第221話 ドラウグル無双/ヤンキー特攻隊
第221話
赤ん坊の泣き声が鳴り響くこのバス内で、星城学園三年・野津俊博は、ただ唖然としていた。
(……マジかよ)
宇和島第三の重戦車・疋田麗央や戦闘狂・寺沢龍雅は分かる。
あいつらはちょっと頭のネジが飛んでいる。
ここで飛び出して行っても、おかしくない。
(でも、まさか、今井まで……)
星城学園剣道部の星。
全国大会で常に上位の今井咲までもが飛び出した。
しかも龍雅の金属バットのような凶器ではなく、“竹刀”に“防具”でだ。
よほど正義感が強いのか、それとも──
窓からバスの外を見る。
濃霧に包まれた景色は、もはや「世界」ではなく、ただの白い虚無だった。遠くの音は吸い込まれ、近くの戦闘の気配だけが生々しく響く。
──いくら剣道全国クラスといっても、女子は女子だ。俺だけが安全なところにいるわけには……
そう野津が思った時である。先に立ち上がったのは、小野山だった。
まだ折れた鼻が繋がらず、鼻梁に固定用ギプスを貼ったまま。
その巨体が座席から立つだけで、軋むような音が車内に伝わった。
「……こりゃあ、俺らも行くしかねえよなあ」
「だよね。ここでじっとして死ぬのはゴメンだし」と宇和島第三の柴田。
柴田はボクサー崩れ。
野津に喧嘩で敗れたとはいえ、格闘経験は豊富だ。
これに、小野山の取り巻きの櫻井が続いた。
「小野山さんが、やられっぱなしってのは、やっぱ、似合わないっすよ」
櫻井、柴田、その他の不良たちが、顔を見合わせる。
肩をたたき合う。
そして、まるで休み時間に校庭へ繰り出すかのようにズカズカと進んでいく。
敵は人間ではないのに──
「ちょ、ちょっと、あなたたち!」
保険医の原田由香里が止めようとする。
だが、小野山らは、原田先生の体を弾き飛ばした。
座席シートに倒れて、腰を打つ原田先生。
そこには、気絶したままの運転手の姿もある。
「い、痛った……」
そうこうするうち、彼らはバスのドアを開けて、次々と濃霧の中へ消えていく。
まるで、霧が“飲み込んでいる”ように。
そして現在、バス内に残ったのは──
原田先生。
赤ん坊を抱く若い母親。
それぞれを守ろうと震える老夫婦。
三十代くらいの夫婦。
震えるサラリーマン。
運転手。
野津、高木。
「野津さん」
肩を叩かれて振り向くと、高木がいた。息を整えながらも、目は決まっている。
「行かないんすか?」
「……お前」
霧の向こうで何かが揺れている。
海藻のような髪が、風もないのに「呼吸するように」ひらひらと。
「この外に、今井センパイだっているんすよ! 助けなきゃ! 俺、もう腹くくりましたから!」
「やめとけ! お前はここに残れ。今外に出ても、殺されるのがオチだぞ」
「でも……。あの北藤ですら、あんなに強くなってるんすよ。俺だって……俺だって、やれば出来ると思うっす。それに野津さんさえいてくれれば、百人力だし」
その高木の肩を野津が握力150キロの手でガシッと握った。
「いいか。お前はまだ一年生だ。原田先生や残った生徒、一般の人らを守るのが仕事だ。お前だけは行かせない。……大丈夫だ。俺が行く」
「でも!」
「いいから。任せとけ」
そのやり取りの斜め後ろでは、例のゲーム廃人のサラリーマンがシートに座ったまま、いまだぶつぶつと呟いている。
「ドラウグル……まさか、そんな怪物が……。ドラウグル……ドラウグル……ドラウグル……勝てっこない。ただの高校生が、あんな化け物らに勝てっこない!」
その声を無視して、野津は言う。
「その代わり、バス内に残った人たちは全員、お前が守れ。いいか。約束だぞ」
「野津センパイ……」
赤ん坊が一際高い声で泣いた。母親は「よしよし」とぎゅっと赤ん坊を抱きしめている。その肩が小刻みに震えている。
そうだ。誰もが怖いんだ──
「ま、まさか。野津くんまで……」
そう言う原田先生を、野津はぐっと横へ押しやった。
「いいんです、原田先生。俺は、とりあえず今井を連れ戻すために行きます。女子にこんな危ない仕事、やらせられねえ……。それに、外に出たアホども全員、ここへ引っ張り込みます。そのために行くんです」
「で、でも。野津くん……」
寡黙な野津が、今日は雄弁だ。
それだけ覚悟をしている、ということかもしれない。
原田先生も、その野津の迫力に圧された。
「……無理は、しないで……」
