよう……)
産んだはいいが、淳の母はパニックに陥ってしまった。
選んだのはここから遠いが、地方にある「赤ちゃんポスト」。
そこまで行って、淳を、ポストの中に、預けることだった。
(もし、私が一人で、赤ちゃんを産んだことがバレたら、ママに叱られる……、殴られる……)
追い詰められた末の苦渋の決断だった。
彼女は自身の母が怖かった。
とても許してくれるとは思えなかった。
──未熟児を連れた長い旅。
だが、いざ「赤ちゃんポスト」の扉を開き、そこに自分の子を入れようと思ったら体が動かない。
自然に涙があふれた。自分の意志に反して嗚咽が漏れた。
扉の前で、冬の空気が肺で軋んでいた。
手の中の母子手帳が、汗でふやけていく。
指が、差し入れ口に入らない。肩が震える。
差し入れ口の向こうから、“どうして”と問うような、湿った息づかいが漏れた気がした。
そのまま、どれくらい立っていたのか──
……白い息が、夜の灯りに溶けていく。
「寒かったでしょう」
と白湯の紙コップを差し出す手が現れた。
女性の看護師だった。
淳の母は手厚く施設の中に入れられ、看護師たちに話を聞いてもらった。
うまく言葉にならない彼女の前で、看護師はただ頷き、ハンカチをそっと差し出す。
抱き直した赤子は、軽くて、あたたかい。
その温度が、胸の奥の重石を、ほんの少しずらした。
看護師たちも涙を流しながら話を聞いてくれた。
(私の話を、こんなに真剣に聞いてくれる人がいる……!)
ふっと胸のつかえが取れた。
心が軽くなった。
自分が産んだ赤ん坊が可愛く思えてきた。
この赤ん坊のせいで、ここまで悩んだのに。
ここまで苦しんだのに!
……それでも。
彼女は再び、この赤ん坊を自分で育てる決意をした──
こうして生まれたのが淳だ。
◆ ◆ ◆
名前は、母が決めてくれた。
「父親がいなくたっていい。ありのまま、飾りけがなくても、素直ないい子に育ってほしい」
そんな想いが込められた。
未熟児だった淳は奇跡的に元気に育った。
まるで「赤ちゃんポスト」で第二の“生”を与えられたかのようだった。
つまり、淳は“二度、生まれた”。
生命力の強い子になったのだ。
だが。
そもそも、子育ては楽ではない。
もともと彼女には“特性”があった。
音や予定の変化に弱い。感情のブレーキが、他の人よりききにくい日がある。
それでも、彼女は懸命に働き、そして浅い眠りの日々が続いた。
ある日、彼女は、自分が、自分の母と同じように、淳を虐待しているのではないか、と思った。
だが湧き上がる感情をどうしても抑えることが出来なかった。
そんな母を、淳は許しながら育った。
(お母さんも、大変なんだ……)
淳は逆にそこから、「されたら嫌なこと」「殴られるのは痛いこと」を知った。
だから、人より優しい子に育ったとも言える。
しかし、その“優しさ”は、子ども社会では“仇”となった。
給食の牛乳をこぼした子の机を、淳は黙って拭いた。
笑われても、拭いた。
それらの淳の善意はいつしか「格好つけ」と呼ばれるようになった。
つまり、
小学生になった淳を襲ったのは──“イジメ”だった。
上履きのつま先に画鋲。机の中の体操服は、濡れていた。
放課後の空き教室で、スマホのライトが顔を照らす。「笑えよ」と胸ぐらを掴まれた。
そんなことが来る日も来る日も続いた。
そして、淳が中学生になったある日、“イジメ”に耐えられなくなった淳は、ついに母に八つ当たりしてしまった。
口が先に走った。
「子捨てしようとしたくせに」
その言葉は、乾いた音を立てて畳に落ちた。母は、その落ちた場所を見つめたまま、座り込んだ。
反抗期だったのもあったと思う。
母は呆然とした表情の後、泣き崩れた。
いつまでも泣き続ける母に、淳はイライラした。
だが、後悔もした。
いや、後悔の念の方が強かった。
毛布の端を噛んだ。
時計の秒針だけが、部屋の中で“生きていた”。
(言っちゃいけなかった)
淳は布団の中で、身悶えした。
(でも、でも、僕だって、限界なんだよ!)
もう僕には、どこにも逃げ場がない……。
寝不足のその翌日、落ち込んで学校へ行った淳に、ある出逢いがあった。
これは淳にとって、さまざまな意味で“運命”となる。
生きている意味を失うほどの苦しい日々。
育ててくれた母への初めての反抗。
何度も考えた自殺。
でも。
(負けたくない!)
そう思いながら生きてきた。
その想いが壊れそうになる寸前。
淳の前に、“生きる目的”が降ってきた。
そう。
それは、初恋──
海野美優との邂逅であった。
栗落花淳が初めて海野美優を見た通学路。星見山の麓から街へ向かう路地。
【撮影】愛媛県八幡浜市。愛宕山の麓。この先に新町商店街がある。




