第230話 ジェノサイド①
第230話
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああ!」
夫の死を見た妻の絶叫は、バスの狭い車内でぶつかり合い、開いた側面の向こうも『濃霧』に塞がれているせいで逃げ場もなく、何度も何度も反響していた。
ただの“悲鳴”というより、
この空間そのものが痛みに歪み、きぃ、と軋んでいるような音──。
泣き叫ぶその「軋み」で、車体後方までが震えている。
その一方で、前方では、もっと別の“異音”が静かに始まっていた。
まるで妻の絶叫に呼応するように、
運転席のあたりが、ぬるり、と動いたのだ。
さっきまで運転手の「頭」だったもの。
いまは、メーターに赤黒くこびりついた“なにか”。
その残骸を、フロントガラスの向こうから伸びてきたドラウグルの白い手が、ゆっくりとつかんだ。
そこからは一瞬だった。
ズルズルズルズル……!
まるで誰かが麺をすすったかのような、異様に粘っこい速度で、運転手の上半身が、割れたフロントガラスの外へと引きずり出される。
残されたのは──
メーターの隙間から、とろりとこぼれ落ちる、打ち損ねた眼球の残り。
ハンドルに貼り付いた皮膚と骨の欠片。
それらも、引き潮に呑まれるような不自然な動きで、じわじわとガラスの上を転がり、外へ滑り落ちていった。
割れ口の縁には、肉の繊維が蜘蛛の巣のように張り付いている。
それが引っ張られるたびに、びん、と細い腱が弦みたいに震えた。
その「糸」も、じきに見えなくなる。
外側から押し寄せた『濃霧』に覆われ、そこはただの白に塗りつぶされた。
人間が、人間であった証拠だけを、外界の白が無造作に飲み込んでいく──。
バスの中に、さらに「死んだ空気」が増えた。
だが、それに目を取られている暇はない。
開いた側面から、白濁した目の女たちが、何人も集まってこちらを覗き込んでいた。
海藻の髪。
海水の涙。
片手斧。
水色に光るルーン文字。
それらがひとつひとつ、ゆっくりと脈を打つたびに──
車内の温度が、霊安室みたいにスッと下がっていく。
「あ……ああ……ああああ……」
若い母親は、赤ん坊を抱きしめたまま固まっていた。
肩が、細かく震えている。
「ぎゃあああああああああああ、ぎゃああああああああああああああ!」
赤ん坊の泣き声が、さらに強さを増す。
肺が小さいぶん、音だけが異様に鋭く、空気を針の束みたいに刺し貫いてくる。
(生き残りたい! 生き残りたい!)
喉の構造も知らないくせに、そんな言葉が、確かに混ざっているように聞こえた。
老夫婦のおばあさんは、運転手の末路を見て口を押さえている。
おじいさんは、敢えて彼女の前に立った。自分が壁になるように。
「見るな……そして、わしの後ろから出るな……」
声だけは、震えていなかった。
その勇気がどこから来るのか、高木には分からない。
──これが、長く生きてきた男と、高校一年生の差なのか。
(守るって、こういうことなのか……)
教えられた気がした。
だが、その高木自身は、パニックと、バスの片側が「消えた」感覚のせいで、もうどこが前でどこが後ろかすら分からないでいる。
霧が、すべての輪郭を曖昧にしていた。
その中で、もっともしっかりしていたのは、やはり原田先生だった。
「みんなっ、残ってる壁側の方に寄って!」
原田先生が、生徒に向かって声をかけるときと同じ調子で叫ぶ。
かすれた喉。それでも教師としての声量だけは、ぎりぎりまで絞り出している。
その声に押されるように、乗客たちは、残った座席側へ雪崩れ込んだ。
バスがギッと片側へと軋む。天井の荷物棚が揺れ、どこかのリュックサックがどさりと落ちる。
だが──それより早く、「床」から生えるものがあった。
割れた床板の隙間。
座席の下。
通路のスキマ。
そこから、白い手がにょきにょきと伸びてきたのだ。
──ドラウグルの腕!?
まるで、地面から逆さに生えた木の根っこみたいに。
「くそっ……!」
高木は、転がっていたゴブリンの手斧を拾った。
柄には、誰かの歯形がいくつも残っている。
それをそのまま握りしめ、床下から伸びてきた手首を、全力で叩き斬る。
骨と、ぶよぶよになった筋肉。
さらに、海水を含んだ皮膚が、まとめて割れる感触がした。
水っぽい黒い血が、床板の隙間からぶしゅっと噴き出す。
(やべえ……気味が悪い……。こんなもんが、本当に生きてんのか?)
