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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第220話 ドラウグル・サージ:海の屍鬼襲来

第220話


 聞き慣れない言葉に、野津の動きがピタリと止まった。


(デス・オーバーロード……?)


「あいつらは集団で行動する……。大体、何か大切な宝みたいなものを守るために“配備”されてる死霊たちなんだ……」

「死霊……」

「でも、そのくせ肉体を持ってる。ゾンビみたいなもんで……」


 そこに寺沢龍雅てらさわりゅうがが、ずいっと入り込んできた。

 金属バットを肩にかつぎ、こんな状況なのにへらへら笑いながらサラリーマンに顔を寄せる。


「死霊? ゾンビ? どっちだよ、そりゃ? 要は単なる化け物だろ? 肉体があるってことは、叩きゃぶっ壊れるんだよなあ? だろ?」

「おい、寺沢!」


 だが龍雅は、野津の言葉なんかに耳を傾けない。


「なんでおっさんがよぉ、そんなこと知ってんだ? おっさん、なんか偉い先生?」

「違う……ゲームだ……」

「ゲーム? さっきからゲームゲームって。ゲームがどうしたっつーん……」


「だ・か・ら! 『ドラウグル』だよ!!」


 突如、サラリーマンがつばを飛ばしながら叫んだ。


「うわ、きったねえ」


 龍雅も思わず、顔に飛び散った唾液を制服の袖でゴシゴシこすった。


「……ド……ドラ……?」


 野津は、思わず聞き返した。 

 そこで原田先生が、慌てて待ったをかけた。


「ちょっと待って! なんか聞いたことある……確か北欧の……。待ってて、今調べてみる!」


 その間も、サラリーマンはぶつぶつ言っている。


「死んだバイキングがな、墓から這い出して、船を沈めて、財宝を守って、近づいた奴の魂、喰うんだよ……。普通の武器じゃ死なねえ……首落とすか、燃やすかしねえと……」


 原田先生は、必死で自分のスマホを操作している。

 再び野津は窓の外の光景を見る。


 すでにバスは取り囲まれていた。

 白濁した煮込んだ魚のような目。

 海水のような涙。

 呼吸している気配がないのに、そこに「生きている」悪意だけが濃縮されている感じ──。


 これはただの比喩でも、冗談でもない。


 原田先生は、顔をひきつらせながらスマホの画面をタップし、検索窓に震える指で文字を打ち込んでいる。


「……通信が……」


 画面に、ノイズが走る。

 電波マークが消えたりついたりを繰り返し、文字化けのような記号が表示されたかと思うと、画面全体が灰色のモザイク模様になって固まる。


「やだ……この『濃霧』のせい……!?」


 それでも諦めずにタップする。スワイプする。やがて。


「で、出てきた……!」


 一瞬だけページが読み込まれ、画像と文章がチラッと表示された。

 その刹那を逃すまいと、原田先生は目を凝らす。


「……北欧の伝承に出てくる……死者の怪物……陸にも海にも現れて……」


 指でスクロールしようとするが、またすぐフリーズする。

 それでも、見えた断片を拾いあげるように言葉にしていく。


「生前の執念や、財宝への執着で……墓から起き上がる……生ける死体……。とくに海の『ドラウグル』は、船を沈めて……溺れ死んだ者の魂を……」


 ごくり、と喉を鳴らす。


「……普通の武器が効きにくくて……首を落とすか、焼くか……身体をばらばらにして、別々の場所に埋める……って……。いわゆる、海の屍鬼しき……」

「しき……?」


 龍雅が、眉をひそめる。


「“しかばね”に“鬼”って書いて、屍鬼しき!」


 原田先生が半分ヤケになったような声で言い切った。


「断片的な情報しか分からないけど、北欧に伝わる伝承の怪物みたい。山岳系と、沼みたいな水場、それからダンジョンなんかによく出る……。あ、よく出るっていうのは“ゲーム内”の話ね。共通してるのは、何か大切なもの──宝物とか、偉大な王の遺体とか、そういう“大事なもの”を守るように、周りをうろついてるってこと」


 いまいち野津には理解できない。

 原田先生は独り言を始める。


「『ゴブリン』に『トロール』……そしてこの『ドラウグル』……。どれも“北欧”って言葉が共通してる。そして『ドラウグル』は死霊のたぐいだけど、肉体を持っていて……“大切なもの”を守る番人みたいな役割をしてる」


「な、なんですか、それは……」野津にはそれが呪文か何かのように聞こえる。

 だが原田先生は、情報整理で頭がいっぱいで、野津の声が届いていない。


「もし──仮に、よ。この水城全体を“ダンジョン”だと考えるなら。馬鹿げた話だけど、そう考えるなら、この水城には何か“重要なもの”が隠されていて……それを守るために、侵入者である私たちを攻撃してきた……」


 龍雅が頭をがしがしかきむしる。

 意味わかんねーっていう顔だ。

 だが、その間にも、『ドラウグル』たちの数は増えていた。


 霧の向こうに、同じような影が十、二十と増えていく。

 すでにバスの側面を、ぐるりと囲むように立っているのが分かる。


 窓ガラスに、白い手がぬうっと張りついた。

 指の間から海水がじわりと染み出し、ガラスの表面を伝って流れ落ちる。

 それがどこかでひとかたまりになって、じゅっ、と煙を上げて蒸発した。


 反対側の窓にも、別の女が顔を押しつけてきた。

 ガラスに押しつぶされて変形した鼻筋。その横で、白い目がくわっと大きく見開かれていく。


 車体の下からも、ぴちゃ……ぴちゃ……と水が滴る音がする。

 タイヤの隙間からのぞくアスファルトには、いつの間にか水たまりができていた。

 ──バスの下にも……潜り込んでいる……?


