第225話 霧は帰り道を返さない
第225話
白い霧と血の匂いが、地面すれすれのところで渦を巻いている。
水城工業の小野山は、腹の底から吼えた。
霧の向こうの屍鬼に向かって踏み出す。
視界は十メートルもない。横倒しのバスと、骨組みだけになった魚市場。
それと“人じゃない何か”の影が、白いノイズの中でぼやけて揺れている。
だが、その一歩目の底で、アスファルトが「ぬるり」と生き物みたいに動いた。
下を見る。横倒しになったバスの車輪の影──。
アスファルトの黒に溶け込んでいたはずの浅い水たまりから、白い手首がずぶずぶと突き出した。
女子高生みたいに細い手首なのに、その握りは万力並みに固い。
「ッ……!」
動かない……!
まるで海の底から、溺死体の腕だけが引き上げられてきたみたいな感触だった。
足首の骨に、そのまま氷を流し込まれたみたいな冷たさが走る。
その瞬間、霧の幕を裂いて、別のドラウグルが横合いから滑り込んできた。
水たまりの凪ぐような音はするが、足音はまったくしない。
そして。
ガッ。
小野山の折れていた鼻梁。
そこを狙いすまして、真上から片手斧の柄の部分が叩きつけてきた。
「ぐぉっ──!」
ぐしゃりとギプスごと骨を押し潰す。
小野山の視界が白く弾け、世界がぐるりと一回転する。
ギプスが粉々に砕けた。
割れた骨の上を、新しい血の温かさがどろりと流れ広がる。
(……折れてるとこ、狙いやがった……!?)
それは、ドラウグルらが単なる屍鬼ではなく、知能があることを意味する。
脳が揺れているのに、その事実だけがやけにクリアに浮かぶ。
(くっそ。こんなの野津にやられた時と比べりゃ、大したことねーぞ!)
小野山は足首を掴んでいた手に向けて、渾身のローキックを叩き込んだ。
──痛みなんて知らねえ!
芦原空手で鍛えた根性。
以前、この鼻は、女に──海野美優のハイキックで折られた。
屈辱だった。
その屈辱が、「この程度で痛えなんて思うもんか」という維持になっていた。
ローで、足元から生えてきた腕の骨ごと粉砕するつもりでぶち当てる。
ぐしゃり。
貝殻と骨が混ざったような音がした。
(手応えありだぁ……)
その通り。腕は霧の底へと沈んでいった。
だが、蹴り抜いた先から、海水と白い泡だけが靴の先に、じわじわと湧き出してくる。
「な。なんだこりゃっ!」
その気味悪さに思わず怯んだ時。
「小野山さんっ!」
霧の向こう、すぐ背後で、舎弟である櫻井の情けないほど裏返った声が弾けた。
すぐに目を遣る。
次の瞬間、その櫻井の制服の襟首に、霧の壁の向こうから別の白い腕がぬるりと伸びているのが見えた。それを背後から櫻井の襟をわし掴みにしている。
「うわっ──!」
ぐん、と一気に持ち上げられる櫻井。
櫻井の細身の体が、まるで壊れかけのマネキンみたいに片手でぶら下げられていた。
櫻井の足が宙を空回りする。スニーカーの先で白い霧を掻き混ぜる。
霧の中で、女の白い唇がゆっくりと裂けるように開いた。
その奥から海藻の束みたいな舌がごそりと顔を出す。
斧が振りかぶられた。
「や、やめろォォォ!」
小野山は、自分の鼻がぐちゃぐちゃになっている痛みも忘れて飛び込んだ。
宙吊りにされた櫻井の腰を、ラグビーのタックルみたいに横から、全力で抱き寄せる。
その刹那──斧が振り下ろされた。
冷たい刃の軌跡だけがはっきりと見える。
ザクッ。
金属とも骨ともつかない嫌な音。
小野山は櫻井を抱えたまま、自分の前腕で斧の柄を受け止めた。
刃の冷たさと重さが骨まで突き抜けてくる。
つまり。
斧は運よく、小野山の右腕の骨で止まった。
だが。
「いっ……てぇ……っ!!」
当然だ。
肘から先が一瞬、自分の腕じゃないみたいに痺れる。
腕の骨の一本一本が悲鳴を上げる。
「チクショオオオオ!」
芦原空手の使い手。
その根性だけは、野津にだって負けない。
斧は前腕に食い込んだまま。
そのまま腰から下の筋肉をフルに稼働させ、体ごと斧を押し返す。
さらには驚くべきことに。
立ち上がった脚で、屍鬼に足払いをかけた。
ドラウグルの足首は人間の女子と変わらない細さ。
その下に乗っている重さだけが明らかにおかしい。
蹴った脛に伝わる手応えは、まるで濡れた丸太へ蹴りをかましたのと似た、鈍い反発だった。
それでも、芦原空手で鍛えた足は、屍鬼の膝関節を内側から無理やりねじ折っていた。
水袋を蹴り抜いたみたいな鈍い音。
同時に、膝の周りのルーンが一瞬だけチカっと不穏に光る。
ドラウグルの脚が変な方向へ曲がってよろめいた瞬間、小野山は櫻井を突き放した。
「ぼさっとすんな! 下がってろ!」
「す、すみませんっ!」
返事の声も、ほとんど裏返っている。
櫻井は一歩下がった。
それが良かった。
櫻井の背中のすぐ後ろ。
──髪の毛一本ぶんの距離をかすめて、別の斧が風を切って通り過ぎた。
あと半歩遅ければ、背骨ごと持っていかれていた。
これに気づき、櫻井は恐怖のどん底に落とされる。
霧の中のあちこちで、笑い声とも呼吸ともつかない「ごぼ、ごぼ……」が重なっていった。
沈んだ海底から、無数の死体が一斉に息を吸い込んでいるような、嫌な音だった。
少し離れた場所では、小野山が鼻血を撒き散らしながら、拳と足を休みなく振るっている。
折れた鼻にさっき「追い打ち」を食らったせいで、顔面はもはやどこまでが血で、どこまでが皮膚なのか分からない。
それでも、芦原空手仕込みのローキックは、ドラウグルの膝を、ひとつひとつ確実に粉砕していく。
吹き飛んだ屍鬼の脚から、また海水と泡が飛び散り、霧と混ざって視界をさらに濁らせる。
攻撃するたびに、小野山の視界が曇る。
──くっそ。やべえ!
