第222話 ゾーンブレイク/海の屍鬼
第222話
『濃霧』の中で繰り広げられる激闘。
ドラウグルは、蹴り飛ばされる、砕かれる、貫かれる──
たった数分、最初だけ見れば、人間側が圧倒していた。
「なんだよ、ただのゾンビじゃねえか!」
「足りねえな、スリルがよ!」
水城工業や宇和島の不良たちが、口々に吠えながら殴り、蹴り、斧を叩き折る。
芦原空手の小野山のローキックがドラウグルの膝を粉砕し、
宇和島第三の柴田のジャブ連打が顔面を砕き、
小野山の舎弟・櫻井が横からの回し蹴りで首をへし折る。
「ジャブ、ジャブ、ストレート……っと!」
柴田のストレートが、ドラウグルの鼻骨を砕いた。
「小野山ぁ、なんてことないなあ」
柴田は得意満面だ。
「相手がバケモンと聞いてビビってた俺が情けないわ」
「無駄口を叩くな!」
小野山が叱りつけた。
「ヤツらだっておそらく、様子見だ……。俺らがどんな敵か、分からないでいるんだ。その躊躇している間が、隙だ。だから一気に畳み掛ける」
「そう……。一気に……ね」
柴田の動きは素早い。ステップも速い。
ボクサーのパンチに比べれば、ドラウグルの斧の動きなんて、感覚だけで避けられてしまう。
「じゃあ、一気に行くぞ! 小野山、見てな!」
白濁した目。
水膜に覆われた青白い肌。
光を吸い、青いルーンがかすかに滲む金属ビキニ。
片手斧を握る、細いのに異様な腕。
これら異形を素手で。
しかも、拳を壊さないよう手加減しながら。
さらには鎧部分は避けて。
柴田は次々と攻撃を繰り出す。
柴田を中心に、ドラウグルたちが体勢を崩していく。
それが、輪のように広がる。
柴田は興奮していた。
試合の時よりも、感覚が研ぎ澄まされているような気持ちになっていた。
──負けるわけがねえ。この俺が、戦闘の素人相手なんかに!
ただやっかいなのは、相手が、まるで地面を滑るように移動してくることだった。
移動の手前の呼吸が見えない分、思いもよらぬ方向から攻撃を浴びせられることもある。
特に死角からは、ヤバい。
相手は斧。
当たれば終わり。
だが、その死と隣り合わせな感覚が、柴田を異常な興奮状態へと導いていた。
だから遊んでしまう。
相手をサンドバッグのように思って。
倒れそうになったり、よろめくのを楽しむように。
例え五体に囲まれていても、柴田の拳とそのスピードがあれば、全体を攻撃しながら、一体一体、地面に転がすことができる。
(うはっ! こりゃあおもしれえ、練習相手だ。実は俺、ゾーン状態に入ってるかもしれねえ)
ゾーン。それは、人間が自身を縛る鎖を解き放って、最大の力を発揮する脳の状態。
すでに、十体は倒した。
もうあと十体ぐらいも余裕だろう。
(なんたって、小野山さんだって、いるんだからな)
そう思った時だった──
ある一体のドラウグルの「唇」が、微かに吊り上がった。
あまりに人間的な、しかし“人間とは違う”歪み。
白濁した瞳孔の奥で、黒い影が蠢いた。
ゴッ。
柴田には、何が起こったか、一瞬分からなかった。
ぽかんとした表情になる。
違和感を覚えて、自らの手を見る。
ボクサーの拳は、突き出すスピードと引き戻しのスピードがほぼ同じだ。
ゆえに、拳を引く時。
そこを攻撃されるなんて、まったく頭に浮かばなかった。
だから。
柴田は自分の腕を見て──
右腕の肘から先が、なかったことが信じられなかった。
どこにも。
ない。
この『濃霧』が邪魔をして。
どこに落ちているかすら、分からない。
「…………え?」
柴田は、自分の腕を探すように、霧の中を見回す。
次の瞬間──
霧の中から、腕が飛んできた。
柴田の右腕だった。
指先がまだ痙攣している。
その『濃霧』の中から、ドラウグルが出てきた。
こいつだ。
──俺の腕を投げてよこしたのは、こいつ……!?
『濃霧』が……笑ったように揺れた。
海の屍鬼たちが、ゆっくりと、しかし確実に“数を増やして”いた。
魚市場の骨組みの向こうからも、同じ白濁した目がもう十数体、静かに近づいてくる。
海藻の髪が揺れる。
水膜の肌が光を返す。
鎧に刻まれたルーン文字が脈打つように淡く発光する。
どこか遠くで、潮の満ち引きのような低い音がした。
柴田が、膝から崩れ落ちた。
折れた腕の断面から血が噴き、アスファルトに真っ赤な水たまりが広がる。
『濃霧』が血の色に染まる。
ドラウグルたちの白濁した目が──
いっせいに、その血を見つめていた。
まるで“合図”のように。
霧が、震えた。
そして──
海の屍鬼たちが、ゆっくりと口を開いた。
喉の奥から、海水が泡立つような、
ごぼ……ごぼ……という“呼吸音”が響く。
「ぎゃああああああああああああっ!」
ようやくコトを理解した柴田が叫んだ。
その叫び声は、霧の中にいる全員はおろか、バスの中にも響き渡った。
野津が、その声の方を見る。
今井も、構えをそちらの方に向ける。
そうだ。勝てるわけがなかったのだ。
もともと。
単なる人間風情が。
この“海の屍鬼”の大軍に、
立ち向かえるはずがない。
地獄が、歩き出した。
音もなく。
その正体を剥き出しにして。
──そして、ここから始まるのは、単なる殺戮ショーだった。




