第234話 魂縛〈たましばり〉/『ドラウグル』解放戦線①
第234話
野津には何が起こっているか、分からない。
ドラウグルが、その声の主を一斉に見たこと以外は。
(誰だ……?)
握りしめた拳だけはほどかず、声の方を見る。
ドラウグルたちの背中越し、『濃霧』の向こうから、妙な軽口が聞こえる。
「あー……これ、視界最悪だな。
霧はさ、戦う前に片付けとこうか」
──え?
当然の反応だ。
野津も、今井も、言葉が出ない。
(何言ってんだ……?)
そっちの方が先に立つ。
そこに、こんな言葉が聞こえてきた。
「――ミカエル小聖式・清域展開」
神表はそう告げると、
左手で胸元に奇妙な印を結び、
右手の木刀で、地面に向かって小さな円を描いた。
──そのときだ。
野津らの足元から、光が滲み出した。
幾何学文様。
重なり合う円。
欠けた環。
回転の速さが、それぞれ違う。
ごく薄い白金色の円が一瞬だけ灯る。
その円の内側に、
見慣れない文字――
ラテン語ともヘブライ語ともつかない、
角ばった聖句が、重なって浮かび上がる。
意味は分からないのに、見ているだけで心がざわついた。
円はひとつではなかった。
いくつも、重なっている。
大きさも、回転の向きも、速度も、全部違う。
自分の目が、霧より信用できなくなる。
次の瞬間──
爆発ではない。
衝撃でもない。
ただ、下から押し出されるように、『濃霧』だけが、上空へと噴き上げていく。
途端に露わになった。
バス周辺が。
路面が。
建物の輪郭が。
おそらくバスの半径十メートルぐらい。
きれいな円状に、『濃霧』がそこだけ、一瞬で、空へ押し上げられていく。
ゴウッ!
それは、天を覆っていた雲をも突き破った。
遥か上空に、真っ青な青空が円状に見える。
「風が、霧を……?」
やさしい日差しが、落ちてきた。
街全体じゃない。
この場所だけ。
バスと、血と、死体と、人間たちを包む範囲だけ。
この辺りだけ、霧が晴れた。
野津は驚きを隠しきれない。
それは、今井も同じだ。
ただ、龍雅だけが、まだ、ぐにゃぐにゃになった金属バットを握りしめている。
その龍雅の視線だけ、そこに突如現れた男に向けられていた。
野津もそちらを見る。
そこにいるのは、星城学園の制服を着た、メガネをかけた少年。
少年は言う。
「あ~あ。同じ学校のヤツいるじゃん。身バレしちゃうな、これ」
少年の手には、木刀が握られていた。
そしてドラウグルや、路面を見回す。
「うわっ。ひっどい血の匂い。来るのが遅かったわ。やべ。死体まみれじゃん」
その少年の言う通りだった。
特にバスの周囲がひどい。
まず、バスの側面が、搭乗口を残して完全に引っ剥がされていることに野津は驚いた。
そして、そのバスの中には、原田先生。後輩の高木。……彼らは生きている。
だが、その周りでは、もはやどれが運転手か、サラリーマンか、三十代夫婦の妻だったのか、ぐちゃぐちゃで分からなくなった死体が転がっている。
それをそれぞれ、ドラウグルたちが囲んでいる。
そのドラウグルたちも、その少年の方を見ていた。
路面は、完全に血で濡れていた。
臓物が、道の中央に落ちている。
腸なのか、胃なのか、もう判別できない。
骨は砕け、肉は潰れ、
目玉らしきものが、靴跡の中で潰れていた。
生きていた人間が、
どんな順番で壊されたのか──
想像できてしまう分だけ、吐き気がする。
息をするだけで、気持ち悪い。
「それにしても、ドラウグルの数が多いな。ちょっと間引くか」
少年は、無造作に木刀を振った。
それは、目の前のドラウグルに対してだった。
明らかに首を狙った横薙ぎの一打。
これを見て、今井が驚きの声を漏らす。
「……え?」
今井の驚きは当然だった。
木刀は、確かに、ドラウグルの首を、刎ねるように振るわれた。
だが、首が墜ちない。
しかし、首の「接続部分」だけが消失している。
切断面から血も出ない。
代わりに、魔法陣のような、淡い金色の幾何学文様だけが空中に残っている。
(どうなってるんだ!?)
そのドラウグルは一切の動きを止めた。
そして少年は言う。
「あんたら、ドラウグル相手に、”肉“を相手にしてただろ。それじゃ、こいつらは倒せない」
野津も今井も息を呑む。
今井だけが呟く。
「切ってない……
当ててもいない……
なのに、首が……首だけが……」
龍雅は、無意識に一歩下がっていた。
理屈は分からない。
だが、神表が、
「殴っちゃいけない相手だ」
という感覚だけが、骨に刺さる。
「ドラウグルの本体は、”呪い“そのものだ。つまり、物理ではなく“位相”を制さなければ、倒せないんだよ。だから、いくら金属バットで殴っても、竹刀で相手の骨を砕いても、腕力で引き裂いても、意味がないんだ。……なあに、驚くことはないですよ、先輩たち。俺は、魂の結び目を外しているだけなんで」
そしてまた、一振り。
同じように、首の「接続部分」が消え、代わりにそこに金色の魔法陣だけが残る。
「ドラウグルは、その肉体は、単なる死体だ。動力は怨嗟の集合。分かりやすく言えば、悪霊だな。あと、それを固定しているのは、ルーン。つまり、北欧の呪術だ」
次々に、ドラウグルの首に魔法陣を作っていく少年。
「つまり三層構造の呪い……。殴って壊れないのはさ、壊す順番が違うからなんだよ。つっても、結構、バラバラになってる個体もあるな。あんたら、何者だ? 拳や竹刀や金属バットだけで、ここまで持ちこたえたのか? それはそれでめっちゃすげーんだけど。あと、竹刀持っている先輩、すっげー可愛い」
「え……私……?」
言われて今井が、ちょっと引いたのが分かった。
(何、言ってやがんだ、このバカ)
助けられたくせに、野津ですら、そう思う。
やがて、ドラウグルたちが、カタカタと動き始めた。
ドラウグルの鎧や手斧のルーン文字が光り始め、その少年へ向けて戦闘スタイルを取る。
「うん。知ってた。金縛りは一瞬だよな。そろそろ動き始める頃だって思ってた。じゃあ、やりますか。悪魔祓い。ゴブリンやトロールなんかより、こっちの方が、俺の専門分野なんだよな」
そして少年は、ぽつりと一言だけ告げた。
「――Solve vinculum animae.(魂の縛りを解放せよ)」
ラテン語。
短い。
だが当然、野津たちには、意味が分からない。
一拍置いて、
神表は、別の言葉を低く続けた。
「Bindr slitni. Rúnar falla.」
北欧語だと、後から野津は知る。
「縛りは裂け、ルーンは落ちる」
という意味だった。
そんな野津たちに、少年は告げる。
「俺の名は、神表洋平。名前だけでも覚えていってネ♪」
そして、その、神表と名乗った少年は、木刀の切っ先で、空中に円を書く仕草をする。
「ミカエル秘儀――
魂錨解放陣」
その瞬間、
地面に浮かんだ魔法陣が、
──回転をやめた。
「さあ。悪魔祓いの儀式なんて、あんま見られるもんじゃないよ。ちょっとすごいって思ったら、おひねり、よろしくパーリナイ♪」




