表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

232/240

第225話 霧は帰り道を返さない

第225話


 白い霧と血の匂いが、地面すれすれのところで渦を巻いている。


 水城工業の小野山は、腹の底から吼えた。

 霧の向こうの屍鬼に向かって踏み出す。

 視界は十メートルもない。横倒しのバスと、骨組みだけになった魚市場。

 それと“人じゃない何か”の影が、白いノイズの中でぼやけて揺れている。


 だが、その一歩目の底で、アスファルトが「ぬるり」と生き物みたいに動いた。

 下を見る。横倒しになったバスの車輪の影──。

 アスファルトの黒に溶け込んでいたはずの浅い水たまりから、白い手首がずぶずぶと突き出した。

 女子高生みたいに細い手首なのに、その握りは万力並みに固い。


「ッ……!」


 動かない……!

 まるで海の底から、溺死体の腕だけが引き上げられてきたみたいな感触だった。

 足首の骨に、そのまま氷を流し込まれたみたいな冷たさが走る。


 その瞬間、霧の幕を裂いて、別のドラウグルが横合いから滑り込んできた。

 水たまりの凪ぐような音はするが、足音はまったくしない。

 そして。


 ガッ。


 小野山の折れていた鼻梁びりょう

 そこを狙いすまして、真上から片手斧の柄の部分が叩きつけてきた。


「ぐぉっ──!」


 ぐしゃりとギプスごと骨を押し潰す。

 小野山の視界が白く弾け、世界がぐるりと一回転する。

 ギプスが粉々に砕けた。

 割れた骨の上を、新しい血の温かさがどろりと流れ広がる。


(……折れてるとこ、狙いやがった……!?)


 それは、ドラウグルらが単なる屍鬼ではなく、知能があることを意味する。

 脳が揺れているのに、その事実だけがやけにクリアに浮かぶ。


(くっそ。こんなの野津にやられた時と比べりゃ、大したことねーぞ!)


 小野山は足首を掴んでいた手に向けて、渾身のローキックを叩き込んだ。

 

 ──痛みなんて知らねえ!


 芦原空手で鍛えた根性。

 以前、この鼻は、女に──海野美優のハイキックで折られた。

 屈辱だった。

 その屈辱が、「この程度で痛えなんて思うもんか」という維持になっていた。

 ローで、足元から生えてきた腕の骨ごと粉砕するつもりでぶち当てる。

 ぐしゃり。

 貝殻と骨が混ざったような音がした。


(手応えありだぁ……)


