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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第223話 殺戮ショーの幕開け

第223話


「ぎゃああああああああああああっ!」


 柴田の悲鳴は、まだ途切れていなかった。

 濃霧のうむを震わせるその悲鳴は、まるで霧そのものが喉を持ったかのように、白い世界の奥へ何度もこだましながら溶けていった。


 視界は相変わらず数メートル先もおぼつかない。灰と白の境目がどこにも感じられない。

 音だけが、この世界に「距離」という概念がまだ残っていることを知らせてくる。


 柴田は右肘から先を失った腕を押さえる。

 膝から崩れ落ちたまま、信じられないという表情。

 そして、自分の「ないほうの手」を探すように空を掻いていた。


 指先は空をつかむのに、残された腕の部分が霧の粒をかき混ぜるだけだ。

 手応えのなさが、現実感を拒む悪い夢のよう。


 その柴田の、膝下の水たまりが、ぼこ、と不自然に泡立った。

 ドラウグルによる魔力か何か──

 薄く膜を貼ったような潮の香りがする水面が、まるで生き物みたいに内側から息を吐く。

 黒い底をめくり上げる。

 まるで柴田をそこに足止めするように。 


 そのとき、柴田を取り囲むドラウグルのひとりが、薄く唇を吊り上げた。

 白濁した目なのに、「笑っている」としか思えない、人間から微妙に外れた角度の歪み。


 濃い青緑の髪――海藻をそのまま頭に貼り付けたような長髪。

 それが肩からずるりと垂れ、金属ビキニの縁を濡らした。

 胸元のルーン刻印が、潮騒に合わせるように淡く水色に脈打つ。

 ──こんなものじゃ終わらせない。

 そう言っているかのように。


 柴田の血は止まらない。

 そして、なぜか腕からだけでなく、足元の水たまりからも溢れ出した。

 それが霧と混じり合っていく。

 赤と白が溶け合い、どこまでが地面で、どこからが霧なのか、境界を曖昧にしていく。


 その地獄の「第一歩」に、一番最初に気づいたのは──


「……あれ……」


 今井咲いまいさきだった。


 霧の向こうに浮かぶ赤のにじみ。

 ほんの一瞬だけ、咲の心が現実を疑った。

 竹刀を中段に構え、血の色に広がる濃い霧を見据える。


「野津くん!」


 背中合わせの野津俊博のづとしひろの名を呼ぶ。

 同時に、咲はそちらに半歩、体をずらした。

 野津の耳元へと顔を寄せるためだ。


「ん?」


 野津は振り返る。だがよりも先に、見えた。

 霧の白をねじ曲げるように浮かび上がる、鮮やかな「赤」が。

 霧の世界に、本来あってはならないはずの色。

 その赤の中心から、


「う、おおおおおおおおおおおっ!?」


 絶叫。

 宇和島第三の柴田の声だ。

 野津には敵わないまでも、なかなかの腕前を持つボクサー崩れだ。


 野津の顔から血の気が引いた。

 この世界は、さっきまでいた水城みずきとは別の「どこか」へ、とっくに軌道を外してしまっている。


 足裏に伝わるアスファルトの感触すら、霧に薄められて遠く感じる。

 ここでは、自分の体の輪郭さえあやふやになる。

 拳ひとつで食っていけるかもしれない、とまで言われたこともある柴田。

 その強者の悲鳴が、今は完全に「一般人」のそれに変わっていた。


 野津は、無意識に駆け出していた。

 柴田を救うためだ。

 霧で足元が見えない。だが、このままじっとしていたら、自分も「見えないまま」終わる。

 そんな確信めいたものがある。


 その時、鈍い光が野津の目の端で見えた。

 斧だ。ドラウグルの。


 野津は、足を止めた。

 ドラウグルの斧が霧の裂け目から襲いかかってくる。

 その斧の柄を左手で受け止める。

 そのまま、握力百五十キロの指で「万力」のように締め上げた。

 濡れた流木のような柄は、驚くほど冷たかった。まるで海底で長年沈んでいた木を、そのまま引き上げてきたみたいに。


 硬い木が、メリメリと音を立て潰れていく。

 指の間から、染み込んだ海水と黒い泥がじわりとにじみ出す。

 ついには刃のついた先端が、ぽろりと落ちた。

 野津が握力だけで、斧の柄を握りつぶしてしまったのだ。


「邪魔だァッ!」


 同時に、片手でその屍鬼の顔面を掴んだ。

 ひやりとする。人間の皮膚の冷たさではない。

 海底に沈んだ死体に触れたような、奥の奥まで冷気が染み込んでくる感触。

 こめかみに指を食い込ませる。

 そのまま持ち上げた。

 青白い肌の下で、ぶよりと水を含んだ肉がずれる。

 だが野津は怯まない。

 貝殻の破片がこすれ合い、きしむような小さな音を立てた。

 それでも野津の闘志は揺れない。


 濡れたアスファルトからふわりと離れたドラウグルの足裏から、ぴちゃ、と水の音が一拍遅れて聞こえる。その水が、名残惜しそうに路面へ張り付き、糸を引いている。


(くそっ……気持ちの悪いッ!)


