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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第217話  殺戮の姫君より【堕】──花嫁の座

「あなたのその優しさ、少し違う色に見えるの。……ねえ、その罪を、だれかに告げられた?」


 美優の声が落ちた瞬間、部屋のどこかで細いひびの入る音がした。

 誰もカップを落としていないのに。

 乃々は、こくりと喉を鳴らした。

 

「……罪、なんて」


 やっとの思いで絞り出した声は、自分のものとは思えないほど薄かった。


「ボクは、ただ……」

「乃々さま」


 デルが、紅茶の湯気の向こうから、やさしく首を傾げる。瞳だけが、笑っていなかった。


「その瞳。美優さまへの、嫉妬が……にじんでおりますよ」


 胸が、ぎくりと跳ねた。


「ちがっ……!」

「それも、罪……」


 美優が声をかぶせる。柔らかく、楽しそうで、それでいて残酷なほど正確だった。


「そうよね。ずっとそう言ってきたものね。それと……“ボクは、強くならなきゃ”“守らなきゃ”。ねえ、それ、誰のため?」

「そ、それは、翔太くんの……」

「本当に?」


 カチン、とスプーンが鳴った。

 デルがティースプーンの背でカップの縁を一度だけ叩いたのだ。

 それが今の乃々には、“圧”として響く。


「乃々さま。弟さまを、お守りになれなかったのは……どなたでございましたか?」

「やめて……。わたしは……あの時、まだ子どもで……」

「子どもだから、許される?」


 翔太が、まっすぐに乃々を見る。


「“まだ子どもだったから仕方ない”って、自分で自分を赦したんだ?」

「ゆ、赦してなんか……ない!」


 乃々は叫んだ。

 椅子の脚がきしむ。けれど動かない。


「ずっと、あの日のこと……忘れたことなんか、一度も……」


 美優が笑った。紅茶色の睫毛がふるえ、唇の端がやわらかく持ち上がる。


「あらそう? “ボクは覚えてる。だから、ちゃんと反省してる。だから、許されるはず”って……どこかで、そう思ってなかった?」

「思ってない!」


 即座に否定した。

 でも、その速さが、自分でも怖かった。


 ほんとは、少し、思っていた。

 覚えていることが、罰になると信じたかった。

 忘れない自分は、優しい人間だと、どこかで信じたかった。


 その卑しさに気づいた瞬間、頬が熱くなる。羞恥と、悔しさと、情けなさがいっぺんに溢れ……。


 ERROR: GUILT_TRACE//START

 ECHO["Nono"] :: "やだ やだ やだ"


「ねえ、乃々ちゃん」


 美優の声は、ひどく優しい。


「あなたの優しさって、いつも“誰かの代わり”。弟くんの代わり。守れなかった誰かの代わり。救えなかった小さな手の代わり」


 美優は、そっと両手を開いて見せる。

 掌は空っぽだった。


「ほら。あなたは空っぽ。だから“ボク”になった。女の子をやめて、“強い役”を演じることにした。ヒーロー役を」


 翔太が続ける。


「“守る側”って、気持ちいいよね。いつも“守られる側”だった僕には、よくわかるよ」


 柔らかい笑顔で、刃物みたいなことを言う。


「守る側は、常に高い場所にいる。倒れそうな誰かを見下ろして、“大丈夫?”って。ねえ、それ、ちょっとだけ、気持ちよくなかった?」

「……っ」


 胸の奥で、何かがずぶりと刺さる。


「その情けなさを見下ろして。“自分は違う、ああはならない”と、胸の奥で安堵しなかった?」

「それは……」

「つまり俺を――」


 言葉が詰まる。

 その言葉を聞いた途端、背筋が冷たくなった。


 ERROR: SELF_CHECK

 ECHO["Nono"] :: "いやだ そんな 自分"

 LOKI> "でも それ きみ だよ"


「ねえ、乃々ちゃん」


 美優が、紅茶に砂糖を落とす。


「人を助けるって、気持ちいいよね」

「やめて」

「それが、あなたのご褒美だった。罰とご褒美。これは、セットなの」


 カラリ、とスプーンが回る。

 渦を巻く紅茶。砂糖が溶ける。


「弟くんを守れなかった自分を、“救う側”に据え直すことで、バランスを取ってきたのよね」

「違う、違う、違う……!」


 乃々は首を振る。

 ふと、頭上の曇天が紙みたいにめくれ、裏側の真っ白がのぞいた。

 その白の上に、文字が浮かぶ。


 ERROR: ACCESS-POINT//BREACH

 SIGNAL_LOKI::CONNECTED

 ECHO["Nono"] :: "違う ちがう ちがう"


