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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第228話 バスの皮膚が剥がれる音

第228話


 鉄が擦れ合う、細い悲鳴のような音。

 まるで冷たいナイフで、耳の奥をゆっくり削られているようだった。

 音なのに“触覚”の痛みが伴う。


(……な、な、なんだ、今の……?)


 霧が、窓の外でざわざわ揺れる。

 バスの外壁が、外側から「押されている」ように、少しへこんだ。

 金属の表面が波打つ。

 車体全体が、生き物の肺のように、ゆっくり膨らんで縮んだ。


 原田先生も、若い夫婦も、老夫婦も、母親も。

 サラリーマン以外の全員が、窓の外を固唾を飲んで見つめる。


 そして。


 その次に起こったことを、高木は一生忘れない。


 霧の向こうで、鉄そのものが、声を持ったみたいに悲鳴を上げた。


 ギギギギギィィィィ……。


 長い。


 耳の奥を、金属ブラシでガリガリ削られているみたいな音。


 神経が直に削られる。

 目の奥まで痛い。


「……そ、そんな、うそだ……!」


 思わず口から漏れた。


 それと同時に、高木は見た。


 窓ガラスの向こう。


 白い霧を押し分けて、たくさんの手が張り付いていた。


 白すぎる手。

 生きた温度が一滴も残っていない色だった。


 指が長い。

 関節が一本多い。


 水にふやけた皮膚。

 そこかしこに、小さなフジツボと貝殻の塊が食い込んでいる。


 節と節の間から、黒い泥と海藻の繊維が滲み出ている。

 ゆっくり垂れて、ひび割れたガラスをぬらしていた。


 その手が、窓枠に。

 サイドミラーに。

 タイヤハウスに。

 バスの側面の、あらゆる出っ張りに食い込んでいる。


 十。


 二十。


 三十。


 数えるのをやめた。


 見ているだけで、頭の中の数字が崩れていく。


 数字が意味を失う。


 窓の外では、女の体がぶら下がっていた。


 ドラウグルたちだ。


 身長は、みんな同じくらい。

 百七十センチ前後。


 日本人の女子より、一回り大きい。


 なのに、体は細い。


 余計な筋肉がどこにもない。

 モデルみたいな線の細さ。


 ただ、細い腹と太ももの内側だけが、不自然に膨らんでいた。

 海水と腐った血が詰まった「水袋」のように。


 濃い青緑の長髪。


 海藻をそのまま頭皮に縫いつけたみたいな髪が、ぬめりながら垂れていた。


 風もないのに、髪だけが「呼吸するように」うねる。

 まるで、ひとつの心臓で動いているみたいに。


 胸と腰には、錆びた金属のビキニアーマー。


 三角形の金属カップには、北欧風のルーンが刻まれている。

 その刻印部分から、淡い水色の光がじわりと漏れていた。


 海の底でだけ点灯する、禁止の信号みたいに。


 腰には、革と金属の簡素な腰当て。

 ミニスカートみたいに短く、太ももの大半が露出している。


 露出した肌は、水死体の色だ。


 青白く、ところどころ青緑の斑点。

 薄い海水の膜が、ずっと張り付いているせいで、蛍光灯の光をぬるく跳ね返していた。


 腕には、簡易ガントレット。


 革と金属のバンドに、海藻が絡みついている。

 指先には、黒い爪。


 爪の隙間から、細い泡がぷつぷつと浮いては消えていく。


 足は裸足だった。


 足裏が、濡れたアスファルトにべちゃり、と静かに吸い付いている。

 動くたびに、水たまりを踏むような音だけがする。


 なのに、足首の角度がおかしい。


 立っているのに、重心がどこにもない。

「ここには本当はいないもの」が、地面を真似しているだけみたいな姿勢。


 目は、完全に白濁していた。


 瞳孔も虹彩も溶けてしまったみたいに、真っ白。

 それなのに、その「穴のない視線」は、確実にバスの内部を舐めていた。


 頬には、乾かない涙の筋。


 透明な液体が、ずっと流れ続けている。

 途中で塩の結晶が固まり、その上からまた水が流れていく。


 泣いていない顔。


 口角は上がっても下がってもいない。

 ただ、目の横だけが、永遠に濡れていた。


 喉の奥から、「ごぼ、ごぼ……」と、泡の潰れる音が漏れている。


 海の底で誰かが喋ろうとして、水だけ飲み込んでしまったみたいな音。


 右手には、片手斧。


 三日月型の刃。

 あちこち欠けていて、その欠け目から、白い海霧みたいなものがしゅうっと漏れ出している。


 柄は黒ずんだ流木。

 指が、めり込むくらい強く握られている。


 爪の間には、黒い泥と、短い海藻が詰まっていた。


 斧の刃にも、ルーン文字が刻まれていた。


 水色の光が、刃の輪郭をぬめらせている。

 見ているだけで、頭が冷えていく。


 さっきまで熱かったはずの恐怖が、別の温度に変わる。


 ドラウグルたちは、同時にしゃがんだ。


 ひざの動きは、人間らしい。

 けれど、膝から下の角度だけが、微妙におかしい。


 関節が一つ多いみたいに、変なところでひしゃげる。


 海藻の髪が、一斉に揺れた。


 そして──一斉に、引いた。


 ギギギギギギギギギギギギ――ッ!!


 バスの側面が、歪む。


 鉄板が、粘土のようにぐにゃりとねじれ、金属としての限界を越えていった。

 本来の材質が“ありえない形”に曲がる瞬間を見せつけられている。 


 窓ガラスにヒビが入る。


 ひとつ。

 ふたつ。


 クモの巣が一瞬で広がるみたいに、それらが連結していく。


「う、嘘だろ……」


 高木の口から、勝手に言葉がこぼれた。


 細い腕。

 女の体。


 ひとりひとりは、どう見ても重量物を持ち上げられるようには見えない。

 けれど──何十というその力が、一方向へ束ねられたら。

 人間の想像力なんて、簡単に踏み潰される。


 ピキッ。


 壁に一本、ヒビが走る。


 筋肉の断裂みたいな音がして──


 ガバァアアアアアアアアアッ!!


 バスの左側の外壁が、悲鳴の余熱を残したまま、()()()()()()()()


 鉄板が、ちぎれた皮膚みたいにめくれ、車体の外にぶら下がる。


 霧が一気に雪崩れ込んでくる。


 海風と、死臭と、血の匂いが混じった空気が、肺の中にまで押し寄せた。


 一瞬。


 本当に一瞬だけ。


 誰も悲鳴を上げられなかった。


 現実のほうが速すぎて、声帯が追いつかなかった。


 恐怖は、声よりも先に身体を奪った。


 それから。


「きゃああああああああああ!!」

「いやあああああっ!!」


 バスの中は、完全なパニックになった。


 座席。

 通路。

 人。


 全部が、剥き出しになっていた。

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