 その腹へ、膝蹴りを放つ。


 ドゴッ。


 全体重と漁師仕込みの足腰を乗せた、真正面からの一撃。

 だが水袋を蹴りつけたような、嫌な手応えだけが残る。

 女の屍鬼は霧の中に吹き飛んだものの、倒せたかどうかは分からない。

 霧にかき消されたからだ。

 数メートル先で転がった気配はある。

 だが、どこにもその肉体が見当たらない。


 しかし霧の向こうで、ゆっくりと立ち上がる気配がしたのが分かった。


 すぐに、白濁した目が、霧の裂け目からぬっと現れる。

 瞳孔も虹彩もない真っ白な目だというのに、「こっちを見ている」と分かってしまう冷たさ。


(……マジかよ……)


 まともにこめかみと腹をやった。

 だが、まだ立つ。

 人間の「死ぬライン」が、この霧の中だけ別ルールになっているようだ。 

 さっきから吹いているはずの海風よりも、よほど冷たいものが背骨を這い登った。

 そんな野津にさきが喝を入れる。


「野津くん、早く!」

「お、おう」


 ハッと我に返る。

 ──柴田んとこ、行かなきゃ……!


 恐怖ごときで足を止めてはいけない。

 その瞬間に全部終わる。

 恐怖に殺される。

 そんなみっともない死に方だけは嫌だった。


 赤と白のモヤへ向けて走る。

 さきも一歩遅れて着いてくる。

 そこで見た。

 濃霧の切れ目。

 そのど真ん中に広がる、あり得ない光景を。


 柴田の右肘から先。

 それが、霧の中、まるごと消えていた。

 まるでそこだけ、映像のフレームが抜け落ちたみたいだ。

 ──なにも「映っていない」、そう野津は勘違いしそうになる。

 違う。

 斬られたのだ。

 柴田は自身の最も強力な武器を失った。

 すんわわち、右拳……


 霧の白に、真っ赤な血

 霧に混じると、別の液体──海に流れ込む毒インクになっているかのようにも感じられた。

 野津は柴田の意識を取り戻させるためにも大声で叫んだ。


「シバタァァァァッ!!」


 だがその声が、自分の耳でも遠く聞こえる。

 世界そのものが厚いガラス越しになったみたいだ。

 野津はすぐに周囲を警戒した。

 霧の向こうで、海藻色の長髪と金属ビキニがちらついたからだ。

 どこから斧が飛んでくるか、まったく読めない。


 咲は野津が警戒している間に、柴田の元へしゃがみ込んだ。

 膝をついた瞬間、肌が冷たい水を吸った。

 血と海水と霧の混じった、得体の知れない湿り気……


「柴田くんっ!」


 竹刀は決して手放さないまま。

 空いているほうの手で、彼の肩を揺さぶる。

 柴田は、まだ、自分の右腕を見下ろしている。

「あったはず」の腕の付け根を。


 血は、雨どいを外したみたいに流れ続けている。

 柴田の痛みの回路が、どこかでショートしているのかもしれない。

 表情に「痛い」が追いついていないといった顔だ。

 そこで咲は悲鳴を上げた。


「きゃあああああっ!」


 霧の中に転がっているそれ。

 柴田の右腕に気づいたからだ。


 指先は、まだピクピクと痙攣している。


 そこへ、別のドラウグルが横から飛びかかってきた。

 さくは、驚くべき反射神経で、そこから飛び退く。

 霧の白を裂いて現れた細身の影。

 濃い青緑の髪が、海中を泳ぐクラゲのように尾を引いている。

 そして。


 ガブリ。


 柴田の肩口に、海水と腐敗臭の混じった冷たい歯型が食い込んだ。

 噛みちぎられた肉片と血が飛ぶ。

 それらは霧に触れた瞬間、形を失い、赤黒い霧の粒の一部へと溶け込んでいく。


 野津の喉の奥がキュッと狭くなった。


 恐怖だ。

 恐怖に呑まれそうだ。


 病院前でトロールに仲間がバラバラにされた時。

 あの時ともまた違う、もっと底の深いところからわき上がる、原始的な恐怖。 


 トロールの場合は、「怪力の怪物」に殴られた結果だと納得できた。


 だが、この屍鬼たちは違う。


 細い腕。女の体。


 見た目と結果が、まるで釣り合っていない。

 野津は混乱する。

 海の底から連れてこられた何かが、人間の形だけを借りて遊んでいる――そんな悪い想像が頭をよぎった。

 だが。


「今井! 周り、抑えろ!」

「任せて!」


 ──許せねえ……

 怒りが恐怖を塗り替えていった。

 野津が声を張り上げた瞬間、霧がビリ、と震えた気がした。


 咲は即座に位置を変え、柴田と野津をかばうように前へ出た。

 竹刀の先が「霧の壁」を押し開く。

 前方へ向かってまっすぐ伸びる。


 そこへ、ドラウグルの斧が二本、左右から迫る。

『濃霧』のカーテンを裂いて現れたそれは、どちらも海藻を巻きつけた三日月型の刃。

 ルーンの刻印が淡く光り、斧の軌跡に水しぶきのような残光を描く。

 だが、それが振り下ろされるよりも早く──!


 咲の身体が、一拍、速く動いた。


 ボクサーや空手家。

 それを越える動体視力を持つ剣道家。


 咲の竹刀は、それぞれの斧の柄めがけて正確な「突き」を繰り出していた。

 結果、二体の屍鬼はバランスを崩し、そのまま路面にもんどり打った。


 この咲の強さに、霧の奥で、別の屍鬼たちの白い目が、わずかに見開かれた。

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