「……完全に……囲まれてる……」


 誰かが小さな声で言った。


「……これ、ヤバくね?」

「ど、どうすりゃいいんだよ……」


 老夫婦のおばあさんは、おじいさんの腕にしがみついたまま震えている。

 おじいさんは歯を食いしばりながらも、なんとか妻の肩を抱き寄せていた。


 原田先生は、赤ん坊を抱えた若い母親のそばにしゃがみ込んだ。


「大丈夫、大丈夫だから……今はここから出なければいいの。いい? この中にいれば、安全だから……」


 言いながら、自分でもその言葉を信じきれていないのが野津には分かった。


 そんなとき。


「……なんでもいい」


 低い声が車内を割った。


 疋田麗央ひきたれおだ。

 他の連中よりひと回り大きい体躯。190センチは越えるような巨体がぬっと立ち上がる。


「体があるってんなら、お化けじゃねえ。ぶっ潰せば済むだろ」


 その言い方は、昼休みに売店のパンをどれにするか決めるくらいの軽さだった。


(……マ、マジかよ)


 野津は、思わず心の中で呻く。


「おーし!!」


 さらに一段高い声。


「あの未亡人ども、ぶっ倒すぜぇ!!」

「み、未亡人?」


 どこをどう聞いたらそんな話になるだろう。

 だが寺沢龍雅は、金属バットを肩に担いで笑っている。

 状況に似合わぬニヤニヤ笑い。


「お、おい龍雅! お前、まさか……」


 止める声は、口から出るより先に空気の圧に押し負けた。


「体がスケスケじゃねえってことは、ぶっ叩けば潰れんだろ!? じゃあ潰してやろうじゃねえの! ひゃああ! 思う存分、女ぶっ飛ばすなんて、いまだやったことねーわ。こりゃあ、行くしかねえだろう!」


 龍雅はバスのドアへと向かう。

 非常用レバーに手をかける。

 乱暴に引き下ろす。


 それもすごい速さで。


 ガコン、と音を立ててドアが開く。

 冷たい霧が、一気に車内に流れ込んできた。


「おめーらが行かねえなら、俺が行く。おめーらはせいぜい、そこで震えてな!」


 その背後に疋田ひきたが立っていた。そして龍雅の背中を追うようにゆっくりと歩き出す。

 重戦車みたいな足取りだ。

 戸惑いも恐れも、歩幅の中には見られない。


「お、おう。疋田!」


 野津が止めるのも聞かず、疋田は龍雅の後を追って、その『濃霧』の中へと消えた。


「あいつら、何も分かってねえ状況で、なに外に出てんだよ……!」


 だがそのとき、車内の後ろのほうで、カチャ……カチャ……と規則正しい金属音がしたのを、野津は聞いた。


 振り向く。

 そこには、正座をした今井咲いまいさきがいた。


 彼女は黙々と防具を装着している。

 綿タオルを頭に巻き付け、剣道の面をかぶり、紐を背後でキュッと強く結ぶ。

 小手に手を通し、その手で竹刀をきゅっと握り直す。

 その所作は、道場で何百回と繰り返したであろう無駄のない動きだった。


「今井、お前……」


 思わず声が漏れる。

 その今井に、野津の声は届いていたであろう。

 だが今井はこちらを見なかった。

 面の下の目が、すでに「戦い」の場しか見ていないのが分かる。


 竹刀を手に、すっと立ち上がった。


「竹刀──お前……あいつらが持ってるのは斧だぞ。手斧……それを、竹刀で……?」


 バスの出口に向かって歩き出しながら、今井は静かにこう言う。


「竹刀でだって、私なら人を殺すことができる……!」


 その声音は、普段の柔らかさを完全に捨て去っていた。

 剣道三段。全国ベスト4。

 その肩書きが、今はただひとつの方向に向かって尖っている。


(……やべえ、みんなどうかしちまってる……)


 野津は、頭を抱えた。


(なんなんだよ、これは……。『ゴブリン』だの『トロール』だの、今度はド……『ドラウグル』……? バカバカしい! それ全部、ゲームの話じゃねえのかよ……)


 だが、窓に張りついた女の白い目と、海水の涙と、斧の刃から立ちのぼる冷気は、現実そのものの重さでこちらを押し潰してくる。

 それに『ゴブリン』と『トロール』。

 野津らは、病院の駐車場で、実際にそいつらと交戦をした。


(……ゲーム……じゃねえのか)


 霧の中から、龍雅の笑い声が響き、疋田が何やら「ふん!」と声を上げ、肉と肉がぶつかる鈍く、それでいて湿った音が聞こえてくる。


 そんな中を、今井が竹刀を携えたまま、風を切るような速さで出口へ向かった。


「おい、今井!」


 呆然とする野津。

 この様子を、原田先生もただ見ているしかなかった。

 教師と言えど、この混乱状態では、本来の知性や理性がうまく働いていない。


 バスの中に残された者たちは、誰ひとりとして声を出せなかった。

 ただ、赤ん坊の泣き声だけが、ひたすらに、世界の終わりみたいに響き続けていた。

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