第227話 棺桶の中のざわめき
第227話
あのサラリーマンは、窓側の座席で体育座りのまま、爪を噛み続けていた。
噛みすぎて、親指の先から細い血が垂れている。
それでも構わず、その血まみれの爪を、歯でバリバリとかじり続ける。
「お前らは知らないんだよ……」
上ずった声。
「ドラウグルってのはな……ゲームだと“高耐久・超火力・状態異常攻撃持ち”で──」
「ちょ、ちょっと!」
反射的に、高木の口から声が飛び出した。
「みんな不安なんだから、不安になるようなこと言わないでくださいよ!」
けれどサラリーマンは、顔を上げもしない。
膝に額を押し付けたまま、早口を加速させた。
「違うんだよ! 知らないから呑気でいられるんだよ!」
思わず原田先生も一瞬、ひるんだ。
「知らないってのは“無敵状態”だ! 俺は違う! 知ってる! ドラウグルはな、動きがおかしいんだよ、人間じゃねえ動きなんだよ、腐食攻撃もあるしよ、出血無効だしよ──! 初見殺し。高耐久。リジェネ。即死攻撃。範囲攻撃。氷属性。毒。呪い。物理反射。俺は全部見てきた。何回も何回もパーティ全滅させられてきたんだよ! 宝の守護者だ。宝を守るためだったら、どんな手でも使ってくる。北欧神話でも最凶クラス。死者の王の配下だ。あれは、マジで詰んでるモンスターなんだよ……!!」
その言葉は、説明というより呪いだった。
聞いた瞬間に、胸の奥へ冷たい針が一本ずつ刺さっていくようだった。
母親は赤ん坊を胸に押し付ける。
赤ん坊の泣き声が、さらに一段高くなる。
「やめろ」と言えない代わりに、泣き声で抗議しているみたいに。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアン! アアアアアアアアアアアン!!!!」
「あなたねぇ!」
とうとう原田先生が声を荒げた。
「外で子どもたちが命がけで戦ってるのよ! 少しは気を使いなさい!」
「気なんか使ってる場合じゃない!」
サラリーマンの声が裏返る。
「終わりなんだよ! 俺たちは全部終わりなんだよ!!」
「お前なあ……!」
高木の頭が真っ白になった。
次の瞬間には、サラリーマンの胸ぐらを掴んでいた。
ワイシャツの襟が、ぐしゃりと握り潰される。
手の中で、相手の喉の鼓動が跳ねていた。
サラリーマンは一瞬だけ、目を見開いた。
その目の白目だけがやたらと大きく見えて、血走った線がクモの巣みたいに広がっている。
だが、それもすぐ崩れた。
口元がゆるみ、笑ったのか泣いたのかわからない顔になった。
「知らねえってことは、幸せなんだよ」
かすれ声。
「もう終わりだよ。お前もな」
今度は泣きそうな声だ。
「ガキどもが、あんな化け物相手になんとかなるわけねえだろ……」
高木は思わず、掴んだ胸ぐらの力を弱める。
「でも俺は違う。俺はあいつらを知ってる。攻略法も、無理ゲー具合も、全部知ってる」
ダメだ、と高木は思った。
「だから俺は生き残る。絶対、生き残ってみせる──!」
その声には“自分だけ”という響きしか残っていなかった。
──こいつ、もう頭が……
高木の握力が、逆に抜けた。
諦めるように、手を離す。
(壊れてる……)
そう思うしかなかった。
現実から逃げたのか。
現実をゲームに寄せたのか。
どっちにしても、もう会話の相手じゃない。
別の座席では、三十代くらいの夫婦が互いに抱き合っていた。
妻は何かをぶつぶつと呟き続けている。
「ごめんなさい」と「こわい」と「死にたくない」が、ぐちゃぐちゃに混ざった音。
夫は、「大丈夫だよ」「ここにいるから」「俺も愛してるよ」と、ひたすら繰り返していた。
それがいつまで続く約束なのか、自分でも分かっていない顔で……
一方で、運転席で気絶している運転手は、まだ目を覚まさない。
ハンドルに突っ伏したまま、口だけ半開きだ。
もしこの男が起きて、エンジンをかけてくれたら。
ここから逃げられる。
──そんな妄想が、まだどこかに残っている。
なんだか腹が立ってきた。
この男さえしっかりしていれば、こんな状況には……!
(起こす!)
高木は足を踏み鳴らすように苛立って運転席へと向かった。
床はまだ濡れている。
ゴブリンの血と、海水と、誰かの吐瀉物。
靴底がぬるりと滑る。
ハンドルの後ろまでたどり着き、運転手の肩に手を伸ばした。
だが、その手が届くか届かないかの距離で、手を止めてしまった。
コンッ。
……カン。
カン。
カン。
突如、金属を指の骨で軽く叩くような、乾いた音がしたのだ。
(……バスのどこかが、外側から触られている?)
この異変は一気にバス中に広がった。
車内が、一斉に静まり返る。
ただただ、赤ん坊だけが泣き続けている。
「アアアアアアアアアアアアアン! ウワアアアアアアアアアアアアン!」
そして。
ガリガリガリガリ……
サラリーマンの爪を噛む音が、やけに耳についた。
「終わりだ、終わりだ、終わりだ、終わりだ、終わりだ、終わりだ、終わりだ、終わりだ、終わりだ……」
小声の連打。
壊れたテープレコーダーみたいに、同じ単語を繰り返している。
だが、今はそれどころではないだろう。
外側。
バスの鉄皮。
高木は最悪の想像をしていた。
──何かがそこに“いる”。
ココッ。
カカン。
カン。
コ。
カン……
リズムがあるようで、ない。
規則性がないのに、なぜか脳が「何かのパターン」を読み取ろうとしてしまう。
意味を探してしまう。
その行為自体が、すでに罠みたいに思えた。
(いや、でも……野津センパイが……)
喉が焼けるように乾く。
唾を飲み込む音が、自分で聞こえた。
胸が痛い。
心臓の音が、頭の中で銅鑼を叩いたみたいに響き続ける。
ドン。ドン。ドン。
そのたび、視界の端が少し暗くなる。
一気にブラックアウトしそうになる。
高木も限界に近づいているのだ。
この箱の中は、
もう、地獄だ──
いやいや、と首を振った。
(俺が守るんだろ……? ここで、崩れたら、どうすんだ)
そう思い直す。だが、すぐくじけそうになる。
外で、何かが軋んだからだ。
ギ……
ギギ……
ギギギギギ……




