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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第227話 棺桶の中のざわめき

第227話


 あのサラリーマンは、窓側の座席で体育座りのまま、爪を噛み続けていた。

 噛みすぎて、親指の先から細い血が垂れている。 

 それでも構わず、その血まみれの爪を、歯でバリバリとかじり続ける。


「お前らは知らないんだよ……」


 上ずった声。


「ドラウグルってのはな……ゲームだと“高耐久・超火力・状態異常攻撃持ち”で──」

「ちょ、ちょっと!」


 反射的に、高木の口から声が飛び出した。


「みんな不安なんだから、不安になるようなこと言わないでくださいよ!」


 けれどサラリーマンは、顔を上げもしない。

 膝に額を押し付けたまま、早口を加速させた。


「違うんだよ! 知らないから呑気でいられるんだよ!」


 思わず原田先生も一瞬、ひるんだ。


「知らないってのは“無敵状態”だ! 俺は違う! 知ってる! ドラウグルはな、動きがおかしいんだよ、人間じゃねえ動きなんだよ、腐食攻撃もあるしよ、出血無効だしよ──! 初見殺し。高耐久。リジェネ。即死攻撃。範囲攻撃。氷属性。毒。呪い。物理反射。俺は全部見てきた。何回も何回もパーティ全滅させられてきたんだよ! 宝の守護者だ。宝を守るためだったら、どんな手でも使ってくる。北欧神話でも最凶クラス。死者の王の配下だ。あれは、マジで詰んでるモンスターなんだよ……!!」


 その言葉は、説明というより呪いだった。

 聞いた瞬間に、胸の奥へ冷たい針が一本ずつ刺さっていくようだった。


 母親は赤ん坊を胸に押し付ける。

 赤ん坊の泣き声が、さらに一段高くなる。

「やめろ」と言えない代わりに、泣き声で抗議しているみたいに。


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアン! アアアアアアアアアアアン!!!!」

「あなたねぇ!」


 とうとう原田先生が声を荒げた。


「外で子どもたちが命がけで戦ってるのよ! 少しは気を使いなさい!」

「気なんか使ってる場合じゃない!」


 サラリーマンの声が裏返る。


「終わりなんだよ! 俺たちは全部終わりなんだよ!!」

「お前なあ……!」


 高木の頭が真っ白になった。

 次の瞬間には、サラリーマンの胸ぐらを掴んでいた。

 ワイシャツの襟が、ぐしゃりと握り潰される。


 手の中で、相手の喉の鼓動が跳ねていた。

 サラリーマンは一瞬だけ、目を見開いた。

 その目の白目だけがやたらと大きく見えて、血走った線がクモの巣みたいに広がっている。

 だが、それもすぐ崩れた。

 口元がゆるみ、笑ったのか泣いたのかわからない顔になった。


「知らねえってことは、幸せなんだよ」


 かすれ声。


「もう終わりだよ。お前もな」


 今度は泣きそうな声だ。


「ガキどもが、あんな化け物相手になんとかなるわけねえだろ……」


 高木は思わず、掴んだ胸ぐらの力を弱める。


「でも俺は違う。俺はあいつらを知ってる。攻略法も、無理ゲー具合も、全部知ってる」


 ダメだ、と高木は思った。


「だから俺は生き残る。絶対、生き残ってみせる──!」


 その声には“自分だけ”という響きしか残っていなかった。


 ──こいつ、もう頭が……


 高木の握力が、逆に抜けた。

 諦めるように、手を離す。


(壊れてる……)


 そう思うしかなかった。


 現実から逃げたのか。

 現実をゲームに寄せたのか。

 どっちにしても、もう会話の相手じゃない。


 別の座席では、三十代くらいの夫婦が互いに抱き合っていた。

 妻は何かをぶつぶつと呟き続けている。


「ごめんなさい」と「こわい」と「死にたくない」が、ぐちゃぐちゃに混ざった音。

 夫は、「大丈夫だよ」「ここにいるから」「俺も愛してるよ」と、ひたすら繰り返していた。

 それがいつまで続く約束なのか、自分でも分かっていない顔で……


 一方で、運転席で気絶している運転手は、まだ目を覚まさない。

 ハンドルに突っ伏したまま、口だけ半開きだ。

 もしこの男が起きて、エンジンをかけてくれたら。

 ここから逃げられる。


 ──そんな妄想が、まだどこかに残っている。


 なんだか腹が立ってきた。

 この男さえしっかりしていれば、こんな状況には……!


(起こす!)


 高木は足を踏み鳴らすように苛立って運転席へと向かった。

 床はまだ濡れている。

 ゴブリンの血と、海水と、誰かの吐瀉物。

 靴底がぬるりと滑る。

 ハンドルの後ろまでたどり着き、運転手の肩に手を伸ばした。


 だが、その手が届くか届かないかの距離で、手を止めてしまった。


 コンッ。


 ……カン。


 カン。


 カン。


 突如、金属を指の骨で軽く叩くような、乾いた音がしたのだ。


(……バスのどこかが、外側から触られている?)


 この異変は一気にバス中に広がった。

 車内が、一斉に静まり返る。


 ただただ、赤ん坊だけが泣き続けている。


「アアアアアアアアアアアアアン! ウワアアアアアアアアアアアアン!」


 そして。


 ガリガリガリガリ……


 サラリーマンの爪を噛む音が、やけに耳についた。


「終わりだ、終わりだ、終わりだ、終わりだ、終わりだ、終わりだ、終わりだ、終わりだ、終わりだ……」


 小声の連打。


 壊れたテープレコーダーみたいに、同じ単語を繰り返している。


 だが、今はそれどころではないだろう。

 外側。

 バスの鉄皮。


 高木は最悪の想像をしていた。


 ──何かがそこに“いる”。


 ココッ。

 カカン。

 カン。

 コ。

 カン……


 リズムがあるようで、ない。


 規則性がないのに、なぜか脳が「何かのパターン」を読み取ろうとしてしまう。


 意味を探してしまう。


 その行為自体が、すでに罠みたいに思えた。


(いや、でも……野津センパイが……)


 喉が焼けるように乾く。

 唾を飲み込む音が、自分で聞こえた。

 胸が痛い。

 心臓の音が、頭の中で銅鑼を叩いたみたいに響き続ける。


 ドン。ドン。ドン。


 そのたび、視界の端が少し暗くなる。

 一気にブラックアウトしそうになる。

 高木も限界に近づいているのだ。

 この箱の中は、

 もう、地獄だ──


 いやいや、と首を振った。


(俺が守るんだろ……? ここで、崩れたら、どうすんだ)


 そう思い直す。だが、すぐくじけそうになる。

 外で、何かが軋んだからだ。


 ギ……


 ギギ……


 ギギギギギ……

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