「櫻井、お前はフォローだけでいい! 自分の身だけまずは守れ!」
「は、はいッス!」
声だけは返すが、その足取りは完全に腰が引けている。
櫻井は、横から飛び込んでくる斧の軌道を、ほとんど反射だけでギリギリ避ける。
小野山は、ドラウグルの足を必死で払っていく。
連携としては、悪くない。
だが、相手の数と異常さに対し、これは、あまりにも焼け石に水だった。
「え……?」
櫻井の足元にあったはずの、くるぶし程度の浅い水たまりが、音もなく「深く」なった。
見た目の形は変わらないのに、底だけがずるりとどこかへ抜け落ちたような感覚。
足が、そのままズブズブと沈んでいく。
足首まで。
膝まで。
さっきまで固かったはずのアスファルトをすり抜け、櫻井の下半身が下へ溶けていく。
そんな深さ、この路面にあるはずがない。
その沈んだ櫻井のふくらはぎを、冷たい海水と何か柔らかいものが同時に撫でた。
「ちょ、ちょっと!?」
櫻井が慌てて足を引き抜こうとした、その瞬間――
水の底の見えない闇から、白い手が二本、溺死体の腕みたいに浮かび上がった。
櫻井の制服をガッチリと握る。
爪の間には、黒い泥と海藻がぎっしり詰まっている。
「うわっ!?」
体が、足首から下だけ別の世界へ引きずり込まれるみたいに、ぐいっと下へ持っていかれる。
腰まで沈んだところで、冷たい水圧が下半身をぎゅうっと締め付けた。
「櫻井!!」
小野山が反射的に振り返る。
だが、その肩甲骨めがけて別のドラウグルの斧が迫っていた。
ルーンの刻まれた刃が、霧の中で青白く脈打つ。
これを避けなければ、自分が死ぬ。
避けたら、櫻井が死ぬ。
一瞬。
本当に心臓が一回打つかどうかの長さだけ、迷った。
その“人間らしい間”を、屍鬼たちは一切見逃さない。
結局、斧の刃が、小野山の肩口を浅くなぞった。
制服ごと、肉を紙一枚分だけ引き裂く。
「ぐっ……!」
歯を食いしばりながらも、小野山は反射で拳を振るう。
至近距離から、斧を持つ腕の肘を叩き折り、続けざまに前蹴りで腹を凹ませる。
ぐにゃり、と腹部が不自然にへこみ、そこから海水と泡がどろどろと逆流した。
その間に──櫻井が、腰まで沈んだ状態から、さらに一気に「下」に引きずり込まれていった。
「小野山さ──」
助けを求める声の二文字目が出る前に、霧と水と白い手がその口を塞いだ。
水たまりが、一瞬だけ大きく波打ち、赤黒い水飛沫を上げる。
それきり。
そこには、誰もいなかった。
残ったのは、櫻井のスニーカー。
小野山は、ほんの一瞬だけ、動きを止めた。
受け止めた腕から。打たれた肩から。
血がとく、とくと一定のリズムで滴り落ちている。
(……櫻井……)
──これは喧嘩の延長じゃねえ。
さすがのお野山にも、“本物の死”の匂いが、胸の内側から這い上がってきた。
これまでどんな喧嘩でも感じたことのない、どうにもならない格差。
その恐ろしさが、背骨にからみつく。
小野山の心に、今回初めて、本能的な恐怖が襲ってきた。
そして遅れてこう叫んだ。
「櫻井ぃぃぃイイぃぃぃぃ!」




