第22話 思春期の二人
第22話
めちゃくちゃいい匂いがする……。
目の前に、あの美優が、私服姿でいる。
天使のような美しさに育った、大切な幼馴染が。
アーミーグリーンのキャップ。白いドロップショルダーのオーバーサイズシャツに文字グラフィックが入ったその裾を、ダボっと、ストレートレッグのウォッシュドジーンズに突っ込んである。
アッシュブルーのそのジーンズもややブカブカだが、ソファーに足を組んで座る美優の太ももや膝が突っ張り、そのラインがわずかに分かる。
カジュアルでややボーイッシュ。
高校生になった美優の私服を見たのはこれが初めてかもしれない。
オーバーサイズのシャツの腕の裾が萌え袖のようになっており、そこから覗く指で、髪の毛を耳へとかきあげる姿がセクシーだ。
「お待たせしました、美優さま、翔太さま」
デルが銀色のトレーで紅茶を運び、テーブルにサーブする。
キャップのつばが影をつくり、睫毛に小さな影が揺れる。
柔軟剤の匂いが、お湯のたったばかりのキッチンの匂いと混ざった。
「ありがとう」
その時、翔太と美優、どちらもが同じカップに手を伸ばし、指先がカップの取っ手で触れ合った。どちらでもない熱さが一拍だけ共有される。
「……あ、ごめん」
「ううん」
それだけの会話。だが翔太にとってはそれが妙に、長い余韻を残した。
翔太は幼年期を懐かしむ。だがその時、思わずシャツを押し上げる形の良さそうな胸のふくらみにも目が行ってしまった。
一昨晩──
共に同じソファーで寝かされていた時。腰に当たっていたのは、その美優の胸元だった。そのやわらかさが脳裏から離れない。赤面しそうになってしまう。
だが、なかなか話を切り出さない美優。
翔太のドギマギは否応なく高まっていく。
昨晩、大勢の同級生が亡くなってしまったばかり。なのに、なんて自分は不謹慎なんだろう。
ふと、ベレスに見せられた自分の魂の形を思い出した。
神を喰らおうとする神以上の存在の悪魔王。
(いや、俺は人間だ!)
自分の動揺が、自分が人間であることの証明になっている。そう思い込もうとする。俺は人間なんだ! 翔太は繰り返し、自身に言い聞かせた。
そもそも翔太は思春期である。これがごく普通の反応であり、多少心が浮ついたり揺らいだりするのは当然だ。
だが。
──高校生集団飛び降り事件……。
人があれだけ死んだのに。俺が女子相手にドキドキしているなんて、それこそ、人間らしくないんじゃないか。
自身の中の“獣”に支配されているのではないか。
不安にもなる。
でも。
(ショックじゃないわけじゃない。ニュースを見てやはり、心は傷んだ……はずだ)
自分を慰める。俺は人間だと、思おうとする。
一昨晩の『濃霧警報』から、翔太の心は混乱しっ放しだった。
そんな中で、ふと、美優の足元に目が吸い寄せられた。
翔太は普段、スリッパを使わない。
美優は違う。
美優は、よその家のスリッパをまるで自分のもののように、自然に履きこなしている。
玄関で芽瑠の小さなスリッパを避けて器用にスニーカーを脱いでいった、その気づかいまで思い出す。
◆ ◆ ◆
「あら、美味しい。これ、アールグレイが入ってるの?」
紅茶を飲み、美優が弾んだ声を出した。
事も無げに言うその姿からは、もうデルがここで給仕をしていることを自然に受け入れてしまっているよう。幼い頃から、美優の順応性の高さには目を見張るものがある。
「ご明答でございます、美優様」
デルはうれしそうに微笑んだ。
「春摘みのファーストフラッシュのダージリンに、アールグレイ。湯やカップの温度の管理にも気を配り、ティーカップやソーサーはロイヤルクラウンダービーのものを使っております」
「英国王室御用達のやつじゃない! よくそんなものこの家にあったわね」
「多分、親父のやつだ」
翔太は答えた。
