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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第231話 ジェノサイド②

第231話


 ハア、ハア、ハア、ハア。


 高木は、空気と霧、そして自分の輪郭が、もう完全に曖昧になってしまっているのを感じていた。


 息が荒い。

 肺の中に入ってくるのは、空気というより「冷たい白い重さ」だ。


 ハア……ハア……ハア……ハア……ハア……ハア……


 喉が、からからに乾く。


(お、俺は、今、何を見せられた……んだ……?)


 思考が、現実からずれていく感覚。

 身体から『重力』だけ抜け落ちたみたいな、ふわふわした感覚。

 夢だ、と言い切れない地獄だけが、確かに目の前にある。


 老夫婦の妻は、さっき床の中へ消えていった夫の名前を、声にならない声で何度も呼んでいる。

 口だけが、ぱくぱくと開閉しているのに、喉は音を出すのを忘れてしまったみたいだ。


 若い母親は、自分の胃の中身を全部吐き出してしまったせいで、もう吐くものがない。

 酸っぱい胃液だけを喉まで上げ、それをまた飲み込んでは、赤ん坊を抱き締め直している。


 原田先生は、手すりに片手をかけ、もう片方の手で壁側の生徒たち──いや、今は「ただの一般人」と化した乗客たちを庇うように広げていた。

 足は震えているのに、その腕だけは、不自然なほど真っ直ぐ前に出されている。


 そこへさらに地獄が放り込まれた。


 外から、さっきまでの床とはまた別種の「重さ」。


 濃い白の壁の向こう──『濃霧』の中から、何かが突然、バスの中へ飛び込んできたのだ。

 剥き出しの側面をくぐり抜けて、座席の背と背の間で跳ね、ぐしゃりと鈍い音を立てて床に転がる。


 それは、肉の塊。


「え……」


 誰かが息を呑む。

 音が、妙に大きく耳に残った。


 それは、見覚えのある制服だった。

 この背丈。この制服の色。肩のライン。


「こ、こいつは……」


 間違いない。宇和島第三の柴田だ。

 あのボクサー崩れ。


 その肉体は、すでに片腕を失っているどころではない。

 顔も原形をとどめていない。


 肋骨が、白い鳥かごみたいに丸出しで見えている。

 腹の肉が、包丁で何度も削がれた肉塊みたいに、層になってめくれ上がっている。


 骨と肉片と海水と砂が、一緒くたに固まった“何か”になっていた。

 床を転がるたび、その混ざり物から、黒い液体がぽたぽたと垂れる。


 それでも──まだ、微かに喉からひゅうひゅうと音が漏れている。


「ア゛ア゛……」


 声にならない声。

 喉の中の何かが、ほとんど砕けているような音。


 柴田の、片方だけ残った眼窩が、ゆっくりとこちらを向いた。

 白目の上を、海水と血が混ざった液が一筋流れる。


「……た、か……ぎ……」


 それが名前なのか、ただの呻きなのかも分からない。

 高木にはそう聞こえただけだ。

 思わずかけよろうとする。

「柴田!」と。その瞬間──


 開いた口の中に、影が落ちた。


 上から、一本の白い手が、すっと差し込まれてくる。

 喉の奥へ、雨どいに落ちたゴミを押し込むみたいな、無造作な角度で。


 指先が、舌根を撫でる。

 次の瞬間には、躊躇なく内側へ潜り込んでいった。


「……っ……ぐ、ぶっ……!」


 柴田の喉が、不自然な形に盛り上がる。

 飲み込む動きとも、咳とも違う。


 何か固いものが、内側から押し広げている。


 白い手の形が、首の皮の下に透けて見えた。

 指が、喉から胸へ、胸からさらに下へと、ずぶずぶ沈んでいく。


