表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

241/249

第232話 ジェノサイド③

第232話 


 原田先生は、声を震わせながら若い母親の肩を抱いていた。

 若い母親は、赤ん坊を胸に押しつけるように、必死に抱きかかえている。


「だいじょうぶ……だいじょうぶよ……ママ、ここにいるから……」


 その声は、赤ん坊に向けたものというより、

 崩れ落ちそうな自分自身を、必死につなぎ止めているように聞こえた。

 そのさらに後ろでは、三十代の妻が、完全に壊れかけていた。


「いやあああああ!! もうムリ! ムリムリムリムリ!! 出して! 出してよォ!!」


 ついさっき、目の前で、夫が床の隙間から伸びた白い手に引きずられ、

 そのまま、霧の下へと消えていったばかりだった。

 さらには、少年が「中身だけ」になって捨てられ、外に引きずり出されたサラリーマン……

 この連続で、理性が残っている方がおかしい。


(出して……?

 どこから……?

 もう、ここは外と変わらないのに……)


 と、高木は、壁の側面が剥ぎ取られたバスから、その先の『濃霧』を見て、思う。

 確かに、このバスの中は、外よりも霧が薄い。

 ほんのわずかだが、「まだ安全だ」と錯覚してしまう程度には。

 現れるドラウグルたちも、外よりは量は少ないはずだ。

 それでも、もう何人殺されたか……


 呼んでも届かぬ英雄の名。

 さすがの高木も心が折れかけている。

 またいつ、あの白い手が、床から湧いて出てくるか分からない。

 それも半ば、諦めかけていたそのときだった。


 ガンッ。


 金属を殴りつけたような鈍い衝撃音が、バスの中に響き渡った。


(野津さん……!?)


 そう思って音の出た場所を見る。

 だが、そこに野津の姿はない。

 代わりにあったのは

 唯一、残った窓。

 今しがた未亡人になってしまった彼女のすぐ横。

 前方の乗車口だ。


 奇跡的にその部分だけが、剥がされていなかった。

 乗車口だけが、まるまる残っていたのだ。


 その乗車口の窓に貼りついていたのは、

 白い手。

 血の気のない白い顔。

 水を含んだ海藻のような髪が、ガラスにべったりと張り付いている。

 水滴がつうっと垂れる。

 ガラスのひびの間を、その水が黒い筋みたいに流れ落ちる。


(な、なんでだ!?)


 高木はその異様な光景に目を見張る。

 壁は片側、まるまるない。

 なのに、なぜ、その乗車口の前にだけ、ドラウグルが表れているのだろう。


(まだ……まだ、何か、わけの分からないことが起こるのか……!?)


 その高木の目を覚ましてくれたのは、例の彼女だった。


「ド……ドアッ……!」


 窓の外では、ドラウグルの白い手が幾本も貼り付いている。

 にもかかわらず、彼女は突如、そのドアに向かって手をかけた。


「ドアッ! ドアがあるっ!」


 まるで、すがるように。

 ──狂乱している!


「な、何やってんだ!」


 高木は再び立ち上がった。

 今、外へ出たら確実に殺される。

 だが彼女の中では、

「ドア=外=助かる」という、

 もはや理屈の通らない本能だけが、暴走していた。


「ま、待て──!」


 高木が腕を伸ばす。

 届かない。

 彼女はそのドアを開けてしまう。

 ドッと入り込んでくる霧。

 そして。

 ドラウグルの白い腕。

 それが、妻の髪を掴んだ。


「や、やだ……!」


 束ねた髪ごと、頭皮をつかみ上げる。

 毛根ごと、まとめて引き抜かれそうな力。

 そのまま首が、釣り糸で引っ張られた魚みたいに、ありえない角度で前方へと反る。


「離して……! やだやだやだやだっ!」


 喉が擦れ、悲鳴がかすれる。

 足はまだ車内にあるのに、上半身だけが外へ引き出されようとしている。


(させるかっ!)