「親父のヤツ、国際魔術会議のイングランド会議によく出席していたから……」
「なるほど。組織のお偉いさんの、しかも神父の息子の役得ってわけだ」
からかうように言った後、美優はハッとした。
「ごめんなさい! お父様もお母様も亡くなられたばかりだったわね」
翔太は笑みを美優に向けた。
「いいんだよ、別に」
美優が優しい人間だと言うことは、幼馴染の翔太が一番よく知っている。
「神父とは言え、放蕩親父だったからな。ローマカトリック教会とは分離して長い、独自のキリスト教だったし、転校先の教会でもミサでオルガンばかり弾いて楽しそうにしてた変なヤツだったし」
「翔太くんも弾けるのよね」
翔太は少し答えにつまった。
「ピアノとオルガンぐらいはね。でも転校してからは一度も触ってないから、どうかな」
「そか。もったいないね。小学校ではヒーローだったし」
「いや、音楽の授業が始まる前に先生に披露させられていただけさ。結局、それでも目立っちゃって、イジメするヤツらの餌になってたからな。悪目立ちってやつだ」
「バカよね、男子って」
美優は翔太を強くかばうように言う。
そう。だって、あれは翔太くんのせいじゃない。
みんなの妬みよ。
……美優は、そういった幼く残酷で、本能むき出しの子どもの感覚を憎みさえしていた。
「でも、女子の中には、翔太くんを気に入ってた子も結構いたわよ」
翔太は驚く。
「え。知らないよ」
「実はモテてたのよ、翔太くん。学業、芸術、何をやっても賞をとってたし」
「小学校の時の話はやめよう。なんか惨めな記憶しかない」
「そっか……」
美優はティーカップをソーサーに戻した。
台所のデルが、わざと音を立てないように流しを開け閉めする。
背中で気づかってくる“家の気配”が、二人きりの会話を薄く包んだ。
「そう言えば……」
今がチャンスとばかりに翔太は話を変えた。
「ちゃんと説明をまだしてなかったけど、改めて。この子はデルピュネー。俺たちはデルって呼んでいる。しばらくお世話になることになった。今、この家に住んでもらっている」
「知ってるわよ。私だって、あの時、助けてもらったし」
家を送り出してもくれたし、という言葉を美優は呑み込んだ。やはりあの朝の状況を思い出すと耳まで赤くなりそうな気がする。
美優は組んだ膝に肘をついて頬杖する。そのキャップのバイザーから覗くアンニュイな美優の目に翔太はドキッとする。
「命の恩人の顔ぐらい、私だって覚えてます」
「な、ならいいんだけど」
翔太はまだ、美優の横顔をまともに見られない。
「デルには、今、住み込みでメイドをしてもらってる。あと、芽瑠の保育所への送り迎えとか。あ、そうそう。デルの作る料理、めちゃくちゃうまいんだぜ」
「そうなの」
美優は表情を変えずに言った。
「でも、昨日今日会ったばかりの、しかも、何か得体のしれないいたいけな少女の姿をした化け物に、身の回りの世話を普通にしてもらってるって、なんか不思議」
美優は思ったことを割とハッキリと口にする。
「化け物って」
「だってそうでしょ。あれほどの怪物を一瞬で斬り伏せちゃう少女なんて、この世のどこを探してもいないわよ」
「そうだけど」
「まあそのおかげで助かったんだけど。大丈夫。私だって感謝ぐらいしてるわよ」
その口からは、なぜか例の集団飛び降り事件についての話題が一切出てこない。
美優にしては意外だ。身近でこれだけの事件が起きたのだから相当心を痛めているはず。
なのに──まるでそれ意外のことに気を取られているかのような……。
美優の瞳が、わずかに揺れた。
その瞬間、現実がひと筋、音を立ててずれた。
「いたいけな少女の姿をした化け物だけじゃなくって、ここに化け猫もいるよ」
「えっ!?」
翔太と美優の声が、重なった。
シャパリュだ。シャパリュが翔太と美優の間に後ろ脚で立って、美優に笑顔を見せている。
「やあ」
(いつの間に……!?)
