第232話 ジェノサイド③
第232話
原田先生が、声を震わせながら若い母親の肩を抱いている。
若い母親が、赤ん坊を必死に抱きかかえる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶよ……ママいるから……」
その声も、もう自分に言い聞かせているようにしか聞こえなかった。
喉の奥では、さっき吐いた胃液の酸っぱい匂いがまだ上がってきている。
そのさらに後ろでは、三十代の妻が、完全に壊れかけていた。
「いやあああああ!! もうムリ! ムリムリムリムリ!! 出して! 出してよォ!!」
さっき、目の前で夫が床に飲み込まれ、少年が「中身だけ」になって捨てられたばかりだ。
理性が残っている方がおかしい。
妻は、夫の血がまだ乾ききっていない床を、裸足で蹴りながら暴れる。
足裏にこびりつく血が、赤いスタンプみたいに足跡を残す。
それを滑らせて転びかけ、そのたびに手のひらや膝に、誰かの血や肉片がべったり付いていく。
「落ち着いてください! ここから出たら──!」
高木はそこへ駆け出す。だが、腕を掴もうとしても、その手がすり抜ける。
汗と血で滑る。妻のほうが一歩早く、前へ飛び出してしまう。
原田先生も、手を伸ばすタイミングを失った。
そのときだった。
ガンッ。
バスの外からの一撃が、唯一、残った窓を叩いた。
妻のすぐ横。前方の乗車口だ。
白い手。
白い顔。
海藻の髪がガラス越しに張り付き、そこから水滴がつうっと垂れた。
ガラスのひびの間を、その水が黒い筋みたいに流れ落ちる。
「ひっ、ひぃいっ!」
妻は、残った理性ごと全てを投げ捨てるみたいに、走り出した。
ドラウグルの白い手が幾本も貼り付いているドアに、自分から飛びつくようにして。
狂乱している。
ドアこそが外へ逃げられる唯一の場所──本能だけが、彼女を動かしていた。
「な、なにしてんだ──!」
高木が腕を伸ばす。
届かない。
その代わりに、開けたドアの外側から伸びてきた白い腕が、妻の髪を掴んだ。
束ねた髪ごと、頭皮をつかみ上げる。
「や、やだ……離して……!」
毛根ごと、まとめて引き抜かれそうな力。
そのまま首が、釣り糸で引っ張られた魚みたいに、ありえない角度で前方へと反る。
「やだやだやだやだっ!」
喉が擦れ、悲鳴がかすれる。
足はまだ車内にあるのに、上半身だけが外へ引き出されようとしている。
(ちくしょうっ!)
高木は、半歩外へ出て、再び飛びついた。
今度は、妻の腰を掴む。
「離さない……! 絶対、離さないっすから……!」
全身の筋肉を総動員して引き戻す。
だが、外からの力は、さらに強い。
路面と、外界と。
妻の体は、その境界線の上で、引き裂かれそうに揺れる。
背骨がきしむ音が、腕越しに伝わってきた。
「いやあああああああ!! なんで……なんで私がああああ!!」
その叫びが、誰に向けられたものなのかは、もう分からない。
神か。夫か。それとも、自分自身か。
外側の白い手が、さらに一本、妻の顎を掴んだ。
指先が頬の皮膚を抉り、爪が耳の後ろへ食い込む。
「やめろおおおおおおおおおおっ!」
高木は吠えるように叫び、腰に回した腕にさらに力を込める。
その瞬間、妻のスウェットの腰紐が、ぶち、と切れた。
布が一気にずり上がる。高木の指先は、素肌と血に滑る。
次の瞬間──高木の手が、ふっと軽くなった。
支えていた重さが、消えたのだ。
「……は?」
視界の端で、何かが飛んだ。
妻の全身が、霧の中へ。
消えてしまった。
まるで、最初からここには存在しなかったみたいに。
残されたのは、路面に落ちた引きちぎられた髪の束と、
目の前をくるくる回転しながら落ちていく、頭皮の一部。
剥がれた皮膚の裏側に、まだ生々しい白い骨の縁が覗いていた。
「……ッ……!」
高木は、唇を噛んだ。
血の味がした。唇の皮が剥ける感触すら、もう遠く感じる。
拳を握る。
そして急いでバス内へと戻る。
無駄だと分かっていながら、乗車口のドアを閉める。
自分でも間抜けだと思った。