 柴田の腹が、じわじわと膨らみ始めた。


 中から風船を膨らませているみたいに、皮膚が引き伸ばされる。

 裂けそうで裂けない、ギリギリのところまで膨張する。


「や、やめ……やめろ……っ……!」


 かろうじて残った声帯が擦れ合い、言葉にならない抗議を吐き出す。

 それでも白い手は、腹の内側を「探る」ようにうごめき続けた。


 ぐにゅり。


 腹の中で、何か柔らかいものがまとめて掴まれた感触が、外から見ているだけで伝わってくる。

 柴田の背中が、弓なりに反り返る。


「ひっ……ひいいいい……!」


 老夫婦のおばあさんが、そこでようやく声を取り戻した。

 だがそれは「悲鳴」というより、擦り切れた風船が空気を漏らす音に近い。


 赤ん坊は、もう泣きすぎて声が掠れている。

 それでも喉を振り絞り、「ここにいる」「ここに生きている」と叫ぶように声を絞り出す。

 母親は、その小さな耳を必死に両手で塞いだ。


 そして──


 白い手が、今度は逆方向に動き出した。


 腹の膨らみが、上へ上へと移動していく。

 胃のあたり。胸のあたり。喉元。


「が、あ、ああああああああ……!」


 柴田の口角が、内側からこじ開けられるように裂けていく。

 顎の関節が、きしり、と嫌な音を立てた。


「見ちゃダメ! 見ないで!」


 原田先生が、反射的に叫び、近くの乗客の頭を自分の胸に抱き寄せる。

 それでも視界の端からは、何もかもが入り込んでくる。


 次の瞬間。


 口の奥から、暗くて重たい“ぐしゃりとした何か”が、ずるるっと引き出されてきた。


 赤と黒と桃色。

 それ以外の色も形も、はっきりとは分からない。


 ただ、熱と湿り気と湯気だけが一気に流れ出してくる。


 白い手は、その塊を掴んだまま、ゆっくりと引き抜いていく。

 柴田の身体から、「中身」が一息に抜けていく。


 みるみるうちに、腹の膨らみが小さくなっていく。

 胸も、肩も、空気の抜けた人形みたいにしぼんでいった。


「……あ……」


 それでも柴田の喉は、最後まで何かを言おうとしていた。

 もう声帯も、肺も、そこにはないはずなのに。


 最後に、白い手が口から抜け出した。


 その指先から、赤黒い液体がぽたぽたと滴り落ちる。

 元は何だったのか、もう判別もできない“肉袋の山”。


 それが、床を濡らしている。

 揺れる車内の微かな振動に合わせて、ぬるぬると形を変えながら、光を鈍く反射していた。


 柴田の身体は、急激に軽くなったように、ぺしゃりと床に崩れた。

 皮と骨だけになったみたいに、薄っぺらい影に見える。


 それから肩から上だけが、少し遅れて落ちてきて、肉体はペラリと裏返る。

 顔だったものが、床に向けてぐしゃりとつぶれた。顎が外れ、歯がばらばらと転がる。


「…………」


 もはや、誰も、声を出せない。


 床板の隙間からは、しばらく細い泡がぷつぷつと浮かび続けた。

 まるで、向こう側でドラウグルたちが「味見」をするみたいに、何度か噛み直しているかのように。


 隣の座席では、三十代の妻が、笑っているのか泣いているのか分からない声を漏らしていた。


「はは……ははは……なにこれ……なにこれぇ……テレビじゃないの……? ねえ、これ、テレビでしょ……?」


 笑い声の形をした嗚咽。

 目は完全に壊れている。


 高木も黙ってそれを見ていることしかできなかった。


 柴田が、さっきまで「味方の一人」だったことを思い出せる人間は、もうほとんどいない。

 いま目に焼き付いているのは──ただの「中身を抜かれて捨てられた肉袋」の姿だけ。


(……守れねえ……)


 高木の中で、同じ言葉が、またひとつ深く沈んだ。


(俺、全然守れてねえ……)


