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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第226話 路線バス──眠る棺桶

第226話


 ──バスの中は、俺が護る。


 そう決めた。

 それからずっと、高木の肩には力が入りっぱなしだった。

 野津俊博に、正面から言われたのだ。


『お前が守れ』


 その一言が、ずっと耳の奥で鳴り続けている。

 でも。


「うぎゃああああああああ!!」


 バスの外から、自分と同じ年頃の少年の悲鳴が裂けた。

 引きちぎられたゴムみたいな声だった。途中で、ぶつっと切れる。


 声帯ごと、どこかで千切れたみたいに──


(……今の、水城工業の櫻井の声じゃ……)


 高木の心臓が、キュッと縮んだ。

 喉の奥も縮んで、息が入ってこない。

 その直後。


「櫻井ぃぃぃぃイイぃぃ!!」


 今度はハッキリ分かる。

 芦原空手の暴れ牛、小野山の声だ。

 肺の全部を絞り出すような叫び。


 間違いない! 水城工業だ!

 あの小野山の舎弟・櫻井がやられたんだ……


 そのとき、車体の鉄板が、わずかに震えた気がした。


(外、どうなってんだよ……)


 想像したくない。

 でも、想像してしまう。


 霧の中で、腕が飛んで。

 足が曲がってはいけない方向に曲がって。

 血が霧に混じって、ピンク色になる光景を。


 高木の心臓は、さっきからずっと胸を裏側から殴っている。

 ドンドンと、内側から殴っている。

 骨が割れそうなほど。


「……高木くん」


 肩に、柔らかいものが触れた。

 保健教師の原田由香里が、そっと体を寄せてきていた。

 白衣は血と泥で汚れているのに、なぜかまだ「先生」にしか見えない。

 さすが原田先生だ。

 学園内でも人気がある、「教師らしい教師」。

 高木にとっても、自覚してしまうほどの「大人の女性」だ。


「大丈夫……」


 そんな原田先生の声も、この瞬間ばかりは、かすれていた。


「もう、あの子たちを信じるしかないわ。私たちには……祈るぐらいしかできないの」


 言い返そうとして、言葉が詰まる。

 原田先生の指。

 高木の肩を掴んでいるその指が、小刻みに震えているのが見えたからだ。

 強がりだ。


 ──先生も、怖くてたまらない。


 何も言えなくなる。


 その沈黙と一緒に、現実がじわじわ染み込んでくる。

 バスの内部は、もう「避難場所」ではない。

 壁に守られた箱じゃない。


 海の底に沈んだ、古い棺桶に近い。


 空気はぬるく、やけに湿っている。


 密閉されているはずなのに、どこからか潮の匂いが入り込んでいた。

冷たい鉄と、古い海水の匂い。

 吐き気のするコラボレーションだった。


 高木は、汗でぬるついた手で鉄パイプを握りしめる。

 手のひらの皮が擦れて、じんじん痛い。

 それでも手を離せない。

 このパイプが、自分の「役目」と「ライン」そのものみたいに思えた。


(野津センパイがいる)

(宇和島第三の疋田っていう、やべえ奴もいる。あの金属バットの龍雅もいる)

(あの連中が、そう簡単にやられるはずが──)


 心の中で、名前を並べる。

 それで、自分を落ち着かせようとする。


 星城の番格No.2。

 宇和島第三の最強コンビ。

 人間離れした怪物側の怪物たち。


 ──あと。女子だけど……今井センパイ。


 それだけ列挙しても、胸の圧迫感は少しも軽くならなかった。


 高木は、まだ星城学園高等部の一年生だ。

 A組。翔太と同じクラス。

 翔太とは、小学生時代から顔見知りだった。


 いつも殴られていた方の人間だと、ずっと思っていた。

 頭と運動神経だけは良いくせに。体は細くて、優しすぎて。


 あの「いじめられっこ」が。

 


 もしかしたら、海野美優うみのみゆも。


 その美優の強さには、高木も驚いた。

 なにせ、背後から羽交い締めにしてきた小野山の顔面。

 それを垂直の前蹴り一本で鼻をへし折った、あの技術・力。


 野津より強いかもしれない、と高木ですら思うくらいの力を持っている。

 ──なのに、俺は……


(……ちくしょう)


 この場に及んで、翔太に対する憧れと、羨望と、情けなさがぐしゃぐしゃに混ざって、胃のあたりで固まる。

 もし北藤だったら。

迷わず今井センパイや野津センパイのあとを追って、外へ飛び出していっただろう。


 自分は。

 こうしてバスの中で震えて、鉄パイプにしがみついている。


 ──ちくしょうっ……!


 高木が鉄パイプをぎゅっと握りしめたその時だった。


「シバタアアアアアアアアアアアア!」


 野津俊博の叫び声が、霧を裂いて飛び込んできた。


 近い。


 めちゃくちゃ近い。


 バスのすぐ横。

 車体のすぐそばだ。


 柴田は、宇和島第三のあのボクサー崩れだ。

 あいつも野津センパイほどじゃないが、それなりに強かった。

 ──少なくとも、俺よりは……


 野津のその叫びで、車内の空気が、一瞬で凍る。

 その沈黙を壊すように、赤ん坊が泣き出す。


「うわああああああああん! ああああああああああああん!」


 泣き声の高さが、耳を直接殴ってくる。

 若い母親が震える腕で赤ん坊を抱きしめた。

 彼女の顔は青を通り越して白い。唇だけが赤く、妙に濃く見えた。


「おじいさん。私、もういいわ。あんな若い子たちを、こんな危険な目に……」

「ばあさん。いかん。もっと、自分の命を大事にせえ。気持ちをしっかり持たんと……それこそ若い子らに顔向けできん」


 老夫婦の小さな声が聞こえる。

 おばあさんの目尻にはすでに涙。

 おじいさんは、膝が震えているくせに、背だけは真っ直ぐ伸ばしていた。


 そこへ、原田先生が駆け寄る。


 震える彼らの手を両方つかんで、「大丈夫、大丈夫ですからね」と繰り返した。

 教師としての反射神経だけが、まだ残っている。

 その「大丈夫」という言葉が、今いちばん嘘くさく響くのに。


 しかし、その中で。


「ドラウグル……ドラウグル……勝てるわけない……あんなの……」


 違うリズムで、別の声が這うように響いた。


 例のあの、ゲーム廃人のサラリーマンだった。

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