第226話 路線バス──眠る棺桶
第226話
──バスの中は、俺が護る。
そう決めた。
それからずっと、高木の肩には力が入りっぱなしだった。
野津俊博に、正面から言われたのだ。
『お前が守れ』
その一言が、ずっと耳の奥で鳴り続けている。
でも。
「うぎゃああああああああ!!」
バスの外から、自分と同じ年頃の少年の悲鳴が裂けた。
引きちぎられたゴムみたいな声だった。途中で、ぶつっと切れる。
声帯ごと、どこかで千切れたみたいに──
(……今の、水城工業の櫻井の声じゃ……)
高木の心臓が、キュッと縮んだ。
喉の奥も縮んで、息が入ってこない。
その直後。
「櫻井ぃぃぃぃイイぃぃ!!」
今度はハッキリ分かる。
芦原空手の暴れ牛、小野山の声だ。
肺の全部を絞り出すような叫び。
間違いない! 水城工業だ!
あの小野山の舎弟・櫻井がやられたんだ……
そのとき、車体の鉄板が、わずかに震えた気がした。
(外、どうなってんだよ……)
想像したくない。
でも、想像してしまう。
霧の中で、腕が飛んで。
足が曲がってはいけない方向に曲がって。
血が霧に混じって、ピンク色になる光景を。
高木の心臓は、さっきからずっと胸を裏側から殴っている。
ドンドンと、内側から殴っている。
骨が割れそうなほど。
「……高木くん」
肩に、柔らかいものが触れた。
保健教師の原田由香里が、そっと体を寄せてきていた。
白衣は血と泥で汚れているのに、なぜかまだ「先生」にしか見えない。
さすが原田先生だ。
学園内でも人気がある、「教師らしい教師」。
高木にとっても、自覚してしまうほどの「大人の女性」だ。
「大丈夫……」
そんな原田先生の声も、この瞬間ばかりは、かすれていた。
「もう、あの子たちを信じるしかないわ。私たちには……祈るぐらいしかできないの」
言い返そうとして、言葉が詰まる。
原田先生の指。
高木の肩を掴んでいるその指が、小刻みに震えているのが見えたからだ。
強がりだ。
──先生も、怖くてたまらない。
何も言えなくなる。
その沈黙と一緒に、現実がじわじわ染み込んでくる。
バスの内部は、もう「避難場所」ではない。
壁に守られた箱じゃない。
海の底に沈んだ、古い棺桶に近い。
空気はぬるく、やけに湿っている。
密閉されているはずなのに、どこからか潮の匂いが入り込んでいた。
冷たい鉄と、古い海水の匂い。
吐き気のするコラボレーションだった。
高木は、汗でぬるついた手で鉄パイプを握りしめる。
手のひらの皮が擦れて、じんじん痛い。
それでも手を離せない。
このパイプが、自分の「役目」と「ライン」そのものみたいに思えた。
(野津センパイがいる)
(宇和島第三の疋田っていう、やべえ奴もいる。あの金属バットの龍雅もいる)
(あの連中が、そう簡単にやられるはずが──)
心の中で、名前を並べる。
それで、自分を落ち着かせようとする。
星城の番格No.2。
宇和島第三の最強コンビ。
人間離れした怪物側の怪物たち。
──あと。女子だけど……今井センパイ。
それだけ列挙しても、胸の圧迫感は少しも軽くならなかった。
高木は、まだ星城学園高等部の一年生だ。
A組。翔太と同じクラス。
翔太とは、小学生時代から顔見知りだった。
いつも殴られていた方の人間だと、ずっと思っていた。
頭と運動神経だけは良いくせに。体は細くて、優しすぎて。
あの「いじめられっこ」が。
もしかしたら、海野美優も。
その美優の強さには、高木も驚いた。
なにせ、背後から羽交い締めにしてきた小野山の顔面。
それを垂直の前蹴り一本で鼻をへし折った、あの技術・力。
野津より強いかもしれない、と高木ですら思うくらいの力を持っている。
──なのに、俺は……
(……ちくしょう)
この場に及んで、翔太に対する憧れと、羨望と、情けなさがぐしゃぐしゃに混ざって、胃のあたりで固まる。
もし北藤だったら。
迷わず今井センパイや野津センパイのあとを追って、外へ飛び出していっただろう。
自分は。
こうしてバスの中で震えて、鉄パイプにしがみついている。
──ちくしょうっ……!
高木が鉄パイプをぎゅっと握りしめたその時だった。
「シバタアアアアアアアアアアアア!」
野津俊博の叫び声が、霧を裂いて飛び込んできた。
近い。
めちゃくちゃ近い。
バスのすぐ横。
車体のすぐそばだ。
柴田は、宇和島第三のあのボクサー崩れだ。
あいつも野津センパイほどじゃないが、それなりに強かった。
──少なくとも、俺よりは……
野津のその叫びで、車内の空気が、一瞬で凍る。
その沈黙を壊すように、赤ん坊が泣き出す。
「うわああああああああん! ああああああああああああん!」
泣き声の高さが、耳を直接殴ってくる。
若い母親が震える腕で赤ん坊を抱きしめた。
彼女の顔は青を通り越して白い。唇だけが赤く、妙に濃く見えた。
「おじいさん。私、もういいわ。あんな若い子たちを、こんな危険な目に……」
「ばあさん。いかん。もっと、自分の命を大事にせえ。気持ちをしっかり持たんと……それこそ若い子らに顔向けできん」
老夫婦の小さな声が聞こえる。
おばあさんの目尻にはすでに涙。
おじいさんは、膝が震えているくせに、背だけは真っ直ぐ伸ばしていた。
そこへ、原田先生が駆け寄る。
震える彼らの手を両方つかんで、「大丈夫、大丈夫ですからね」と繰り返した。
教師としての反射神経だけが、まだ残っている。
その「大丈夫」という言葉が、今いちばん嘘くさく響くのに。
しかし、その中で。
「ドラウグル……ドラウグル……勝てるわけない……あんなの……」
違うリズムで、別の声が這うように響いた。
例のあの、ゲーム廃人のサラリーマンだった。




