第229話 守りの壁、ひとひら
第229話
ついさっきまで『箱』に守られていた空間が、突然、そのまま“世界の底”へと剥き出しにされた。
守られた場所と外界の境界が、一瞬で入れ替わった。
開いた側面。
そこから、白濁した目の女たちが何人も覗き込んでいる。
海藻の髪。
水膨れした皮膚。
胸と腰のビキニアーマーのルーンが、水色に脈打つたびに、車内の空気が一瞬だけ冷たくなる。
霊安室の冷房みたいな、不自然な冷え方。
「あ……ああ……ああああ……」
若い母親は、赤ん坊を抱きしめたまま固まった。
頬が震えている。
赤ん坊の泣き声は、もはや悲鳴の形をした衝撃音だった。
肺が小さいぶん、鋭さだけが際立つ。
(生き残りたい、生き残りたい、生き残りたい……)
そう叫んでいるように聞こえた。
乳児の喉が出せる音じゃない何かが、そこに混ざっている気がした。
老夫婦のおばあさんは、口を押さえた。
指の間から吐息が漏れる。
おじいさんは一歩前に出た。
彼女の前に立つ。
壁になる。
「下がってろ……」
声は震えていない。
「わしの後ろから出るな……」
足はふらついている。
膝は抜けかけている。
それでも背筋だけは、若い頃の記憶に支えられたように、真っ直ぐ伸びていた。
高木は、その背中を見て、悔しいと思った。
自分は、通路の真ん中でただ立ち尽くしているだけだ。
(守りきれねえ……どころじゃねえ。これ、守るとかいうレベルじゃねえ……)
霧が、車内の輪郭を全部曖昧にする。
前後も、左右も無くなる。
どこから来て、どこから殺されるのか、もう分からない。
「みんなっ、前に! 運転席の方に寄って!」
原田先生が、かすれ声で叫んだ。
喉が潰れそうな声。
それでも、指示を出す。
教師の執念だけが動いている。
だが──運転席も、安全とは言えなかった。
フロントガラスにも、いつの間にかヒビが入っている。
そこに、白い手が何本も貼り付いていた。
指の腹にこびりついた貝殻が、ガラスを、ぎり……ぎり……と削り取っていた。
爪は黒く、先端が割れていて、割れたところから泥水が垂れていた。
「……ここは……」
まさに、今さらだった。
こんな時に……? と誰もが思った。
気絶していた運転手が、まるで悪夢の続きを見るかのように、ゆっくり目を開けた。
眠そうな目を開けて前を見る。
するとそこには、視界いっぱいのヒビと、白い手と、その向こうの白い顔。
現実が、最悪のタイミングで立ち上がってきた。
「ひっ、ひいいいいいいいっ!」
ガン。
外から、平手打ち一発。
運転手の声を打ち消す。
フロントガラスが揺れる。
ヒビがさらに広がる。
蜘蛛の巣の中心が、じわじわと膨張していく。
「あ、ありえない……っ」
運転手の喉が鳴った。
シートベルトに体を縛り付けられていて、逃げ場はない。
ハンドルに指が食い込む。
足元は震えっぱなしだ。
「ありえない……! こんな、物理的にこんな割れ方、するわけがないっ……!」
その後、突如言い始める。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
意味のない謝罪が、反射で口から漏れた。
思考ではなく、反射だけが生き残っていた。
誰に謝っているのか、自分でも分かっていない。
ただ、「ごめんなさい」と言えば何かが許されると信じていた昔のクセだけが蘇っている。
そして、その謝罪は完全に無駄に終わった。
分かっていたことだから、必然とも言えた。
バリィィィィンッ!!
割れにくいはずの安全ガラスが、物理法則ごと捻じ切られたように破砕した。
フロントガラスが、内側へと吹き飛ぶ。
無数のガラス片が、雨みたいに降り注ぐ。
冷たい霧が、一気に運転席に雪崩れ込む。
霧の塊から、白い女の上半身が、半分だけするりと滑り込んでくる。
白濁した目が、まっすぐ運転手を見ていた。
瞳孔はないのに、それだけははっきり分かる。
「や、やめ……!」
ネクタイを掴まれた。
細い手。
だけど、鉄のクランプみたいな締め付け。
喉が潰れる。
声が潰れる。
空気が入らない。
その頭が、ぐい、と前に引きずられた。
ドガッ。
勢いよく。
とんでもない力で。
ハンドルに、顔面から叩きつけられた。
額の骨が割れる鈍い音。
血が、メーター類に飛び散る。
タコメーターの針に、赤黒いなにかが絡みつく。
二回。
三回。
四回。
ぐしゃ。
ぐしゃ。
ぐちゃ。
あらゆる“人間の形”が、その衝突ごとにひとつずつ失われていく。
顔が、もう顔ではないものに変わっていった。
鼻がどこにあったのか分からない。
頬骨が潰れ、眼球がガラス片と一緒にメーターの隙間へ押し込まれていく。
舌が、歯の隙間からはみ出したまま動かなくなる。
おじいさんとおばあさんは、その光景を「横から」見ていた。
人が、物に変わる瞬間を。
人間の頭が、「何かを叩きつけるための柔らかい物体」に変えられていく瞬間を。
「やめて! やめてあげて!」
おばあさんが叫ぶ。
声が涙で割れる。
おじいさんは、彼女を抱き寄せる。
運転手の体が、ぐったりと力を失った。
それでも、白い手はネクタイを離さない。
壊れたおもちゃを、まだ振り回したい子どもみたいに。
そのときだった。
乗客の一人が、運転席へ向かって駆け出した。
三十代の夫だ。
さっきまで妻を抱きしめていた男。
今は、恐怖を突き抜けて「決意だけが残った目」になっていた。
「うわあああああああああああああああああああ!!」
その右手には、ゴブリンの片手斧。
以前の戦いで落ちたものだ。
まだ血と体液がこびりついている。
柄には、小さな歯形がいくつも残っていた。
誰かが必死に奪い合った痕だ。
(そうだ、武器!)
高木は思い出した。
(ゴブリンの手斧! そうだ! 武器はある! まだ戦える!)
ほんの一瞬、高木の胸に希望みたいなものが灯る。
だが。
その灯りが消えるまで、本当に一瞬だった。
──ザシュッ!
湿った音がした。
コトン、ココン、コン、コン……
一方こちら側では、乾いた金属音だけが、車内に場違いなほど澄んで響いた。
そしてさきほどの切り裂き音は、
──鉄と骨と肉を同時に断ったときにしか出ない音。
「……は?」
男が、自分の胸を見下ろした。
スーツのボタンの間。
シャツの布地の裂け目。
その裂け目から、乾いた白が覗いた。
肋骨――人が、外に見せるはずのない「白」
「え……?」
男は何が起こったか分からない。
妻の方も背中からは何も見えない。
だが前から見たら一目瞭然だった。
そこから先は、もう、現実のほうが早かった。
男の体前方の皮膚も脂肪も筋肉も。
ドラウグルの斧により。
すべて。
剥ぎ取られていた。
肋骨と内臓が剥き出しになっている。
内臓がどぼどぼと音を立ててこぼれ落ち始める。
さっきまで「箱」に守られていたはずの空間が、突然、海風に晒された。
霧の白さが、一気になだれ込む。
その霧の白が、彼女の夫の赤い血をさらに際立たせてしまった。
「いやあああああああああっ!!」
三十代の妻が、喉を裂くような悲鳴を上げた。
──その声は、もう夫には届かない。
届く相手がどこにもいないまま、ただ霧の中へちぎれて消えていった。




