第224話 狂気だけで生きる
第224話
「ひゃはははあはははは!」
霧と血の臭いが混じった空気の中で、その笑い声だけがやけに鮮明に響いた。
寺沢龍雅だ。
龍雅は、この“世界のバグ”みたいな怪異との戦闘そのものを、心の底から楽しんでいる。
普通なら正気を削るはずの光景が、龍雅の中では、ただの「最高の遊び場」に変換されている。
金属バットが、ドラウグルの頭蓋を兜ごと粉砕する。
蛍光灯を叩き割る甲高い音、熟れすぎたスイカを潰したような鈍い音、
その音が同時に響いた。
兜が割れ、青白い頭蓋がひしゃげ。
海水と血と脳漿が、ごちゃ混ぜになって霧の中に飛び散った。
「柔らかいなぁ! お前らはよ!」
その龍雅の目が一瞬、驚きの色を見せる。
頭は潰したはず。
だがその胴体は、糸が切れかけたマリオネットみたいにふらりと揺れただけで──地面に崩れる気配がなかった。
まるでそこだけ別の力学に縛られているかのように、ぶれもせず片手斧の構えを保っている。
さらには、砕けたはずの頭部。
これが、海の底で溶けたクラゲみたいにぐに、と形を寄せ合う。
そして、ぬるりと元の顔を再構成していく。
割れたはずの額の皮膚がつぎはぎのまま閉じ、白濁した目が二つ再び、ガラス玉みたいに龍雅を見た。
「な、なんだ、これ……?」
──死なねえ……のか?
龍雅を見る白い目。
瞳孔はどこにもないはずなのに、その“穴のない視線”だけはしっかりと彼を貫いてくる。
(おっかしいなぁ……人間なら、これで死んでるはずなんだけどなぁ)
龍雅が首を傾げる。
だが次の瞬間には、野犬みたいな叫びをほとばしらせ、再びバットを横薙ぎに振るった。
ガッ!
クリティカルヒット。
金属バットが霧を裂いた軌道に、飛び散った海水と血が線になって残る。
ドラウグルの首が、ボールジョイントでも仕込まれているみたいにぐきりと折れた。
と、思いきや。
そのまま一回転して、骨の音を立てて元の位置に「カチリ」とはまった。
折れた首の下で、青白い喉の皮膚が風船みたいに一度ふくらみ、ぷしゅうと海霧を漏らした。
「おいおい、首折れても動くとか、マジかよ……ひゅー」
この光景。
まともな人間なら、とっくに腰も心も折れて、その場で吐いてる場面だ。
けれど龍雅は違う。
その恐怖のラインをとっくに踏み越えている。
さらに先の“ハイ”の領域まで行ってしまっている。
恐怖の向こう側。
龍雅ならではの強みが、ここで、出た。
龍雅は笑いながら、血と海水でぬめったバットを器用に振った。
周囲のドラウグル数体のこめかみや膝を順番に叩き砕く。
ボウリングのピンみたいにまとめて転がす。
すべてが致命傷のはずだった。
──もう起き上がってくるわけがねえ。
「いやあ……、喧嘩っつーのは、こうじゃなきゃな!」
龍雅はうれしかった。
人間相手だと手加減しなければ相手は死ぬ。
だがこれは。
──相手を殺しても良い喧嘩!
龍雅のテンションは否が応でも高まる。
脳内はアドレナリンでしびれるほど満たされていく。
──殺しても、いい! 最高じゃねえかよ!
