第220話 ドラウグル・サージ:海の屍鬼襲来
第220話
聞き慣れない言葉に、野津の動きがピタリと止まった。
(デス・オーバーロード……?)
「あいつらは集団で行動する……。大体、何か大切な宝みたいなものを守るために“配備”されてる死霊たちなんだ……」
「死霊……」
「でも、そのくせ肉体を持ってる。ゾンビみたいなもんで……」
そこに寺沢龍雅が、ずいっと入り込んできた。
金属バットを肩にかつぎ、こんな状況なのにへらへら笑いながらサラリーマンに顔を寄せる。
「死霊? ゾンビ? どっちだよ、そりゃ? 要は単なる化け物だろ? 肉体があるってことは、叩きゃぶっ壊れるんだよなあ? だろ?」
「おい、寺沢!」
だが龍雅は、野津の言葉なんかに耳を傾けない。
「なんでおっさんがよぉ、そんなこと知ってんだ? おっさん、なんか偉い先生?」
「違う……ゲームだ……」
「ゲーム? さっきからゲームゲームって。ゲームがどうしたっつーん……」
「だ・か・ら! 『ドラウグル』だよ!!」
突如、サラリーマンがつばを飛ばしながら叫んだ。
「うわ、きったねえ」
龍雅も思わず、顔に飛び散った唾液を制服の袖でゴシゴシこすった。
「……ド……ドラ……?」
野津は、思わず聞き返した。
そこで原田先生が、慌てて待ったをかけた。
「ちょっと待って! なんか聞いたことある……確か北欧の……。待ってて、今調べてみる!」
その間も、サラリーマンはぶつぶつ言っている。
「死んだバイキングがな、墓から這い出して、船を沈めて、財宝を守って、近づいた奴の魂、喰うんだよ……。普通の武器じゃ死なねえ……首落とすか、燃やすかしねえと……」
原田先生は、必死で自分のスマホを操作している。
再び野津は窓の外の光景を見る。
すでにバスは取り囲まれていた。
白濁した煮込んだ魚のような目。
海水のような涙。
呼吸している気配がないのに、そこに「生きている」悪意だけが濃縮されている感じ──。
これはただの比喩でも、冗談でもない。
原田先生は、顔をひきつらせながらスマホの画面をタップし、検索窓に震える指で文字を打ち込んでいる。
「……通信が……」
画面に、ノイズが走る。
電波マークが消えたりついたりを繰り返し、文字化けのような記号が表示されたかと思うと、画面全体が灰色のモザイク模様になって固まる。
「やだ……この『濃霧』のせい……!?」
それでも諦めずにタップする。スワイプする。やがて。
「で、出てきた……!」
一瞬だけページが読み込まれ、画像と文章がチラッと表示された。
その刹那を逃すまいと、原田先生は目を凝らす。
「……北欧の伝承に出てくる……死者の怪物……陸にも海にも現れて……」
指でスクロールしようとするが、またすぐフリーズする。
それでも、見えた断片を拾いあげるように言葉にしていく。
「生前の執念や、財宝への執着で……墓から起き上がる……生ける死体……。とくに海の『ドラウグル』は、船を沈めて……溺れ死んだ者の魂を……」
ごくり、と喉を鳴らす。
「……普通の武器が効きにくくて……首を落とすか、焼くか……身体をばらばらにして、別々の場所に埋める……って……。いわゆる、海の屍鬼……」
「しき……?」
龍雅が、眉をひそめる。
「“屍”に“鬼”って書いて、屍鬼!」
原田先生が半分ヤケになったような声で言い切った。
「断片的な情報しか分からないけど、北欧に伝わる伝承の怪物みたい。山岳系と、沼みたいな水場、それからダンジョンなんかによく出る……。あ、よく出るっていうのは“ゲーム内”の話ね。共通してるのは、何か大切なもの──宝物とか、偉大な王の遺体とか、そういう“大事なもの”を守るように、周りをうろついてるってこと」
いまいち野津には理解できない。
原田先生は独り言を始める。
「『ゴブリン』に『トロール』……そしてこの『ドラウグル』……。どれも“北欧”って言葉が共通してる。そして『ドラウグル』は死霊のたぐいだけど、肉体を持っていて……“大切なもの”を守る番人みたいな役割をしてる」
「な、なんですか、それは……」野津にはそれが呪文か何かのように聞こえる。
だが原田先生は、情報整理で頭がいっぱいで、野津の声が届いていない。
「もし──仮に、よ。この水城全体を“ダンジョン”だと考えるなら。馬鹿げた話だけど、そう考えるなら、この水城には何か“重要なもの”が隠されていて……それを守るために、侵入者である私たちを攻撃してきた……」
龍雅が頭をがしがしかきむしる。
意味わかんねーっていう顔だ。
だが、その間にも、『ドラウグル』たちの数は増えていた。
霧の向こうに、同じような影が十、二十と増えていく。
すでにバスの側面を、ぐるりと囲むように立っているのが分かる。
窓ガラスに、白い手がぬうっと張りついた。
指の間から海水がじわりと染み出し、ガラスの表面を伝って流れ落ちる。
それがどこかでひとかたまりになって、じゅっ、と煙を上げて蒸発した。
反対側の窓にも、別の女が顔を押しつけてきた。
ガラスに押しつぶされて変形した鼻筋。その横で、白い目がくわっと大きく見開かれていく。
車体の下からも、ぴちゃ……ぴちゃ……と水が滴る音がする。
タイヤの隙間からのぞくアスファルトには、いつの間にか水たまりができていた。
──バスの下にも……潜り込んでいる……?