やばい。こんな立て続けに。これではさすがの美優も混乱してしまう。そう翔太が焦っている間に、シャパリュは朗々と自己紹介を始めた。
「僕はシャパリュ。デルと同じく、翔太を守る“番人”さ。よろしくね!」
「ね、ね、ね、猫がしゃべった……!」
さすがに驚く美優。ソファーの端まで後ずさる。だがその美優の驚がくを、いかにも不本意だというようにシャパリュは続けた。
「失礼だなあ。単なる猫じゃないって、見れば分かるでしょ? そりゃあ猫の姿はしているけど、これはあくまで“目立たないため”の借り物さ。本来の僕は、もう少しカッコいいんだよ。それにほら、空も飛べるよ」
そう言うと、シャパリュは体を宙に浮かせ、ふわふわと美優の目の前まで飛んで行った。
「え、えええええ……!?」
さすがの美優も動揺を隠せない。
「どうせ君にはもう、この世じゃない者たちが水城へやって来てるのも、その目で見てバレてるからね。濃霧が来る水城の人間だし、国際魔術会議とも関わりがあるようだし、これぐらいじゃ、もう僕を不可解な存在とも思わないだろ?」
シャパリュは空中で宙返りをして見せる。
「シャパリュ。いくらそうだとしても、そんないきなり見せられたら……あんまり美優を驚かせないでくれ」
「そうかい? でも実際この子は、デルがこの家で普通にメイドをしているのを完全に受け入れてるじゃないか」
「そうだけど」
「いえ。いいわ。大丈夫。もう驚かない」
美優は完全に冷静さを取り戻している。ふう、とため息をついた。
「私の父も多少、魔術をかじっているからね。私だって、こういう存在をまったく知らないわけじゃないの。最近は、こんなに『カスケード』が訪れてるんだもの。そこに来て、あの事件──何がここにいても不思議じゃないわ」
──「あの事件」とは、例の隣のクラスの集団飛び降り事件のことを差しているんだろう。
そして美優はシャパリュへと改めて目を遣った。
「シャパリュって言ったわね。『アーサー王伝説』なんかに出てくる、あの怪猫でしょ。フランスにも言い伝えがある……。でも英語ではキャスパリーグじゃなかったかしら。アーサー王を倒したっていう化け物が、こんなに可愛い子猫ちゃんだったなんて、見るまで信じられなかったけど」
「その通り~♪」
シャパリュはうれしそうに言う。
「よく知ってるね♪ 有名なのかな、僕」
「私たちみたいな人間にとっては、ね。お父さんの書斎に色々な文献があるの。国際魔術会議に所属する父の娘ってのは伊達じゃないわ」
「そうかあ」
シャパリュはうれしそうだ。
「それに」
シャパリュは空中でシャドーボクシングをして見せた。
「こう見えて、強いんだよ、僕。シュッ、シュッ! シュッ、シュッ!」
「分かった、分かったわ。もう完全に受け入れた。受け入れたから、もう! 私の目の前でチラチラしないでよ!」
「了~解~♪」
シャパリュはくるん、と後方宙返りをした。
「順応性の高い女の子は大好きだよ、僕♪」
それからシャパリュは意外にも大人しく床に降りて、四本脚に。まるで普通の猫だと言わんばかりに、尻尾を振りながら歩きながら去っていった。
「ま~た~ね~♪」
にゃ~んと猫そのものの鳴き声をあげてドアの外へ出るシャパリュ。それを見て、翔太と美優は2人同時に「はぁ」と息をついた。
「大体、おかしいのよ」
美優は頭を抱えながら言う。
「ここ、教会でしょ? 神の御威光もあらたかな場所に、魔界の眷属みたいなのが普通にいるって……、どう考えても変でしょ」
「……」
「でもこのメイドちゃんや、あの子猫ちゃんを見る限り、やっぱり、この敷地にかなり特殊な、私達の常識が通じないような結界が張られてあるっていうのは本当みたいね」
「え?」
翔太は耳を疑った。
「結界?」
「うん」
「そうなんだ」
「そっか。翔太くんは知らなかったのね」
美優はロイヤルクラウンダービーのティーカップを見つめた。
「ところで確か、俺に話があるって言ってたけど」
「……!」
「あれは何なの?」
途端に、美優の顔が紅潮した。
「そ、それね……」
耳まで真っ赤になっている。
(な、なんだ?)
「そ、それ、私も今、言おうとしてたわ」
なんだか様子がおかしい。
「聞く。どんな話でも」
「あ、ありがと」
美優は下を向いた。
キャップのつばを指でつまみ、ほんの少しだけ下げる。
翔太の胸の鼓動と、遠くの港の低い音が──、不意に拍を揃えた。
「えと……、ちょっとお願いがあるって言うか……。ゴニョゴニョ」
「え?」
翔太の耳には最後のほうが聞き取れない。
「だから……、あの、この家に……」
「いや、ごめん、もう少し大きな声で」
「だからぁ!」
美優は翔太の顔を見た。
そして大声で怒鳴るように、こう言ったのだった。
「今日から──私も、この家で、暮らさせてほしいのっ!!」




