第217話 殺戮の姫君より【堕】──花嫁の座
「あなたのその優しさ、少し違う色に見えるの。……ねえ、その罪を、だれかに告げられた?」
美優の声が落ちた瞬間、部屋のどこかで細いひびの入る音がした。
誰もカップを落としていないのに。
乃々は、こくりと喉を鳴らした。
「……罪、なんて」
やっとの思いで絞り出した声は、自分のものとは思えないほど薄かった。
「ボクは、ただ……」
「乃々さま」
デルが、紅茶の湯気の向こうから、やさしく首を傾げる。瞳だけが、笑っていなかった。
「その瞳。美優さまへの、嫉妬が……にじんでおりますよ」
胸が、ぎくりと跳ねた。
「ちがっ……!」
「それも、罪……」
美優が声をかぶせる。柔らかく、楽しそうで、それでいて残酷なほど正確だった。
「そうよね。ずっとそう言ってきたものね。それと……“ボクは、強くならなきゃ”“守らなきゃ”。ねえ、それ、誰のため?」
「そ、それは、翔太くんの……」
「本当に?」
カチン、とスプーンが鳴った。
デルがティースプーンの背でカップの縁を一度だけ叩いたのだ。
それが今の乃々には、“圧”として響く。
「乃々さま。弟さまを、お守りになれなかったのは……どなたでございましたか?」
「やめて……。わたしは……あの時、まだ子どもで……」
「子どもだから、許される?」
翔太が、まっすぐに乃々を見る。
「“まだ子どもだったから仕方ない”って、自分で自分を赦したんだ?」
「ゆ、赦してなんか……ない!」
乃々は叫んだ。
椅子の脚がきしむ。けれど動かない。
「ずっと、あの日のこと……忘れたことなんか、一度も……」
美優が笑った。紅茶色の睫毛がふるえ、唇の端がやわらかく持ち上がる。
「あらそう? “ボクは覚えてる。だから、ちゃんと反省してる。だから、許されるはず”って……どこかで、そう思ってなかった?」
「思ってない!」
即座に否定した。
でも、その速さが、自分でも怖かった。
ほんとは、少し、思っていた。
覚えていることが、罰になると信じたかった。
忘れない自分は、優しい人間だと、どこかで信じたかった。
その卑しさに気づいた瞬間、頬が熱くなる。羞恥と、悔しさと、情けなさがいっぺんに溢れ……。
ERROR: GUILT_TRACE//START
ECHO["Nono"] :: "やだ やだ やだ"
「ねえ、乃々ちゃん」
美優の声は、ひどく優しい。
「あなたの優しさって、いつも“誰かの代わり”。弟くんの代わり。守れなかった誰かの代わり。救えなかった小さな手の代わり」
美優は、そっと両手を開いて見せる。
掌は空っぽだった。
「ほら。あなたは空っぽ。だから“ボク”になった。女の子をやめて、“強い役”を演じることにした。ヒーロー役を」
翔太が続ける。
「“守る側”って、気持ちいいよね。いつも“守られる側”だった僕には、よくわかるよ」
柔らかい笑顔で、刃物みたいなことを言う。
「守る側は、常に高い場所にいる。倒れそうな誰かを見下ろして、“大丈夫?”って。ねえ、それ、ちょっとだけ、気持ちよくなかった?」
「……っ」
胸の奥で、何かがずぶりと刺さる。
「その情けなさを見下ろして。“自分は違う、ああはならない”と、胸の奥で安堵しなかった?」
「それは……」
「つまり俺を――」
言葉が詰まる。
その言葉を聞いた途端、背筋が冷たくなった。
ERROR: SELF_CHECK
ECHO["Nono"] :: "いやだ そんな 自分"
LOKI> "でも それ きみ だよ"
「ねえ、乃々ちゃん」
美優が、紅茶に砂糖を落とす。
「人を助けるって、気持ちいいよね」
「やめて」
「それが、あなたのご褒美だった。罰とご褒美。これは、セットなの」
カラリ、とスプーンが回る。
渦を巻く紅茶。砂糖が溶ける。
「弟くんを守れなかった自分を、“救う側”に据え直すことで、バランスを取ってきたのよね」
「違う、違う、違う……!」
乃々は首を振る。
