第21話 来訪者
第21話
「申し訳ありません、翔太さま──」
リビング。テレビの光だけが揺れる中、呆然と画面を見つめる翔太に、デルピュネーは深く頭を下げた。
テレビはあるニュースで持ちきりだった。
――星城学園高等部 生徒たちの集団飛び降り、複数死亡──。
被害は翔太の隣のクラス、一年B組。飛び降りたのは十八人──見知った顔も多いが、親しい者はいない。
つまり、美優の名前は、ない──。
胸の奥が一度だけ緩み、すぐ軋む。
それは、安堵の形をした罪だった。
罪悪感のせいで、胸が重いのに、どこか現実が遠い。
何か別のことを考えていないと、正気を保てそうになかった。
テレビは無機質に報道を続けている。
原因は不明。フェリー乗り場ビル屋上からの同時飛び降り。
遺書は見つかっておらず、前夜の『濃霧警報』との関連を指摘する声、集団ヒステリー説、学校運営への疑念──テレビのキャスターやコメンテーターが交互に意見を重ねていく。
「生徒たちの安全は保証すると――」
「はい。わたくし、確かに申し上げました。誠に申し訳ありません」
「一体、どうしてこんなことに……」
「仕方ないさ、翔太。デルはよくやった。あれは本当に不可抗力だったんだよ」
口を挟んだのは、アーサー王伝説にも顔を出す怪猫・シャパリュである。
「不可抗力……」
「ああ、そうさ」
シャパリュはソファの背を踏みしめるように前足を『ふみふみ』させ、「責めるならヒゲもまとめて頼むよ。抜けたら弁償してもらうからね」とふざけた口調で笑った。
猫のくせに。……いや、猫だからヒゲか。
シャパリュは、自身の体を宙に浮かせ、デルの肩の上に乗った。
肩に飛び乗る瞬間、しっぽがデルの頬をくすぐり、彼女は無言でそれを払いのけた。
「なんだよ。せっかく庇ってあげるのに!」
「いえ。くすぐっとうございます。おやめくださいませ」
「まあいいか。デルの落ち度の話だったね。やはり、あれはどうにもならなかったよ。だって、いきなり現れたんだ。想定外という言葉がピッタリだ」
「「現れた? どういう……」
「来たのさ……あの厄介な“神の御子”がね」
それは、神表洋平だった。
デルとシャパリュの話では、夕刻、中等部校舎裏の旧校舎付近に何かを感じたデルは、そこへ赴いた。
と同時に、突然、木刀を持ってメガネを掛けた学ラン姿の少年が襲ってきたのだという。
間違いない。
「エクソシスト……悪魔祓い師だね、あれは。相当に腕が立つよ」
「そんなに強かった……のか?」
「うん。そうだね。デルが調査しようとしていたら、急に現れたんだ」
「なぜ、あいつが……」
『濃霧警報』、つまり『カスケード』のあった夜、『ゴースト』たちから翔太と芽瑠を守ってくれようとしたあの少年。
その神表が、なぜか、星城学園に現れた。
「そもそも僕たち魔物にとってエクソシストは天敵だ。デルは力でゴリ押しできるから結構いい勝負ができていたけど、僕が駆けつけた時にはもう、デルの力も尽きかけていたからね。僕が後ろから不意討ちしなければ、危ないところだった」
「それだけではありません」
デルが付け加える。
「例え、相手が天敵でも、ここまで遅れるのは通常あり得ません。──ですが、わたくしは何者かの幻術に囚われ、視界を奪われてしまっておりました。訪れた瞬間、視界を乗っ取られました。光は滲み、天地が逆さまに揺れました」
「幻術、だって?」
さらに一段、足場が崩れる。
「そうです。『カメア』が感知した“波動”。その波動が最も濃く残っていたのが旧校舎の周辺。訪れた瞬間、わたくしの視界は何者かに乗っ取られたのです。あのエクソシストとは別の存在です」
シャパリュは、相変わらず陽気に答える。
「つまり、あの学校には幻術を使える者がいるか、あるいは幻術を行使する悪魔に取り憑かれた人間がいる――それとエクソシストの二人がかりだ。ね。デルが苦戦したのもしょうがないことなんだよ」
幻術使いに悪魔。
それが、学校に……?