 その通り。腕は霧の底へと沈んでいった。

 だが、蹴り抜いた先から、海水と白い泡だけが靴の先に、じわじわと湧き出してくる。


「な。なんだこりゃっ!」


 その気味悪さに思わず怯んだ時。


「小野山さんっ!」


 霧の向こう、すぐ背後で、舎弟である櫻井の情けないほど裏返った声が弾けた。

 すぐに目を遣る。

 次の瞬間、その櫻井の制服の襟首に、霧の壁の向こうから別の白い腕がぬるりと伸びているのが見えた。それを背後から櫻井の襟をわし掴みにしている。


「うわっ──!」


 ぐん、と一気に持ち上げられる櫻井。

 櫻井の細身の体が、まるで壊れかけのマネキンみたいに片手でぶら下げられていた。

 櫻井の足が宙を空回りする。スニーカーの先で白い霧を掻き混ぜる。


 霧の中で、女の白い唇がゆっくりと裂けるように開いた。

 その奥から海藻の束みたいな舌がごそりと顔を出す。

 斧が振りかぶられた。


「や、やめろォォォ!」


 小野山は、自分の鼻がぐちゃぐちゃになっている痛みも忘れて飛び込んだ。

 宙吊りにされた櫻井の腰を、ラグビーのタックルみたいに横から、全力で抱き寄せる。

 その刹那──斧が振り下ろされた。


 冷たい刃の軌跡だけがはっきりと見える。


 ザクッ。


 金属とも骨ともつかない嫌な音。

 小野山は櫻井を抱えたまま、自分の前腕で斧の柄を受け止めた。

 刃の冷たさと重さが骨まで突き抜けてくる。

 つまり。

 斧は運よく、小野山の右腕の骨で止まった。

 だが。


「いっ……てぇ……っ!!」


 当然だ。

 肘から先が一瞬、自分の腕じゃないみたいに痺れる。

 腕の骨の一本一本が悲鳴を上げる。


「チクショオオオオ!」


 芦原空手の使い手。

 その根性だけは、野津にだって負けない。

 斧は前腕に食い込んだまま。

 そのまま腰から下の筋肉をフルに稼働させ、体ごと斧を押し返す。

 さらには驚くべきことに。

 立ち上がった脚で、屍鬼に足払いをかけた。

 ドラウグルの足首は人間の女子と変わらない細さ。

 その下に乗っている重さだけが明らかにおかしい。

 蹴った脛に伝わる手応えは、まるで濡れた丸太へ蹴りをかましたのと似た、鈍い反発だった。


 それでも、芦原空手で鍛えた足は、屍鬼の膝関節を内側から無理やりねじ折っていた。

 水袋を蹴り抜いたみたいな鈍い音。

 同時に、膝の周りのルーンが一瞬だけチカっと不穏に光る。

 ドラウグルの脚が変な方向へ曲がってよろめいた瞬間、小野山は櫻井を突き放した。


「ぼさっとすんな! 下がってろ!」

「す、すみませんっ!」


 返事の声も、ほとんど裏返っている。

 櫻井は一歩下がった。

 それが良かった。

 櫻井の背中のすぐ後ろ。

 ──髪の毛一本ぶんの距離をかすめて、別の斧が風を切って通り過ぎた。

 あと半歩遅ければ、背骨ごと持っていかれていた。


 これに気づき、櫻井は恐怖のどん底に落とされる。


 霧の中のあちこちで、笑い声とも呼吸ともつかない「ごぼ、ごぼ……」が重なっていった。

 沈んだ海底から、無数の死体が一斉に息を吸い込んでいるような、嫌な音だった。


 少し離れた場所では、小野山が鼻血を撒き散らしながら、拳と足を休みなく振るっている。

 折れた鼻にさっき「追い打ち」を食らったせいで、顔面はもはやどこまでが血で、どこまでが皮膚なのか分からない。


 それでも、芦原空手仕込みのローキックは、ドラウグルの膝を、ひとつひとつ確実に粉砕していく。

 吹き飛んだ屍鬼の脚から、また海水と泡が飛び散り、霧と混ざって視界をさらに濁らせる。

 攻撃するたびに、小野山の視界が曇る。


 ──くっそ。やべえ!


「櫻井、お前はフォローだけでいい! 自分の身だけまずは守れ!」

「は、はいッス!」


 声だけは返すが、その足取りは完全に腰が引けている。

 櫻井は、横から飛び込んでくる斧の軌道を、ほとんど反射だけでギリギリ避ける。

 小野山は、ドラウグルの足を必死で払っていく。


 連携としては、悪くない。 

 だが、相手の数と異常さに対し、これは、あまりにも焼け石に水だった。


「え……?」


 櫻井の足元にあったはずの、くるぶし程度の浅い水たまりが、音もなく「深く」なった。

 見た目の形は変わらないのに、底だけがずるりとどこかへ抜け落ちたような感覚。

 足が、そのままズブズブと沈んでいく。


 足首まで。

 膝まで。


 さっきまで固かったはずのアスファルトをすり抜け、櫻井の下半身が下へ溶けていく。

 そんな深さ、この路面にあるはずがない。

 その沈んだ櫻井のふくらはぎを、冷たい海水と何か柔らかいものが同時に撫でた。


「ちょ、ちょっと!?」


 櫻井が慌てて足を引き抜こうとした、その瞬間――


 水の底の見えない闇から、白い手が二本、溺死体の腕みたいに浮かび上がった。

 櫻井の制服をガッチリと握る。

 爪の間には、黒い泥と海藻がぎっしり詰まっている。


「うわっ!?」


 体が、足首から下だけ別の世界へ引きずり込まれるみたいに、ぐいっと下へ持っていかれる。

 腰まで沈んだところで、冷たい水圧が下半身をぎゅうっと締め付けた。


「櫻井!!」


 小野山が反射的に振り返る。

 だが、その肩甲骨めがけて別のドラウグルの斧が迫っていた。

 ルーンの刻まれた刃が、霧の中で青白く脈打つ。


 これを避けなければ、自分が死ぬ。

 避けたら、櫻井が死ぬ。


 一瞬。


 本当に心臓が一回打つかどうかの長さだけ、迷った。


 その“人間らしい間”を、屍鬼たちは一切見逃さない。


 結局、斧の刃が、小野山の肩口を浅くなぞった。

 制服ごと、肉を紙一枚分だけ引き裂く。


「ぐっ……!」


 歯を食いしばりながらも、小野山は反射で拳を振るう。

 至近距離から、斧を持つ腕の肘を叩き折り、続けざまに前蹴りで腹を凹ませる。

 ぐにゃり、と腹部が不自然にへこみ、そこから海水と泡がどろどろと逆流した。


 その間に──櫻井が、腰まで沈んだ状態から、さらに一気に「下」に引きずり込まれていった。


「小野山さ──」


 助けを求める声の二文字目が出る前に、霧と水と白い手がその口を塞いだ。


 水たまりが、一瞬だけ大きく波打ち、赤黒い水飛沫を上げる。


 それきり。


 そこには、誰もいなかった。

 残ったのは、櫻井のスニーカー。


 小野山は、ほんの一瞬だけ、動きを止めた。

 受け止めた腕から。打たれた肩から。

 血がとく、とくと一定のリズムで滴り落ちている。


(……櫻井……)


 ──これは喧嘩の延長じゃねえ。


 さすがのお野山にも、“本物の死”の匂いが、胸の内側から這い上がってきた。

 これまでどんな喧嘩でも感じたことのない、どうにもならない格差。

 その恐ろしさが、背骨にからみつく。


 小野山の心に、今回初めて、本能的な恐怖が襲ってきた。

 そして遅れてこう叫んだ。


「櫻井ぃぃぃイイぃぃぃぃ!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ブクマ・ポイント評価お願いしまします!
小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