 高木は、一瞬の迷いのあと、

 自分でも信じられないほど自然に、半歩だけ外へ踏み出していた。

 そして、がっしりと妻の腰を掴む。


「離さない……! 絶対、離さないっすから……!」


 全身の筋肉を総動員する。

 だが、外からの力は、さらに強い。

 なぜかドラウグルたちは、彼女の髪にばかり手を伸ばす。

 高木には手を出してこない。

 どういう習性なのだろう。

 分からない間に、路面と、バス、

 彼女の体が、その境界線上で、引き裂かれそうに揺れた。


「いやあああああああ!! なんで……なんで私がああああ!!」


 その叫びが、誰に向けられたものなのかは、もう分からない。

 神か。夫か。それとも、自分自身か。

 白い手が、さらに一本、妻の顎を掴んだ。

 指先が頬の皮膚を抉り、爪が耳の後ろへ食い込む。


(まさか……)


 と、高木は思う。


(こいつら、集団で誰か一人、狙いを定めて襲うタイプの化け物なのか……!?)


 だとしたら、もう救うしかない。

 今、この彼女を救わなければ。

 彼女は確実に、この『濃霧』という海の中へと引きずり込まれてしまう。


「やめろおおおおおおおおおおっ!」


 高木は吠えるように叫び、腰に回した腕にさらに力を込める。

 だが。


 妻の腰紐が、

 ぶち、

 と、嫌な音を立てて切れた。


 布が一気にずり上がる。

 高木の指先は、彼女の素肌の上で滑る。

 そして──

 高木の手が、ふっと軽くなった。


「……あ」


 もう、そこに、彼女はいなかった。

 彼女の全身が、霧の中へ消えてしまった。


 残されたのは、路面に落ちた引きちぎられた髪の束と、

 目の前をくるくる回転しながら落ちていく、頭皮の一部。


 剥がれた皮膚の裏側に、まだ生々しい白い骨の縁が覗いていた。


「ク……ッ……!」


 高木は、唇を噛んだ。


(まただ……

 俺は、また……

 何も、救えなかった……)


 血の味がした。唇の皮が剥ける感触すら、もう遠く感じる。

 拳を握る。

 そして急いでバス内へと戻る。

 無駄だと分かっていながら、乗車口のドアを閉める。

 自分でも何をしているのか、何が起こっているのか、もう分からなかった。

 このパニック状態に自分まで呑み込まれていた。

 もう、ここ以外の壁は、完全に剥がされて中が剥き出しになっているのに。


 それでも、「閉める」という行為にすがらずにはいられなかった。


 高木は乗車口の前で、今度は腰まで崩れ落ちた。

 その高木の耳に、おじいさんの声が聞こえる。


「わしが、守る……わしが──」


 声は震えていないのに、足元はふらついていた。

 それでも背筋だけは、真っ直ぐ伸びている。

 ふと目を遣ると、割れた床板の隙間から、また新しい手が伸びていた。


 ──まただ。


 奴らは、必ず「弱いところ」から入ってくる。


 高木はよろよろと立ち上がる。


 新しい手は、座席の下からも表れた。


 おばあさんのスカートの裾を、冷たい風みたいなものが撫でる。


「何か、冷たいものが……私の足首に……」


 次の瞬間──おじいさんが、走った。

 そして、バスの後方から消火器を抱え上げ、

 その底で伸びてきた手を叩き潰した。

 水分を含んだ骨が砕ける、嫌な手応え。

 骨の破片と黒い水が、床にぴしゃりと跳ねた。


(お、俺も……俺もなんかしなきゃ……)


 すでに、高木の心はボロボロだ。

 だがいま、白い手は、どうやらこの老夫婦をターゲットに決めたように見える。

 

(なら、この二人に絞って、守ったら……!?)


