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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第219話 海の死者たち

第219話


 その“何かの音”は続けざまに聞こえてくる。


 ――ボン……ボン……。


 さっきより近い。重い衝撃が、連続して車体を殴りつけた。

 金属が軋み、座席の足元まで振動が伝わる。

(……なんだ……?)


 石か? 誰かが外から投げている?

 いや──さっきの『ゴブリン』か?


 そう思って野津は、自分の思考に半ば呆れ、半ば笑いそうになった。


(ゴブリン……だの何だの……俺もどうかしてる)


 あまりに現実味がない。

 だが『ゴースト』という得体の知らない人の形をした化け物が『濃霧』に乗ってやってくる土地だ。

 何が起こっても仕方ない、といえば仕方がない。


 そう考えていたが…。

 いや、音が違う。そう思った。

 粘つくような音だ。

 “肉”がぶつかったとしか思えない、湿った重さがある。


 割れた窓から、潮の匂いが一気に入り込んだ気がした。 

 そうだ。あの疋田のバカが、馬鹿力で叩き割った――


 確か、バスの窓は二重構造の“割れにくいガラス”だったはずだ。

 ハンマーで叩いてもヒビ程度──それを拳で粉砕した。 

 それを拳で……


 野津は宇和島からの刺客・疋田麗央ひきたれおの人間離れした腕力に、改めて背筋が凍りそうになった。


(あんなの、まともに喰らったら……)


 野津が冷静に分析するなか、バスの中の一般人らが大騒ぎを始めている。


「な、なんだよ今の音……」

「また……『ゴースト』か……?」

「いや、あの『ゴブリン』みたいなヤツかも」

「や、やめろって……そういうの、マジで……」


 座席のあちこちから囁き声が上がる。

 サラリーマンは、さっきからずっと同じ言葉を繰り返していた。


「……横転してた……絶対横転してた……おかしい……これバグってる……リセット……リセット……」


 意味をなさない呟き。

 目の焦点が合っていない。完全にパニック寸前だ。


 同時だった。


 ――バンッ!!


 今度ははっきりとした音が、バスの側面から鳴った。

 ガラスがびりっと振動し、吊り革がいくつか揺れるほどの。


 これに車内が一斉に静まり返った。


 誰も息をしていないんじゃないか、と思うくらいの沈黙。

 野津は、ゆっくりと近くの窓に顔を寄せていく。


 白い。

『濃霧』の色で、何もかもが塗りつぶされている。


 だが、さっきよりも『濃霧』の「層」が薄くなっているように感じる。

 そしてその「層」の向こう側にあるものが、少しだけ輪郭を増していて――


(……人影……?)


 見えた。


 魚市場の方から、黒い点が近づいてくる。

 一つ。二つ。三つ……。

 やがて十、二十と増えていく。


 肩から下だけの“黒い切り絵”のような影が、霧の底をずぶずぶと歩いてくる。

 足音は聞こえない。代わりに、ぴちゃ……ぴちゃ……と水が滴る音だけがかすかにする。


(な。なんだ、こいつらは……)


 背筋が、ぞわりと粟立った。


 その瞬間、バンッ! と大きな音がして何者かがガラス越しに野津の視界を遮った。


 ――お、女……?


 それは白濁した目を持つ、まるで溺死体のような色をした女の姿だった――!


 その異様さに野津は思わず釘付けになる。

 あくまでも窓に張り付いた様子からだけだが――

 まず、髪。

 青緑の海藻が、頭からそのまま垂れ下がったように……


 次に目。目は真っ白だ。

 瞳も虹彩も溶けてしまったみたいに、白い膜で覆われている。

 それなのに、そこから冷たい視線を向けられているのがハッキリと分かる。


 そしてその肌だ。

 肌は、海で長く浸かって膨張した死体のように、青白く、ところどころ青緑色の斑点が浮かんでいる。鎖骨や上腕には、まるで貝殻が貼り付いているかのように白い破片がこびりつき、そこから薄い海藻の糸が垂れている。


 胸と腰には、金属のビキニのような鎧。

 いやだが、ただのビキニアーマーではない。


 びょう薄い鉄板が三日月形に胸を最低限だけ覆い、その表面には見慣れない線と記号が刻まれている。それは「Z」にも見えるし、「F」にも見える、斜めに組み合わさった奇妙な文字。それらが淡い水色にじわじわと光っている。