「……完全に……囲まれてる……」
誰かが小さな声で言った。
「……これ、ヤバくね?」
「ど、どうすりゃいいんだよ……」
老夫婦のおばあさんは、おじいさんの腕にしがみついたまま震えている。
おじいさんは歯を食いしばりながらも、なんとか妻の肩を抱き寄せていた。
原田先生は、赤ん坊を抱えた若い母親のそばにしゃがみ込んだ。
「大丈夫、大丈夫だから……今はここから出なければいいの。いい? この中にいれば、安全だから……」
言いながら、自分でもその言葉を信じきれていないのが野津には分かった。
そんなとき。
「……なんでもいい」
低い声が車内を割った。
疋田麗央だ。
他の連中よりひと回り大きい体躯。190センチは越えるような巨体がぬっと立ち上がる。
「体があるってんなら、お化けじゃねえ。ぶっ潰せば済むだろ」
その言い方は、昼休みに売店のパンをどれにするか決めるくらいの軽さだった。
(……マ、マジかよ)
野津は、思わず心の中で呻く。
「おーし!!」
さらに一段高い声。
「あの未亡人ども、ぶっ倒すぜぇ!!」
「み、未亡人?」
どこをどう聞いたらそんな話になるだろう。
だが寺沢龍雅は、金属バットを肩に担いで笑っている。
状況に似合わぬニヤニヤ笑い。
「お、おい龍雅! お前、まさか……」
止める声は、口から出るより先に空気の圧に押し負けた。
「体がスケスケじゃねえってことは、ぶっ叩けば潰れんだろ!? じゃあ潰してやろうじゃねえの! ひゃああ! 思う存分、女ぶっ飛ばすなんて、いまだやったことねーわ。こりゃあ、行くしかねえだろう!」
龍雅はバスのドアへと向かう。
非常用レバーに手をかける。
乱暴に引き下ろす。
それもすごい速さで。
ガコン、と音を立ててドアが開く。
冷たい霧が、一気に車内に流れ込んできた。
「おめーらが行かねえなら、俺が行く。おめーらはせいぜい、そこで震えてな!」
その背後に疋田が立っていた。そして龍雅の背中を追うようにゆっくりと歩き出す。
重戦車みたいな足取りだ。
戸惑いも恐れも、歩幅の中には見られない。
「お、おう。疋田!」
野津が止めるのも聞かず、疋田は龍雅の後を追って、その『濃霧』の中へと消えた。
「あいつら、何も分かってねえ状況で、なに外に出てんだよ……!」
だがそのとき、車内の後ろのほうで、カチャ……カチャ……と規則正しい金属音がしたのを、野津は聞いた。
振り向く。
そこには、正座をした今井咲がいた。
彼女は黙々と防具を装着している。
綿タオルを頭に巻き付け、剣道の面をかぶり、紐を背後でキュッと強く結ぶ。
小手に手を通し、その手で竹刀をきゅっと握り直す。
その所作は、道場で何百回と繰り返したであろう無駄のない動きだった。
「今井、お前……」
思わず声が漏れる。
その今井に、野津の声は届いていたであろう。
だが今井はこちらを見なかった。
面の下の目が、すでに「戦い」の場しか見ていないのが分かる。
竹刀を手に、すっと立ち上がった。
「竹刀──お前……あいつらが持ってるのは斧だぞ。手斧……それを、竹刀で……?」
バスの出口に向かって歩き出しながら、今井は静かにこう言う。
「竹刀でだって、私なら人を殺すことができる……!」
その声音は、普段の柔らかさを完全に捨て去っていた。
剣道三段。全国ベスト4。
その肩書きが、今はただひとつの方向に向かって尖っている。
(……やべえ、みんなどうかしちまってる……)
野津は、頭を抱えた。
(なんなんだよ、これは……。『ゴブリン』だの『トロール』だの、今度はド……『ドラウグル』……? バカバカしい! それ全部、ゲームの話じゃねえのかよ……)
だが、窓に張りついた女の白い目と、海水の涙と、斧の刃から立ちのぼる冷気は、現実そのものの重さでこちらを押し潰してくる。
それに『ゴブリン』と『トロール』。
野津らは、病院の駐車場で、実際にそいつらと交戦をした。
(……ゲーム……じゃねえのか)
霧の中から、龍雅の笑い声が響き、疋田が何やら「ふん!」と声を上げ、肉と肉がぶつかる鈍く、それでいて湿った音が聞こえてくる。
そんな中を、今井が竹刀を携えたまま、風を切るような速さで出口へ向かった。
「おい、今井!」
呆然とする野津。
この様子を、原田先生もただ見ているしかなかった。
教師と言えど、この混乱状態では、本来の知性や理性がうまく働いていない。
バスの中に残された者たちは、誰ひとりとして声を出せなかった。
ただ、赤ん坊の泣き声だけが、ひたすらに、世界の終わりみたいに響き続けていた。