だが、だからこそ──足元の水たまりが、不意に「呼吸する」ように膨らんだのに気づかなかった。
高揚感が、油断を作ってしまったのだ。
龍雅の足元。
ぬるり、と。
海底の死体の腕みたいな白い手が一本、音もなく伸び上がった。
それが龍雅の足首を後ろからがっちり掴む。
皮膚ごしに、冷たい海水の温度が同時に伝わった。
「っとと……!」
重心が向こう側に引きずられ、思わず体勢が崩れる。
その隙を狙うみたいに。
別のドラウグルが、霧の帳を裂いた。
斧の刃の冷たい光が飛び込んでくる。
まるで見えない指揮官がいるかのような、無駄のない連携。
「う……お……っ!!」
咄嗟に、バットのグリップを逆手に持ち替える。
崩れた体勢のまま斧の柄をはじき返す。
斧の柄とバットがぶつかり合い、な白い火花が散った。
「ふいー。いいねえ。ピンチを覆すってのはよ!」
バランスを崩した状態でも、この反発力とスナップ。
体幹が常人離れして鍛え上げられている証拠だった。
しかし、どれだけ龍雅が化け物じみていても、重力の法則には勝てない。
龍雅の体は、結局、後ろへと引き倒されてしまった。
薄い水の膜が張ったアスファルトに叩きつけられ、肺の空気が一気に押し出された。
「ぐ……はっ……」
仰向けになった龍雅の視界の上に、白い顔がいくつも重なる。
(あら。早いのなんの。とどめを刺す速さ、よく分かってんじゃねーのよ)
逆さまになった海藻のような髪が、ぬめりながら額と頬をなぞった。
冷たい雫を何滴も垂らしてくる。
白濁した目が、穴のあいた貝殻みたいに、至近距離から覗き込んでくる。
(だけど、やるなら速攻じゃねーと、駆け寄った意味ねーだろ)
龍雅の周囲に寄り集まったドラウグルの斧が、一斉に龍雅の頭蓋めがけて真っ直ぐ振り下ろされる。
(ああ、そうそう。そうじゃなきゃ。……けど、これ、俺も避けられねーかもな)
さすがにこの体勢では、すべて避けきれない。
それでも筋肉だけが勝手に、肩と首をひねった。
(運が良けりゃ、助かんだろ)
その瞬間。
斧の冷たい重みが頭皮に触れかけた刹那──
ガァン、とバスの車体ごと殴ったみたいな鈍い衝撃音が何度も連続で周囲に響き渡った。
視界の端で、ドラウグルの顔面がすべて、横方向へ歪むのが見えた。
(お……なんだ、なんだ?)
その者は、巨体であるのに、その速度は尋常ではなかった。
疋田麗央だ。
疋田の長い脚が、そのドラウグルたちの横顔をサッカーボールみたいに横合いから蹴り飛ばしていた。
軽く振っただけに見えた。
だが、屍鬼の頭部はバス一台分ほど先まで吹き飛び、そのすべてが、海水の尾を引きながら闇に消えていく。
「ひゅう、レオ、やるねえ」
「……起きろ」
感情の波を一切感じさせない、石像みたいな声だった。
そして。
疋田は龍雅の足首を掴んでいた白い手に見を遣った。
そして、ゴミでも踏むみたいに無造作に。
蹴り一閃!
──踏み砕いた。
薄い水面から生えたドラウグルの腕が、根元からゴム人形みたいにぐにゃりと潰れる。
なのに、悲鳴も上がらない。
「ちっ! また靴底が汚れた……」
疋田は吐き捨てるように言う。
折れた腕の断面から海水の泡だけが、ぼこぼこと湧き出している。
「あらあ? レオでも、こいつらに悲鳴一つ上げられねえんでやんの」
笑うと同時に、龍雅は肺に空気をむりやり吸い戻した。
ゆっくり余裕を持って立ち上がり、バットを構え直す。
だが、その右ふくらはぎに、じわりと冷たい感触。
いつやられたのだろう。
屍鬼の片手斧が、皮一枚ぶんだけかすっていた。
裂けた制服と皮膚の隙間から、血がじわじわと滲み出している。
(あれま……一歩ズレてたら、ふくらはぎごと持ってかれてたな、こりゃ)
だが、脳内を満たしたアドレナリンの海が、その危機感を泡立てて押し潰していく。
「ひゅー……足、ちょっとスースーするぜ。いいねえ、ここまでやられっと、マジ“生きてる”って感じだわ」
そしてバットを、いつものように、肩に担いだ。
口元は笑っているが、焦点だけは刃物みたいに鋭い。
白い霧の向こうの気配を追う姿は、もう殺人鬼と変わりなかった。
この目の前の地獄絵図すら、龍雅にとってはただの「続きが見たいゲーム画面」にしか見えていない。
それが龍雅の「強さ」だ。