もう、ここ以外の壁は、完全に剥がされて中が剥き出しになっているのに。
それでも、「閉める」という行為に縋らずにはいられなかった。
その後ろで、おばあさんが肩を震わせていた。
おじいさんが、その前に腕を広げる。
「わしが、守る……わしが──」
声は震えていないのに、足元はふらついていた。
それでも背筋だけは、真っ直ぐ伸びている。
割れた床板の隙間から、また新しい手が伸びてくる。
そうだ。
これもあるから、ドアを締めても無意味なのだ。
新しい手は、座席の下からも表れた。
スカートの裾を、冷たい風みたいなものが撫でた。
「キャッ……」
おばあさんが声を上げる。
「何か、冷たいものが……私の足首に……」
次の瞬間──おじいさんが、バスの後方から転がってきていた消火器を拾い上げ、その底で伸びてきた手を叩き潰す。
水分を含んだ骨が砕ける、嫌な手応え。
骨の破片と黒い水が、床にぴしゃりと跳ねた。
だが、その隙を狙ったかのように。
窓の外から伸びていた別の腕が、おじいさんの肩を掴んだ。
「ぐっ……!」
「おじいさん!?」
おばあさんが叫ぶ。
おじいさんは、振り返りもせず、彼女に向かって怒鳴った。
「下がってろ! 絶対、座席の上に上がれ! わしのことは──振り向くな……!」
その言葉が終わるより早く。
おじいさんの頭の、上顎から上が、なくなっていた。
ルーン文字の刻まれた手斧が、窓の外から滑り込むように振るわれていたのだ。
ガラス片と一緒に、おじいさんの上半分の頭蓋をさらっていった。
舌だけが、ぴくぴくと動く。
口の中に残っていた言葉が、もう二度と形になれないまま、血と一緒に零れた。
「きゃああああああああああああああ!」
これには、さすがの原田先生も悲鳴を上げた。
床の上を、おじいさんの頭の上半分が転がっていく。
白く濁った眼球が、座席の足にぶつかるたび、ぐり、と変な方向を向く。
すべてを見てきた目が、最後に見ているのは、ただの金属パイプだった。
それでもおじいさんの肉体だけが、おばあさんの肩を掴んで、自分が見えないようにした。
膝も、腕も、もう自分の意思では動かないはずなのに。
筋肉の最後の痙攣が、「庇う」姿勢を崩さない。
「お、おじいさん……!? 一体、何が……?」
おばあさんは気づいてない。
その座席に立ち上がったおばあさんを、おじいさんの上半分の頭についた目が愛おしそうに見つめ、そして光を失っていった──
床板の隙間から伸びていた白い手が、今度は、その「壊れた頭」を下へ引きずり込む。
黒い水の中に落ちた石ころみたいに、すうっと消えた。
◆ ◆ ◆
外では、まだ鈍い音が連続して響いていた。
金属バットの音か。
拳が骨を砕く音か。
竹刀が斧を弾く音か。
野津。
今井。
疋田。
そして──龍雅。
霧の中。
バスの側面を背に、彼らはほとんど壁のようなドラウグルの群れと対峙していた。
今井の竹刀が、野津に襲いかかってきていたドラウグルの斧を弾いた。
「前、見てて! 野津くん!」
「悪い!」
拳を振るう。
顎を砕き、喉を潰し、肩を折る。
それでも動きを止めない屍鬼たちを、握力だけで押し返し続ける。
手首を掴む。
万力みたいに締め上げて、へし折る。
150キロの握力。
皮膚の下で、骨がバラバラに砕ける感触。
ドラウグルの指が、変な角度に折れ曲がる。
それでも、斧を離さない個体もいる。
折れた指でなお柄に食らいつき、手首ごとねじ切られても、腕だけがぶんぶん振られ続ける。
「……ふざけんなよ……」
野津は、歯を食いしばった。
どう考えても、人間側の条件が悪すぎる。
ゲームみたいな理不尽設定で、勝てるわけがない。
――それでも。
バスの中から、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
高木の怒鳴り声。
原田先生の必死の叫び。
守らなければならないものが、あまりにも多すぎる。
「野津くん!」
今井が、背中越しに叫んだ。
「バスの中……もう、ギリギリ……!」
「分かってるっ!」