やっと絞り出せた、というような声だった。
「任せてください。俺だって、元崎さんほどじゃなくても、相当な修羅場はくぐってるんで」
そしてバスのドアを開く。
そこから『濃霧』が一気に流れ込んでくる。
潮と血の匂いが、車内の空気を薄めていった。
「じゃあ」
そして野津の背中も『濃霧』に消えた。
バスのドアを閉め直す音が、異様に力強かった。
原田先生がハッとしたように叫ぶ。
「絶対、無理しないでね! 今井さんを……他校の生徒も、頼むわよ!」
◆ ◆ ◆
外は、白、灰、赤──そして鉄と海の匂いで満ちていた。
「オラァァァァァッ!!」
その不穏の塊を裂くように、龍雅の叫び声が響く。
金属バットが振り抜かれ、ドラウグルの胸板にクリーンヒット。
“生者ではない骨”が砕ける乾いた音が、霧の中を跳ね返った。
細身のヴァイキングの死体が数メートル吹き飛び、海水を滴らせながら地面を転がる。
「おー、飛ぶじゃねえか。ゾンビ女のくせに!」
龍雅の笑みは、もはや人間のものではない。
恐怖の上に立った“戦闘狂の笑み”だった。
その背後──
気配も音もなく、別の一体が斧を振り下ろす。
ドゴッ。
その横顔に、疋田の拳がめり込んだ。
首がありえない角度に折れ、ドラウグルは糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
そう──野津を一撃で沈めた、ケタ違いの拳。
疋田の拳は、龍雅の金属バットよりも凶器だった。
「……柔ぇな」
疋田はそう呟き、足で死体を蹴り飛ばす。
そのまま次の一体へ踏み込み、ボディブローを叩き込む。
腹部が、信じられないほど深く凹んだ。
そこへ──きぃん、と澄んだ金属音。
「はっ!」
今井咲の竹刀が、別のドラウグルの斧の柄の部分を受け止める。
そのまま、渦を巻くように奥へと竹刀を押し込んでいく。
そして竹刀を跳ね上げた。
──巻き技。
相手の竹刀や武器に、巻き付けるようにして回転させて踏み込んでいき、その遠心力で、相手が持つ武器を腕ごと跳ね飛ばす技。
斧が宙を舞った。
ドラウグルが、驚いたように跳ね上げられた自身の腕のほうを見た。
その隙を見逃す今井ではなかった。
即座に半歩踏み込み、突き──喉へ。
竹刀の先端が喉奥にねじ込まれ、
ドラウグルが、海中で潰れたような悲鳴──ピギャアアッ!! と叫びながら背後へ吹き飛んだ。
吹き飛んだドラウグルは漁協の外壁に叩きつけられ、ずるずると落ちていく。
その喉に開いた穴に、『濃霧』が吸い込まれていった。
偶然、『濃霧』の薄い部分からこれを見た野津は、驚きの声を上げそうになる。
(……やべえな、やっぱ、今井……)
剣道三倍段と言われる。
つまり、剣道三段の今井に勝つには、空手、柔道、その他の武道──
すべてその三倍の九段でないと勝てないという言葉だ。
剣道は、竹刀や体の動きなどのスピードがボクサーのそれを超えると言われる。
そんな今井が、弱いわけがなかった。
「今井!」
野津が叫んで、今井に駆け寄る。
「野津くん!」
と、今井はそれを受け止める。
そして自然と、背中合わせの姿勢になる。
「本当に強いんだな、お前」
「野津くんも来てくれたのね。すごく心強い」
「いや。油断すんな。相手はバケモンだ」
「……分かってる」
今井の声からわずかに怯えているのが伝わってくる。
野津は言う。
「いいか。俺から離れるな。そして少しずつバスへ近づくんだ」
「でも……こいつら、放っておいたら。さっきのゴブリンたちみたいに……」
「もう侵入は許さねえ」
その野津の言葉は、今井の怯えを一気に吹き飛ばすには十分な力があった。
「とにかく、背後は俺に任せろ。たとえ剣道でも、面や防具があっても……あいつらが人間じゃねえってことだけは忘れるな。何をしてくるか分かったもんじゃねえ」
言うやいなや、『濃霧』に隠れて襲ってきたドラウグルの斧の柄を、野津は捕まえる。
そのまま150キロ以上の握力で、柄ごと握りつぶしてしまう。
ぽろりと、折られたところから斧の刃先が落ちた。
怯んだところで、野津の拳一発!
宇和島第三の疋田ほどではないかもしれない。
だが、握力150キロの拳は、そのへんの石ころなんかより、よほど硬く圧があった。
ドラウグルは倒れそうになりながら後退し、また『濃霧』の中へと消えた。
――まだ、押せる。
そう錯覚してしまうくらいには。