「見えましたか」


 デルが、うっとりとした声で問う。


「あれは、ご自分の心の、ログでございます」

「ログ……?」

「記録だね」翔太が静かに言う。「君が自分で取ってきたログ。全部、“優しい自分”の証拠としてね」


 乃々は息を呑んだ。


「そんな……そんなつもりじゃ……」

「“つもり”なんて、どうでもいいのよ」美優が囁く。

「結果だけが、罪になる」


「乃々さま」デルが、ふわりと微笑む。

「あなたさまの“優しさ”は、すべて弟さまの墓標に供えるお花のようなものでございます。きれいに飾り立てて、罪を隠すための」

「隠してなんか――」

「隠しましたとも」


 デルの声が一瞬だけ低くなった。


「“ボク”という仮面で。女の子をやめたつもりで、じつは一番かわいそうな少女のまま、真ん中に座り続けておいででした」

「……ボクは、そんな……」


 言葉を失った。

 確かに――そうだ。男のように強くなろうとしてボクは女を捨てられなかった。

 だから髪の毛をこんなに伸ばして。

 ツインテールにまでして。


 その卑怯さに気づきたくなくて、ずっと目をそらしていた。


 ERROR: MASK_DETECTED

 ECHO["Nono"] :: "見ないで 見ないで"

 LOKI> ZOOM_IN++


「ねえ、乃々ちゃん」


 美優の声は甘い。紅茶なんかより、ずっと。


「あなた、“私なんて”って言いながら、心のどこかで“でも他の子よりはマシ”っていつも思ってた?」

「思ってないッ!」

「“あの子は弱いから”“あの子は逃げたから”“わたしは逃げなかった”――そうやって、心の中で順番をつけたこと」

「…………」


 認めたくなくて、なのに否定できなかった。


「でも、それは――」

「人間だから、ね?」


 翔太が微笑む。


「誰にでもある。僕にもある。美優にも、デルにも。もちろん、ロキにも」


 その名前が、さらりと出てきた瞬間――空気の色が、少しだけ変わった。

 静電気みたいなざわつきが、髪の毛の根元を撫でる。


「気にしなくていいよ」


 翔太の声が、なぜか頭の真上から降ってきた。

 いつのまにか、彼の位置が少し高くなっている。椅子ごと。


「席を、少しだけ替えよう」


 思わず自分の周りを見る。

 さっきまで四角かったはずのテーブルが、いつのまにか丸くなり、中心から外側へ向かって、椅子が階段状に配置されている。


 自分の椅子だけが、一段、低かった。


「ねえ、乃々ちゃん」


 美優が見下ろす位置になっていた。


「あなた、いつも“守る側の席”に座ってきたわよね。泣いてる子の隣。いじめられてる子の前」


 デルが、指折り数えるように言う。


「大人の代わり」「教師の代わり」「“正しい人”の代わり」

「でもさ」翔太が笑う。

「そろそろ、席を替わってもいいんじゃない?」

「……どこに」

「“裁かれる側”に」


 一瞬、呼吸が止まった。

 肺が、空のティーカップみたいに空洞になる。


 ERROR: ROLE_SWAP

 ECHO["Nono"] :: "やだ やだ やだやだ"

 LOKI> FORCE_APPLY = TRUE


「ほら。名札も、ちゃんと用意してある」


 視線を落とすと、自分の胸元の名札ノノが、ゆっくりひっくり返っていた。

 裏面は真っ白で――そこに、いつの間にか黒いインクで一文字だけ、浮かび上がる。


《ノ》


 もう一つの“ノ”は、ふと音もなく外れて、テーブルの上に落ちた。

 転がって、紅茶の中へ沈んで、溶けて、消える。


「片方だけで、じゅうぶんだよ」


 翔太が言う。


「“ノ”って、いいよね。“ノー”でもあるし、“拒絶”にも見える」

「でも、それを言えるうちが、まだ幸せなのです」デルが続ける。「これから乃々さまは、“ノー”すら奪われる席へお移りになる」


 ぞくり、と背筋が震えた。

 そして、なぜか――


「……軽く、なりたい」


 いつのまにか、そう呟いていた。

 胸が重すぎて、支えきれない。

 この罪悪感も、嫉妬も、汚さも、ぜんぶ、どこかへ置いていきたい。


「ね?」


 ふと、天井の向こうから声がした。

 男女の区別のない、幾つもの声が重なり合った“複声”。


──LOKI> 「やさしさとは、落ちるための滑らかな手すり」


 天井の模様が、また文字に変わる。


 ERROR: ACCESS-POINT//DEEP

 SIGNAL_LOKI::STABLE

 ECHO["Nono"] :: "軽く なりたい ……消えたい"

 LOKI> APPROVE = TRUE


「痛いの……もう嫌。責められるのも、自分を責めるのも……」


 乃々は、涙とも嗚咽ともつかない声で言った。


 ECHO: 「いいね。落ちやすくしておいたよ」

 ERROR: SELF_DENIAL ++

 ECHO["Nono"] :: "でも こわい こわい こわい"