赤いテロップの光が、部屋の白い壁と彼のこめかみを交互に染め上げた。言葉は全部、まるでガラス越しのように聞こえていた。画面のテロップだけが、現実の色をしている。
「わたくしが思うに、術をかけてきたのは、おそらく後者の方だと思います。普段なら、人間レベルの幻術に、あそこまで不覚を取るということはございません。デルの視界からは光が奪われ、物が二重にも三重にも見え、さらに平衡感覚を狂わされました。立つこともままならない状態です。わたくしにそこまでの精神攻撃を与える者。それは人間よりもっと高位の存在……つまり、“悪魔”の仕業でございましょう」
翔太は顔を伏せて考え込む。
悪魔……その言葉がまだ翔太には馴染まない。
怖さは、理解より先に来る。
だが“獣”の名を与えられてしまった以上、理屈で押し返す癖がついた。
『カスケード』、小林のおばさんの血、『ゴースト』、そして自分の中の名付けようのない何か。
その直後に、飛び降りと幻術と悪魔だ。思考が整うはずがない。
「とはいっても幻術を扱える悪魔なんて星の数ほどいるからなあ」とシャパリュ。
「それでも、単なる悪魔風情でしたらわたくしも、視界をジャックされることなどなかったはずです。おそらく今回の『カスケード』で訪れた者。名を知られた存在ではないかと思われます」
「その推測はおそらく、間違ってないね。でも、何の目的で現れたのだろう。翔太を狙っていたわけじゃないんだろ?」
「そうですね。でも、悪魔系の幻術でもかなり強いタイプだとわたくしは感じました。……ともかく、シャパリュさまのおかげでエクソシストの手から逃れたわたくしたちは、その幻術の流れを追って港の方まで向かいました。ですが……」
「一歩、遅かった、っていうわけさ」
説明が終わり、リビングが再び、凄惨なニュースの声で満たされた。
テレビは、延々とその事件を語り続けている。
「それで……」と翔太は切り出す。
「その幻術の主――悪魔に取り憑かれた誰かは、見つかったのか?」
これにはシャパリュが答えた。
「いいや。でもすでに、ベレスさまが動いている。本腰ではないね。相手の格が知れている――そんな顔だったよ」
翔太は、あの冷たい凍るような瞳を思い出した。
「でも安心していいよ。僕らの役割、覚えてるかい? 君と芽瑠ちゃんを守ること。僕らがいるんだから問題ないさ」
頼もしいのかそうでないのか、まるで分からない。
そんな時だった。
翔太のスマホが震えたのは。
画面を見る。
瑚桃からのLINESだった。
「ちょっと待ってくれ」と翔太はLINESを起動した。
すると。
『翔太センパイ、大丈夫?』
どうやら心配してくれているようだ。
それはそうだろう。
面識があまりないとは言ってもすぐ隣のクラスの人々があんな死に方をしたのだから。
その後も、気遣うようなスタンプが次々と続く。
そしてまたメッセージ。
『落ち込んでない? 今日は中等部も休校になっちゃった』
瑚桃なりの優しさだろう。
それはありがたいが、翔太はとても返す気力がなかった。
それでもなんとか一言だけ。
『大丈夫』
それだけでいっぱいいっぱいだった。
『いや、これ、この言葉、ミリ大丈夫じゃないでしょ。私、翔太センパイの家行こうか?』
『大丈夫?ゲシュタルト崩壊的“大丈夫?”』
『そっけない言葉は大丈夫じゃない判定です』
さらには、謎の変顔自撮り。
『笑ったら生存確認OKの合図、ミリで可』
ちょっと笑ってしまった。
瑚桃も瑚桃だ。不謹慎極まりない。
年下の幼なじみとして、彼女なりに必死なのだろう。
だから精一杯の気持ちを込めて打った。
『大丈夫』と。
もう一度。
そしてスマホを裏返しソファーに置く。
その後も、スマホはバイブを鳴らし続けている。
ソファがかすかに、歌うように響く。
それも瑚桃だろう。本気で翔太を大切に思ってのことだ。
──変顔の意味までは分からなかったが。
それよりも。
である。
生徒たちの集団飛び降り事件。デルピュネーが遅れをとるほどの悪魔、そしてそれに取り憑かれた幻術使いの存在。そして、再び翔太の近くに現れた、エクソシストを名乗る少年。
前回の『濃霧警報』から、色々なことがありすぎた。
そのせいか、今回の事件についても驚きは薄い。
代わりに胸の奥だけが、赤く点滅している。
一体、何が始まっているんだ……?