 高木がこれをもっと早く気付けていたら、違ったかもしれない。

 高木がその場へたどり着くよりも早く、

 また別の腕が、今度は、おじいさんの肩を掴んだ。


「ぐっ……!」

「おじいさん!?」


 おばあさんが叫ぶ。

 おじいさんは、振り返りもせず、彼女に向かって怒鳴った。


「下がってろ! 座席の上に上がれ! わしのことは──振り向くな……!」


 この後見た光景を、高木は一生、忘れることはないだろう。

 おじいさんの、その言葉が終わるより早く。

 彼の頭は、

 上顎から上が、

 まるごと、消えていた。


「……え?」


 ルーン文字の刻まれた手斧。

 おじいさんの上半分の頭蓋は、それにさらわれたのだ。

 胴体と顎の下半分。

 舌だけが、ぴくぴくと動いている。

 口の中に残っていた言葉が、もう二度と形になれないまま、血と一緒に零れた。


「きゃああああああああああああああ!」


 これには、さすがの原田先生も悲鳴を上げた。

 高木は、また意識が朦朧とし始めた。


(ああ、やっぱりダメだ……)


 野津がいなければ何もできない自分を責めていた。


(どうしたら、この地獄は終わるんだ……)


 その高木の視線の先には、おじいさんの頭の上半分。

 その眼球は、ぐり、と変な方向を向いたまま止まっている。

 だが、肉体は、まだ意思が残っているようだった。

 おじいさんの肉体だけが、後ろ向きのおばあさんの肩を掴んで、自分の顔を見えないよう固定している。

 膝も、腕も、もう自分の意思では動かないはずなのに。

 筋肉の最後の痙攣が、「かばう」姿勢を崩さない。


「お、おじいさん……!? 一体、何が……?」


 おばあさんは、おじいさんがもう死んでいることに気づいてない。

 そのおばあさんを、上半分の頭についた目が愛おしそうに見つめているように見える。


(なんなんだ、これは……)


 無力な高木。

 高木がまた歩みを止めたその間に、床板の隙間から再び別の白い手が伸びた。

 その手が、「壊れた頭」を下へ引きずり込んでいく。

 黒い水の中に落ちた石ころみたいに、おじいさんの顔の上半分は、床下へ。

 すうっと消えた。


「お、おじいさん!? おじいさん、さっきから何なんです……!?」


 そうパニックになるおばあさんの頭の上に、噴き上げた血がぽつぽつと落ちていた──


 ◆  ◆  ◆


 外。

『濃霧』の中、バスから約五メートル程の距離。


 まだ鈍い音が何度も響いている。


 金属バットの音か。

 拳が骨を砕く音か。

 竹刀が斧を弾く音か。


 野津。

 今井。

 疋田。

 そして──龍雅。


 霧の中。

 バスの側面を背に、彼らはほとんど壁のようなドラウグルの群れと対峙していた。


 今井の竹刀が、野津に襲いかかってきていたドラウグルの斧を弾く。


「前、見てて! 野津くん!」

「悪い!」


 野津は、考えるよりも先に拳を振るった。

 顎を砕き、喉を潰し、肩を折る。


 それでも動きを止めない屍鬼たちを、腕力だけで押し返し続ける。

 手首を掴む。

 万力みたいに締め上げて、へし折る。

 150キロの握力。

 皮膚の下で、骨がバラバラに砕ける感触。


 それでも、斧を離さない。


 折れた指でなお、柄に食らいつき、ルーン文字の光る斧を野津の頭に振り下ろさんとしている。


「……こいつら、痛覚ってもんがねえのか……」


 どう考えても、人間側の条件が悪すぎる。

 無理ゲーみたいな理不尽設定で、勝てるわけがない。


 ――それでも。


 野津の耳には、赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 高木の怒鳴り声も。

 原田先生の必死の叫びも。

 野津は思う。


 ──守らなければならないものが、

 俺には、あまりにも多すぎる。

 だから、倒れるわけにはいかない。


「野津くん!」


 今井が、背中越しに叫んだ。


「バスの中……もう、ギリギリ……!」

「分かってるっ!」


 野津は歯ぎしりしながら、素手でドラウグルの頭を兜ごとふっ飛ばした。

 指の皮が擦りむけ、自分の血と、ドラウグルたちの体液でぬるぬるして気持ちが悪い。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ブクマ・ポイント評価お願いしまします!
小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