切り落とされた手が、電気が抜けきらない蛙みたいにぴくぴく痙攣しながら、床を這っていた。
指先が、まだ何かを掴もうとしている。
「きゃあああああっ!」
それを見てしまった若い母親が、悲鳴を上げた。
視線の先、赤ん坊の足元すぐ近くを、その“手”が、ゆっくり這っている。
「うわああああああああああああ!」
高木は、座席から半身を乗り出して、その手を蹴り飛ばそうとする。
だが、靴裏をすり抜けるように、断ち切られた手はずるりと横へ滑り、座席の下へ消えた。
「足、上げてください! 絶対、床に足つけないで!」
高木は叫びながら、原田先生と、その背後の母親と赤ん坊をかばうように立つ。
(お、俺だって……あの、おじいさんのように……!)
斧を構え直し、床を見回す。
──どこから、またあの手が這い出してくるか。
下へ集中していた、その時だ。
バス中央の、未だ血で濡れた床板が、ずぶ、と沈んだ気がした。
「────!?」
目をやると、床の木目の隙間から、海水と赤黒い血が混ざった液体が、じわりと染み出してくる。
床下から、何かが「満ちてくる」音がした。
ゴボ……ゴボ……ゴボ……。
「な、なんだよ、これ……!」
高木の喉から、かすれ声が漏れる。
そのとき、さっき座席の下へ消えた千切れた手首が、別の場所からかさかさと這い出してきた。
高木は反射的に踵を振り下ろし、何度も何度も踏み潰す。
骨とも貝殻ともつかない硬いものが、靴底の下でべきりと砕けた。
そんなことをしている間に、床の一部が“内側から”膨れてきた。
ぷくり、と肉の水風船みたいに。
パンッ!
それが破裂した。
中から白い腕が三本、まとまって飛び出した。
「……は?」
高木以外、誰も声を出せない。
すぐに、そのうち二本が、近くに倒れていた三十代の夫の死体の足首を掴んだ。
残り一本が、膝裏に指を差し込む。
その時だった。
「痛い痛い痛い痛いっ!!」
──声!?
さっき斧を胸に受けて沈黙していたはずの夫。
致命傷だったはずだ。
だが、その夫が突然、肋骨は剥き出しのまま、目を見開いて叫び始めた。
まだ、生きていたのだ。
気を失っていただけ──。
「タカノリくん!」
妻の声が、反射的に明るくなる。
希望というより、現実逃避に近い高ぶり方で。
だが、生きていない方が良かった。
死んでいた方が、まだ優しかった。
無理やり引き上げられた夫は、運転席の手すり棒に縋りつく。
だが、身体が逆さに持ち上がる。
そして──
ひざ下の骨が、内側からひしゃげるような角度で曲がった。
ぶちっ。
膝の靭帯が、一斉に切れた音がした。
「ぎゃああああああああっ!!」
男の悲鳴が、一段階高くなる。
あまりに残酷すぎた。
おそらく、あのまま安らかな死を迎えられたはずだ。
勇気を見せた。そして殺された。
もう十分すぎるほど、彼は頑張った。
それが、痛みで再び息を吹き返し。
さらに、再び死の恐怖を味わおうとしている。
(見ちゃいられねえ……!)
「タカノリくうううううううううううううううううううん!」
妻の悲鳴が、耳を裂く。
その叫びと同時に──
床下の白い腕が、彼を一気に下へ引いた。
ズボッ。
男の下半身が、床板の隙間にめり込んだ。
(そ、そこは床だぞ……!?)
あり得ない。
だが実際に、腰のあたりまで飲み込まれている。
まるで床が、水面のようにぼこぼこと波打っていた。
「タカノリくうううううううううううううううううううん!」
「なんだ、これ、なんだこれ!」
「ばあさん、見るな!」
「きゃああああああああああああああああ!」
「た、助け──!」
上半身だけ残った男が、空を掴む。
その手が伸ばされた先は、やはり妻だった。
だが、背骨が、ありえない角度でしなりながら、さらに引きずり込まれていく。
「あ……あ……」
腕を伸ばしかけた妻。
だが──
次の瞬間、腰から上ごと、彼は、床の中へ“落ちていった”。
残ったのは、床板の隙間から溢れ出した血と、
座席の金属フレームにひっかかった、片方のスニーカーだけ。
それを見ていた妻が、理解の速度を超えた光景に、声を失う。
口は開いているのに、悲鳴すら出ない。
バスの中は、もう「避難場所」ではなかった。
物理法則すら信用できない、“沈む床の棺”だ。