不安というよりは、「もうたくさんだ」という気持ちのほうが強かった。
それでも──誰かの声を聞きたかった。
それがたとえ現実逃避だとしても、いまはそれでよかった。
さきほどの瑚桃からのLINES。
あれだけでも少し気を紛らわせられたのだから。
──そんな時だった。
ピンポーン♪
インターホンが鳴ったのは。
(こんな時に……?)
翔太は重い腰を上げた。
テレビをミュートにする。
字幕だけが部屋を冷たく流れる。
そして、モニターへと歩く。
玄関に並んだ小さなスリッパ二足が目に入る。小さいのは芽瑠のものだ。
そして翔太がモニターを覗き込むと……。
「えっ──」
モニター越しに美優の横顔があった。
喉が鳴り、足が半歩だけ退く──それでも視線は逸らさない。
理屈抜きで意表を突かれた。
驚いた。
美優がこんな風に家を訪ねてくるのはいつぶりだろうか。
間違いなく、小学生時代以来だ。
美優は、インターホンの前で、ドアを「コン・ココン」と叩いた。
それは、小学生時代からの美優の「入れて」の合図。
懐かしさが込み上げる。
「はい」
ともかく、そう答えた。
モニターでは、美優は真剣な表情を向けている。
(あれ……でも?)
いつもと様子が違う。
“日常”──その象徴だと思っていたのに、胸の奥で小さな違和感の火が灯る。
『翔太くん、ちょっといい?』
「ちょっとって、何が?」
『今、家に上がってもいいかなって訊いてるの!』
少しふてくされてる? それとも……
いずれにせよ、訪れた理由が分からない。
「別にいいけど……。でも、美優の友達も何人か亡くなったんじゃないのか」
翔太は、また、つい気遣いをしてしまった。これは小学生時代からのクセだ。
まずい。もし友達がいたら悲しみを思い出させてしまうかもしれない。
美優はため息をついた。
『そうね……。今はまだ大騒ぎ中よ。捜査とか通夜とか。濃霧現象が起こった途端これだもの。きっと何か関係があるはず。まあ、私の方はなんとか平静を保っている感じね。こんなことで、暗くなってはいられないもの』
「そっか、そりゃそうだよな」
少なくとも、声は落ち着いている。
翔太は美優の、天使のような容姿からは想像もできない「強さ」を改めて感じた。
「それにしても急だな」
平然を装って言う。
『ええ。私も急で申し訳ないとは思っているわ』
「でも、どういう風の吹き回しだ? しかも“上がりたい”って――」
──ふと。飛び降りた十八人の痛みが体に流れ込んできたような気がした。
今はそれどころではないかもしれない。
それに学園内にも悪魔らしき何かが潜んでいるという。
だが、こうやって訪ねてきてくれたのだ。
入れるべきか。
やはり、ここは断るべきか──
そこで思った。
もしかして。
心のどこかで求めていたもの。
それは美優だったんじゃないか。
昔からの翔太の理解者。
誰かの声……それは瑚桃だって同じだった。
でも美優だと、どこか感じ方が違う。
──まさか俺。こんな時に舞い上がってやしないよな……。
翔太も思春期に入っているのだ。
こういう状況では男としての動揺が顔を出すのも仕方がない。
自分で自分が分からなくなる。
昨夜の『濃霧』の湿り気が、まだ喉の奥に残っているというのに──
再び、玄関の向こうで失われた十八の声が、踏みとどまれと翔太の背中を掴んできた。
だが、美優は半ば強引に言い放つ。
『翔太くんだけに話したいことがあるの。だからいいわよね、上がるわよ』
いつもの美優とは違う言動と状況に、思考も体も動かせない翔太。
そして玄関からガチャガチャとノブを回す音。
『鍵、かかってるじゃない! 早く開けなさいよ! もうッ! あ・け・てッ!!!』
美優イメージ




