第238話 神表流エクソシズム①
第238話
野津は、左耳を押さえたまま立ち尽くす。
指の隙間から、血が落ちる。
ぽた。
ぽた。
落ちた血が、路面の黒い水に混ざって、薄く広がる。
瞬間──
背後で激しい破壊音が連続で野津を背後から襲った。
ズン!
ズン!
ズン!
「──!?」
反射的に振り返る。
その野津の目に入ったのは……
「う、うわっ……!!!」
溺死体の膨れ上がった舌──
そこは、もはやこの世の光景ではなくなっていた。
十字架でできた林。
一本じゃない。
何十本も。
アスファルトに、杭みたいに突き刺さっている。
そして、その十字架一つひとつに、さまざまな死体が磔になって架けられている。
血と海の匂いごと。
十字架が揺れるたび、骨が擦れるような微かな音がした。
野津が最初に見た溺死体。
口が開いていた。
顎がずれて、閉じられない。
舌が膨れて、だらりと垂れている。
喉の奥は黒い海藻みたいなものが押し込まれて塞がれ、
舌先だけが、ぬるく光って見えた。
その斜め後ろには、首が落ちている死体があった。
だが落ちきっていない。
首の骨だけが折れた角度で止まっている。
ぶら下がっているんじゃない。
十字架が、折れた首をその角度のまま支えているようにも見える。
別の一本。
腕は十字に広げられているのに、肘だけが不自然に折れている。
指先だけが強く固まり、
爪の間に黒い砂と、細いルーンの欠片が食い込んでいた。
その中に、ひとつだけ──逆さの死体があった。
逆向きに掛けられている。
頭が下。足が上。
髪が重力に従って垂れ、顔が隠れている。
なのに、そこから見られているような気がする。
「これは……!?」
野津の声に、飄々《ひょうひょう》と答える声があった。
「ああ、それ──ドラウグルの中身たち」
「中身……?」
「先輩も見たでしょ。無念に胸を焦がしながら、
海で、船で、殺されたり死んだりしていったヤツら。
あれの魂たちだよ。それを神の下へと返す」
「返すって……」
「まあ、この秘術を使うと、ほどける途中は、こんなふうになる。
気味悪いのは、仕様ですよ。大丈夫。すぐ消えるから」
「これが、か……?」
静まり返ったこの結界の中に、所狭しと乱立する死体と十字架。
その光景は、まるで地獄。
十字架に架けられているが、とても神の祝福を受けているようには、到底思えなかった。
それら十字架の足元には、おびただしい量の血痕がある。
激しい死闘の痕跡……その呼吸がまだ残っているように。
その上に、黒い水が混ざっているのが分かる。
(──海水? に、見えるが……)
漁師の息子である野津は直感で、それを見抜いた。
やや泡立った箇所がある。
海藻の切れ端のようなものも、浮かんでいる。
さらには臓物。
もう、腸なのか、胃なのか、判別できない。
さらには骨。
そして人間の頭部。
顔の肉はすでに、すべて噛みちぎられ、削ぎ落とされたようになっていた。
目の位置が、空洞になっている。
口が開きっぱなしで、歯茎が剥き出しになっている。
口の奥に、黒い水が溜まっている。
すべて、バスで脱出し、ドラウグルに捕らえられた連中が、ここに置いていかれたものだ。
(俺たちが闘ってる間に……)
視線を逸らせない。
(俺たちが、不甲斐ないばかりに──)
野津の左の耳は、切れている。
そこを手で押さえている。
裂けた肉の柔らかさと、耳の縁の硬さが、同時に指に伝わる。
熱い。
痛い。
なのに、痛みが遠い。
音が、変だ。
左側だけ、世界が濁っている。
海の底みたいに、低く、重く、こもる。
自分の呼吸音すら、誰かのものみたいに聞こえる。
──それでも、俺は、生き残ってしまった……
十字架の林の向こうには、乗ってきたバスがある。
バスの側面は、剥ぎ取られていた。
その部分の骨組みだけが残っている。
座席の列がむき出しで、まるで人体模型の腹の中みたいに見えた。
野津は、胃の底を押さえた。
(どれだけの犠牲が出たんだ……)
数が分からない。
死体が、死体として成立していない。
誰が誰だったか、服の色だけが残っている。
服の切れ端だけが残っている。
割れた時計だけが残っている。
髪の束だけが残っている。
そこに、まだ人間だった時間が残っている。
野津の喉が鳴った。
吐きそうなのに、吐くものがない。
空っぽの胃が、きしむ音だけを立てる。
その惨状の中心に──神表が立っている。
星城学園の制服。
メガネ。
木刀。
(何者なんだ……)
野津の背筋に、冷たい汗が浮いた。
周囲では、生き残った連中もいる。
宇和島第三の龍雅は笑っていた。
笑ってるのに、目が死んでない。
むしろ目だけが、変に冴えている。
同じく宇和島第三の疋田は、その表情からは感情が読み取れない。
黙っているのに、圧がある。
息一つ乱さず、周囲の十字架を見回している。
水城工業の小野山は、片方だけのスニーカーを握りしめていた。
さらわれ、姿を消した、櫻井のものだ。
その鼻は折れたまま。
血が固まって、呼吸のたびに“ひゅっ”と笛みたいに鳴る。
星城学園の今井は、防具姿のまま座り込んでいる。
面だけが外れている。
頬に汗と血が張りついて、肌が灰色みたいになっている。
その今井が、ふっと力が抜けたみたいによろめいた。
野津は慌てて駆け寄り、腕を伸ばした。
抱える。防具が重い。
だが、生きている重さだ。
今井の唇が動いた。
「……折れた……」
竹刀のことだろうか。
今井の目は、もうここにいない。
十字架の林の中、
──信じられないものを見た……その恐怖が今ごろになって襲ってきた、そんな感じだった。