 ずるずる……。


 やがて、それは窓の下へとずり落ちていった。

 そうして広がった視界から、霧の中で似た姿をした女のような“何か”が、このバスの周囲を取り囲もうとしているのが見えた。


 彼女たちは、それぞれが同じような姿をしていた。


 腰のベルトには、さっきの「Z」にも「F」にも見える青白く光る文字のついた金属板がいくつかぶらさがっている。その下からは、もともとは革のスカートだったであろうものがぼろぼろにちぎれて揺れていた。


 むき出しの太ももは細く、女子高生ほどの線の細さなのに──

 その内部だけが“海水を含んだように”ぐにゃりと脈動している。


 そして驚いたのが、そいつらが手に持っているものだ。

 右手には、古びた片手斧。

 刃の部分はところどころ錆びているが、その錆びの隙間からは、まるで冷気のような白い靄が漏れ出している。


 柄は黒ずんだ木。指がめり込むほど強く握られており、爪の間には黒い泥と海藻が詰まっていた。


 足元からは、滴り落ちる潮の音。

 車体のすぐ近くに立っているのに、その足はほんの少し浮いているようにも見える。


 そいつらの白い目が、ぴくりとも動かないままガラス窓から覗いている野津を捕らえた。

 頬のあたりの肌が、ぷくりと泡立つ。


(な、なんだ、こいつら……)


 次の瞬間、女の目尻から、とぷ、と透明な液体がこぼれ落ちた。


 涙だ。


 だが、それは涙ではない。


 流れ落ちたそれは、海水のような潮の泡のようなものをつくりながらじわりと垂れ下がっている。


(……『ゴースト』でも『ゴブリン』でもねえ……こいつら……新手の化け物か……?)


 喉が凍りついたみたいに動かない。


 女の一人が、ゆっくりと口を開けた。


 中には、黒ずんだ歯と、舌の代わりにごそっと海藻の束が詰め込まれている。


 その海藻の間から、泡が幾つもぼこぼこと溢れては弾けた。


「ひっ……ひぃい……!」


 座席の後ろで、母親が短く悲鳴を上げる。

 赤ん坊の泣き声が一段と高くなった。


「な、なんだよ……あれ……」

「人……?」

「ゾンビ映画……?」


 車内がざわつく。

 サラリーマンが、がたがたと震える膝を抱えたまま、震え声で呟いた。


「い、いや……ち、違う……」


 その声に真っ先に反応する。

 野津が窓を離れ、サラリーマンに駆け寄る。


「どうした!? 何があった!? お兄さん、あんた、あれが何か知ってるのか!?」

「モ、モンスター……」

「モンスター……?」


 サラリーマンは親指の爪を歯でかじり始める。

 それがあまりにも強くて、指の皮まで噛みちぎり、血が流れ始める。


「モンスターだ……!!」

「そんな、漁師の怪談話じゃねえんだから……」


 漁師の怪談──。

 野津の口から思わず零れた言葉を、自ら先回りするように否定する。


(確かに、海には変な話は多い。船幽霊だとか、海坊主だとか、海から還ってくる溺れた死体の話とか……)


 だが、どれも野津が想像するような怪異たちと、目の前のこいつらは姿がまるで違う。

 むしろ、西洋人のような顔立ちに見える。


「お、俺……わかるんだ……分かるんだよ、こういうのは……」


 サラリーマンの目が血走っている。

 焦点は合ってないが、その言葉だけは妙に芯があった。


「なんだ! 今なんて言った? 分かる? あんた、知ってんのか、こいつらを! なんなんだ、一体! 教えてくれ! 教えろよ!」


 普段大人しいはずの野津が、早口になり、サラリーマンの肩をガクガクと揺らす。

 揺らされるるままに、サラリーマンは親指の血を周囲に散らしながら言う。


「俺、ゲームは詳しいんだ……。ゲームには……」

「どういうことだ! ゲームがどうした!?」

「ファンタジー……ファンタジーゲーム……」

「ファンタジーゲーム? 今はゲームの話なんかしてる場合じゃ……!」

「ゲームに出てくるんだよ!!!」


 突如、そのサラリーマンが、急に意識を取り戻したかのように野津に向かって叫んだ。

 あまりの剣幕に、さすがの野津も驚いて一歩、後退りする。


「ゲームに出てくる……?」


 サラリーマンは再び自分の親指の先をかじり始める。


「そうだ、あいつらはダンジョンだったり、山岳地帯にいたり、海の近くにいたりする……」

「どういうことなんだ! ハッキリ教えてくれ! 皆の命がかかってるんだぞ!」

「……デス・オーバーロード、だよ……!」

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