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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第218話 港に現れた亡霊バス

 第218話 


 水城市魚市場前の大通り。大黒通り。

 四国随一の水揚げ量を誇る市場の前に、その路線バスが──まるで瞬間移動でもしたかのように──突如とつじょ現れてから、どれくらい時間が経ったのか。


 誰も、その「移動」の瞬間を見ていない。ただ、気づいたときには、ここにいた。


 ――頭が、痛い……。


 目の奥で、誰かに鈍い金槌かなづちでも振り下ろされているみたいだ。


 まるで何週間も寝っぱなしだったあとのような、朦朧もうろうとした意識の中で、野津俊博のずとしひろはぼんやりと、そう思った。


 ――喧嘩でも、こんなふうにはなったことねーぞ……。


 親父から殴られ慣れてはいるが、「頭の奥から揺すぶられる」感覚は初めてだ。


 もともと、血の気が多いタイプってわけじゃない。

 ただ漁師の息子として育ち、子どもの頃から喧嘩という喧嘩でろくに負けたことがない。握力は百五十キロを超え、身長も百八十センチ近く。


 サバやイワシの大漁のとき、網の重さは平気で数百キロを超える。

 大人たちと一緒とはいえ、その重さを扱い慣れている野津にとって、ほとんどの人間は赤子同然だ。片手だけで持ち上げられるような軽さ。


 網ごと持ち上げる腕に比べれば、不良の一人や二人、重さのうちに入らない。


 それでも──。


 こんなふうに、脳みそを直接殴られたみたいなダメージを感じたことは、ほとんどなかった。


 頭の中で、どこぞの祭り囃子みたいにラッパと太鼓と猫の鳴き声がごちゃ混ぜになって鳴り響き、頭蓋骨の内側をガリガリとひっかいている。

 耳鳴りなのか記憶の残響なのか、自分でも判別がつかない。


 ――確か、病院にいて……濃霧に囲まれて……それから、あそこから脱出しようとして……。


 なかなかまぶたが開かない。

 血しぶきを上げながら倒れていくゴブリンの映像が、ふっと脳裏をよぎった。

 はげ上がった頭に高い鼻。金色の瞳は縦に割れていて、その目をギョロつかせながら、大量の群れで襲ってきて──


 バスの窓を割って乗り込んでくる石斧いしおの。仲間の悲鳴。鉄と血の匂い。


 ――やべえ、らねえと……!


 そこで、ようやくハッと目を見開いた。

 視界に、現実の色が戻ってくる。


 グレー系の塩ビシートの床が視界に飛び込んでくる。

 その上に、紺色に近い青い座席がずらりと並び──


 血の跡も、割れたガラスも、さっきよりは少ないように見える。


「あああああん! ああああああん!」


 甲高い泣き声が、車内いっぱいにこだました。

 鉄とオイルの匂いの中で、その泣き声だけがやけに生き物らしく響く。


 ゴブリンじゃない……、赤ん坊の泣き声だ。


「よしよし! もう大丈夫だからね……。ママ、ここにいるからね……」


 震えているのは赤ん坊ではなく、母親のほうだ。


 まだ夢の続きかと一瞬思う。

 だが、耳の奥には、別の音が重なっている。


 ――ザパァン……ザザァ……。


 波の音だ。さっきまでの喧騒ではない、もっと聞き慣れた音。

 遠く……いや、近い。


 その波音の上に、さっきの赤ん坊の泣き声が乗っかる。

 それが妙に、生々しく響く。

 港町で育った身体が、「海が近い」と先に理解する。


「だいじょうぶ、だいじょうぶよ……ママいるから……ママいるからね……」


 震えながらなだめる女の声。

 若い母親だ。声がかすれている。

 喉を絞り出すみたいなその声に、さっきまでの恐怖がどれほどだったかが逆に浮かび上がる。


(……そうだ! 路線バス……。俺たちは、病院からこれに乗って逃げてきて……)


 そこでようやく自分の身体を起こした。

 筋肉はまだ言うことをきかないが、それでも無理やり上半身を引きはがす。


 視界が揺れる。

 クラクラする頭を押さえる。

 そして野津は、ようやく最初の「違和感」に気づいた。


 ――バスが、“横転”していない。


 さっきまで天井だったものが、ちゃんと「上」にある。

 視界の中の通路は、まっすぐだ。

 乗務員席も水平で、床はちゃんと「床の位置」にある。


(……どういうことだ。横転してたはずだろ、さっきまで)


 喉がひゅっと鳴る。

 息が胸の浅いところで止まったまま動かない。

 さっきの衝撃のせいか、それとも――この“ありえなさ”のせいか。


 そのとき、後ろで赤ん坊がひときわ大きな声で泣いた。


「あああああん! あああああん!」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ……ママいるから……っ」


 若い母親が、座席に背を預けたまま、必死に赤ん坊を胸へ押し寄せる。

 頬は涙で濡れ、声は震えっぱなしだ。


 そこに老人の声が混ざる。


「……腰が……いかん……」

「わしは大丈夫じゃ。ほれ、手……貸してくれ……ゆっくりでええ……」


 老夫婦が互いの袖を掴みあって、時間をかけるように起き上がる。


 一方、通路側の座席では、顔面蒼白のスーツ姿の男。


「違う……違うだろ……横転してた……横転してたんだって……! ここどこだよ……なんで……なんで元に戻って……!」


 サラリーマンは、誰に言うでもなく手すりにしがみつきながら呟き続ける。

 額には脂汗、唇は乾いてひび割れている。さっきまで悲鳴を上げていた喉が擦り切れているのか、声が妙にかすれていた。


(……こいつ、生きてたんだな)