 ──いや、守れるわけないだろ、こんなの……


 若い母親が、再び込み上げてきた吐き気を、喉の奥で必死に押し戻している。

 その腕の中で、赤ん坊は酸欠ぎみの薄い悲鳴を上げ続けていた。


「うわあああああああああああああああ!!」


 そんな中、一人だけ異質な声。


「ファ、ファイヤーボール! ファイヤーボール! ファイヤーボール!」


 サラリーマンだ。

 座席から転げ出てきて、ドラウグルたちへ手のひらを向けている。


 泡を飛ばしながら、出もしない魔法を叫ぶ。

 違う方の手には、さっき床に転がった片手斧。


「来るなあああ!! 来るな来るな来るなァ!!」


 斧を振り回しながら、剥き出しになった側面へ突進していく。

 霧の向こうには、白い目と海藻の髪がぎっしり貼り付いている。


「待て! 今行ったら──!」


 高木の制止なんか、もう耳に届いていない。


 最前列のドラウグル。

 その肩口に、サラリーマンの斧が食い込んだ。


 さくっ。


 妙に軽い音。

 だが──たしかな手応え。


 骨を断つ、嫌な振動が腕を伝う。


 海水と腐った血が混じった液体が、ぶしゅっと吹き出す。

 その液体が、サラリーマンの頬に飛び散る。


 冷たい。

 生き物の体温が一切ない、海底の水みたいな温度。


「や、やった……!」


 サラリーマンの顔が、歓喜で歪む。


「お、俺が……俺が勇者なんだ……!」


 しかし、その瞬間だった。


「俺が、勇者っ………ゃっ!」


 白い手が、彼の胸ぐらを掴んだ。

 別の手が、後頭部を掴む。

 さらにもう一本が、腰のベルトを引く。


 その上から、また別の手が肩を、背中を、太ももを掴む。

 無数の白い手が、サラリーマンを雁字搦めにしていく。


「やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめ……いやだいやだいやだ…………くそっ!…………いやだいやだいやだ…………やってやる……やってやる……あ、いやだいやだいやだ…………いやまだだ! やってやる!!!」


 めちゃくちゃに斧を振り回す手も、数本の白い腕に掴まれた。

 複数のガントレットが軋み合って、ギリギリと音を立てる。


「もごっ…………!?」


 ついには、そのサラリーマンの口の中にまで、白い手は侵入した。

 歯列の隙間を無理やりこじ開け、奥歯の根元を抉りながら。


 喉の奥から、血と泡が逆流する。


 潮の流れが、一方向に獲物を持っていくみたいに。


「ううううううううううううううううううううううううううううううううううっ!!」


 唸りながら振り向いた、その途中で──

 サラリーマンの足が、バスの床から離れた。


「待て! そいつから離れろ!」


 高木は、咄嗟にサラリーマンの腕を掴む。


「おっ……重っ……!」


 だが、まるで巨大な潮流に、ロープの先を引っ張られているみたいに、腕ごとじりじりと滑っていく。


 サラリーマンの顔面が、恐怖と興奮の境界線をごちゃ混ぜにしたような、ぐしゃぐしゃの笑顔になっていた。


「うううううううううううううううううううう!!」


 まるで、


 ──俺は、勇者だ!


 とでも言っているかのような勇ましい顔だった。


 ──この程度で、俺は、負けない!


 そうも言っているように、高木には思えた。


 サラリーマンは、自分の腕を掴んでいる高木の手首を、自ら払った。


 ずるっ。


 手がすっぽ抜ける。


「ッ……!」


 霧が、どっと動く。

 白い手と海藻の髪の塊が、一斉に“向こう側”へ獲物を引きずり込む。


 そして──


 サラリーマンは、あっけないほど簡単に、白の中へ消えていった。

 床には、片手斧だけが、カランと残される。


 その直後──霧が一気に真紅に染まった。


 まるで精肉工場の解体ラインの真ん中にいるみたいな、湿った音が、霧の向こうから届いた。


 骨を砕き。

 肉を割き。

 関節を外し。

 脊椎を一節一節引き抜いていくような、いやな連続音。


 時おり、誰かの笑い声にも聞こえる、変な高音が混ざる。

 ドラウグルたちの喉から漏れる「ごぼごぼ」と、妙に調和していた。


 まるで、壊れた人形を分解して遊んでいる子どもたちの部屋みたいな音だった。


「うわああああああああああああああああああ!」


 高木は、床を拳で叩いた。


(誰か、誰か! 誰でもいいっ! 助けてっ! 助けてくれっ!)



「守る」という言葉は高木の中でひび割れて、もう枯れ果てていた。

 代わりに残ったのは──誰かにすがるしかない、という惨めな本音だけだった。


 高木は呼んだ。


 自分にとってのヒーローの名を。焦がれてきた英雄の名を。


「野津さあああああああああああああああああああああああああん!」


 だが、その声は『濃霧』にかき消される。

 今、外がどうなっているのか。

 高木には想像すらできない。

 野津が無事でいるのか。

 今井先輩は?

 水城工業や、ほかの宇和島第三のヤツらは……!?


 それでも再び吐き出した。思いの丈を!


「野津さあああああああああああああああああああああああああん!」

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