 LOKI> //「怖いまま、落ちればいい」//


「大丈夫」


 美優が立ち上がって、乃々の背後に回る。

 その手が、そっと髪に触れた。


「もう、“ボク”じゃなくていい。強くなんてならなくていい。その代わり」


 耳元で、美優の囁きが落ちる。


「全部、差し出して。守れなかった弟くんも。救えなかった子たちも。本当は見下していた相手も」


 デルの声が重なる。


「そうでございます。『ノ』さま。“優しい自分”という宝物、“いい子”だという看板も、“ボク”という仮面」

「ぜんぶ僕らに預けてくれれば」


 翔太の指が、乃々の顎をそっと持ち上げる。


「君は、もう痛まなくていい」


 その首に薄い青のリボンが、きゅっと結ばれた。

 それは祝福の鐘のようで、首輪の留め金のようでもあった。


 ERROR: MIRROR//SYNC

 SIGNAL_LOKI::MERGE

 ECHO[SHOTA] :: ONLINE

ECHO[MIYU] :: ONLINE

 ECHO[DEL] :: ONLINE

 ECHO["Bride?"] :: "まだ こわい まだ いや"

 LOKI> "大丈夫。これはあがないだよ"


 紅茶の香りが変わる。砂糖ではなく、焦げたキャラメルの匂い。

 甘すぎて、喉が焼ける。


 ERROR: ROLE = SAVIOR → SACRIFICE

 ECHO["Nono"] :: "ゆるされる?"

 LOKI> "ううん――“赦されないまま”捧げるのが、一番きれいなんだ"


 どこかで、鐘の用意がされた気配がした。

 教会にあるような祝福の鐘。それは沈黙したままだった。

 その代わりに、世界の奥でノイズが走る。


 ピ――――……ガガ……ガ……ッ。


 歪んだ電子音が、祈りの代わりに鳴り始めた。これを聞き三人は言う。


「おめでとう」

「おめでとう」

「おめでとうございます」


 最後にデルが、深く一礼した。


 拍手の音が響く。

 三人分の拍手が、やがて増幅し、何十人、何百人もの拍手へと膨れあがっていく。


 乃々の胸元を見下ろすと――白い布が揺れていた。

 いつの間にか、ウエディングドレスをまとっている。

 ヴェールが額から頬へと流れ、視界を薄く覆う。

 胸元には、さっき結ばれた薄い青のリボン。


「きれいだよ、乃々」


 翔太が笑う。

 その笑顔は、少年のものでもあり、異形のものでもあった。


「さすがは、我が花嫁だ」


 そして。


──「おかえり、姫君」


 幾つもの声を束ねて一本にしたような、複雑な響き。

 優しくて、冷たくて、愉快そうで……。


 その声が響いた瞬間、重力の向きが変わる。

 床だと思っていた面が、壁へとスライドし、天井が足元へ来る。


 乃々の席だけが、黒い階段の下段へ向かって滑り落ちていった。

落ちながら、乃々は何も言えないでいる。


 ヴェールの向こうで、世界が群青色に染まった。

 その中に、ゆらゆらと光が浮かび上がる。


 一人目の影が、乃々の傍らに並んだ。


 青いドレスの少女。不思議の国のアリス。

 兎の代わりに、冷たい懐中時計を胸に抱き、無邪気な笑みで乃々の髪に触れる。


「迷子、だね」


 耳元で囁く声が、甘く笑う。


 別の影が、反対側に現れる。

 裸足の足に泡をまとった人魚姫。


「声を、あげなかった」人魚姫が言う。


 尾ひれの代わりに、透き通ったナイフの刃を持ち、その刃先で乃々のドレスの裾をなぞる。


「助けてって、誰にも言わなかった。……偉いね」


 三人目。

 シンデレラが、割れたガラスの靴を抱え、血のついた踵を気にするふうもなく微笑む。


「あなたも、合わない靴を無理に履いてきたのね。“守る側の靴”を。サイズが合わないのに、ずっと」


 次に白雪姫が、真っ赤な林檎を両手で支え、乃々の唇の近くへそっと寄せる。


「優しい人ほど、よく毒を飲むの。“私が飲めば、誰かが助かる”って思って」


 姫たちの指先が、次々とヴェール越しに乃々へ触れる。

 優しく、撫でるように。

 慰めるように。


 それは祝福なのに、




――どうしようもなく呪いだった。





 ERROR: FAIRYTALE//RING

 ECHO["Nono"] :: "ごめんね ごめん ごめん"

 LOKI> "謝る先 まちがってるよ"


 乃々は――笑わない。

 ただ、落ちていく。

 ただ、堕ちる。


 はじめは、目が虚ろだった。

 けれど、群青の闇が濃くなるにつれて。

 その瞳に、少しずつ、別の光がともる。


 羞恥が剥がれ、そこに罪悪感が砂のように貼り付く。

“優しさ”という言葉で自分を縛ってきた世界への。

 そして何より――自分自身への。


 唇が、きゅっと引き結ばれる。

 頬から、涙の痕が消える。


 乃々は、ゆっくりと顔を上げた。


 深い群青の中で、その瞳だけがはっきりと光る。

 永遠に折れない“罪の意志”だけが、邪悪さをともない宿っていた。

 乃々は、ヴェールの奥からまっすぐこちらを睨みつける。

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