 駐車場で一度、濃霧の「何か」に飲まれて消えたサラリーマンとは別の男だ。

 病院から乗せた、生存者組。

 そのうちのひとりが、怯えきって体を小刻みに揺らしている。


 例の不良連中も、あちこちから呻き声を上げながら起き上がり始めていた。


「いってぇ……耳キンキンだわ……なんだよ、これ……」


 寺沢龍雅てらさわりゅうがだ。

 耳の後ろを押さえつつも、金属バットだけは本能で抱え込んでいた。

 どんな状況でも“それだけは離さない奴”なのだと改めて思う。


「……チッ。首……つまってんな……」


 宇和島第三の疋田麗央ひきたれおは無表情のまま首を回し、背骨から鈍い音が鳴った。 


 女子の声もした。


「……竹刀……無事……よかった……」


 あれは確か……

 今井咲いまいさく

 県道三段。全国大会個人戦でもトップのほうまで上り詰めたと聞く剣豪だ。

 今井は震えた指で竹刀を確かめていた。


「今井さん、大丈夫? やっと目が覚めたのね」と保険教師の原田由香里。


 それから次々と、脱出組が目を覚まし始めた。


「う、うおお、鼻、また折れてる……超痛え……」


 水城工業の暴れ牛、小野山だ。鼻梁のギプスを手で押さえてうずくまる。その隣で同じく水城工業の櫻井が「だから言ったじゃないですか、病院でちゃんと診てもらえって」と、いつも通りのツッコミを入れている。


「いててて……腕、折れてね? これ……」


 そう言って起き上がったのは、ボクサー上がりの柴田。

 自分の手首をひねったりしながら状況を確認している。

 ここで原田先生が通路の中央で声を張り上げた。


「点呼取るから! 怪我してる人は言って!」


 スカートの裾は汚れ、タイツの膝のあたりが破れているが、それでも教師としての反射が先に動いているようだ。


(……全滅は、してねえか)


 襲い来るゴブリンたち。

 そのあまりの数に、もしやとは思っていたが……。


 原田の声に合わせて声を上げていく生き残り組を見ながら、野津は、ぼんやりと車内を見渡した。全員無事なんて甘い状況ではないが、それでも「生きている」という事実だけは間違いない。

 ただ、バスの運転手だけは、気絶したまま、まだ目を覚ましていなかった……


 そのとき、後ろのほうで誰かが、ぽつりと呟いた。


「……あの外人二人が……いねえぞ……」

「……そういえば」

「バラキとラミーだっけか……」

「黒い帽子の……」


(……あの黒ずくめの兄ちゃんとメスガキ……)


 バスが横転する直前まで、そこにいたはずのふたり。

 ゴブリンに囲まれ、石斧がガラスを叩き割り、悲鳴と怒号と血の臭いにまみれていた、あの混乱の中で――


 彼らの姿は、今、どこにもなかった。


 得体の知れない違和感。


 だが、それを考えるより先に、今は他に気にするべきことがあった。


 野津は、窓の外に目を向ける。


 霧は深く、世界の輪郭がすべてぼやけている。

 だが、白の向こうに四角い建物の影……横長の看板……。


(……水城みずき漁業組合……)


 いつの間に、こんなところまで飛ばされたんだ……!?


 左手側、霧の向こうにぼんやりと「水城漁業協同組合」の看板が浮かび上がっている。

 右側には、巨大なカマボコ屋根のシルエット。四国でも有名な大きな魚市場。その屋根だ。


 潮と魚の生臭さは、どんな霧でも誤魔化せない。

 ここが“港の息”の真横だと、鼻が先に理解していた。


(……つまり、目的地じゃねえか)


 そこは野津たちの目的地であり、よく知った場所。

 夜明け前のセリの時間帯にはフォークリフトとトラックでごった返す、あの大通り。


 それが今は見る影もない。

 見る影どころか人影ひとつない。

 代わりに、霧にすべてを飲み込まれ、深く深海の底にあるように静まり返っている。


 道路の端には、白いコンテナを載せたトラックが一台、ぽつんと止まっていた。

 エンジンはかかっていないが、タイヤはしっかりとアスファルトを踏んでいる。


(……あれだ!)


 そこまでは大きくない。

 だがあれを使えば、病院に戻って、残された人々を救出することができる。

 そのための、このバスを使った脱出劇だったが……


 喉の奥で、かすかに呟こうとしたその瞬間だった。


 ――……ボン。


 低い。腹の底を押されるような音だった。

 外壁が、ほんのわずかに“息を吸った”みたいに揺れる。


「ひっ……!」


 若い母親が、赤ん坊を抱きしめたまま、短く悲鳴を漏らした。


 車内の全員が──赤ん坊でさえ泣き止み、ほんの一瞬だけ静まり返った。


(……今、何かが──触れた?)


 その“何か”の正体を、まだ誰も知らない。

 だが、この霧の奥で──“何か”が、確かに動き始めている。


 霧はゆっくりと脈を打つように揺れ、その奥で“それ”は目を覚ましつつあった。

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