ふと、頭上の曇天が紙みたいにめくれ、裏側の真っ白がのぞいた。
その白の上に、文字が浮かぶ。
ERROR: ACCESS-POINT//BREACH
SIGNAL_LOKI::CONNECTED
ECHO["Nono"] :: "違う ちがう ちがう"
「見えましたか」
デルが、うっとりとした声で問う。
「あれは、ご自分の心の、ログでございます」
「ログ……?」
「記録だね」翔太が静かに言う。「君が自分で取ってきたログ。全部、“優しい自分”の証拠としてね」
乃々は息を呑んだ。
「そんな……そんなつもりじゃ……」
「“つもり”なんて、どうでもいいのよ」美優が囁く。
「結果だけが、罪になる」
「乃々さま」デルが、ふわりと微笑む。
「あなたさまの“優しさ”は、すべて弟さまの墓標に供えるお花のようなものでございます。きれいに飾り立てて、罪を隠すための」
「隠してなんか――」
「隠しましたとも」
デルの声が一瞬だけ低くなった。
「“ボク”という仮面で。女の子をやめたつもりで、じつは一番かわいそうな少女のまま、真ん中に座り続けておいででした」
「……ボクは、そんな……」
言葉を失った。
確かに――そうだ。男のように強くなろうとしてボクは女を捨てられなかった。
だから髪の毛をこんなに伸ばして。
ツインテールにまでして。
その卑怯さに気づきたくなくて、ずっと目をそらしていた。
ERROR: MASK_DETECTED
ECHO["Nono"] :: "見ないで 見ないで"
LOKI> ZOOM_IN++
「ねえ、乃々ちゃん」
美優の声は甘い。紅茶なんかより、ずっと。
「あなた、“私なんて”って言いながら、心のどこかで“でも他の子よりはマシ”っていつも思ってた?」
「思ってないッ!」
「“あの子は弱いから”“あの子は逃げたから”“わたしは逃げなかった”――そうやって、心の中で順番をつけたこと」
「…………」
認めたくなくて、なのに否定できなかった。
「でも、それは――」
「人間だから、ね?」
翔太が微笑む。
「誰にでもある。僕にもある。美優にも、デルにも。もちろん、ロキにも」
その名前が、さらりと出てきた瞬間――空気の色が、少しだけ変わった。
静電気みたいなざわつきが、髪の毛の根元を撫でる。
「気にしなくていいよ」
翔太の声が、なぜか頭の真上から降ってきた。
いつのまにか、彼の位置が少し高くなっている。椅子ごと。
「席を、少しだけ替えよう」
思わず自分の周りを見る。
さっきまで四角かったはずのテーブルが、いつのまにか丸くなり、中心から外側へ向かって、椅子が階段状に配置されている。
自分の椅子だけが、一段、低かった。
「ねえ、乃々ちゃん」
美優が見下ろす位置になっていた。
「あなた、いつも“守る側の席”に座ってきたわよね。泣いてる子の隣。いじめられてる子の前」
デルが、指折り数えるように言う。
「大人の代わり」「教師の代わり」「“正しい人”の代わり」
「でもさ」翔太が笑う。
「そろそろ、席を替わってもいいんじゃない?」
「……どこに」
「“裁かれる側”に」
一瞬、呼吸が止まった。
肺が、空のティーカップみたいに空洞になる。
ERROR: ROLE_SWAP
ECHO["Nono"] :: "やだ やだ やだやだ"
LOKI> FORCE_APPLY = TRUE
「ほら。名札も、ちゃんと用意してある」
視線を落とすと、自分の胸元の名札が、ゆっくりひっくり返っていた。
裏面は真っ白で――そこに、いつの間にか黒いインクで一文字だけ、浮かび上がる。
《ノ》
もう一つの“ノ”は、ふと音もなく外れて、テーブルの上に落ちた。
転がって、紅茶の中へ沈んで、溶けて、消える。
「片方だけで、じゅうぶんだよ」
翔太が言う。
「“ノ”って、いいよね。“ノー”でもあるし、“拒絶”にも見える」
「でも、それを言えるうちが、まだ幸せなのです」デルが続ける。「これから乃々さまは、“ノー”すら奪われる席へお移りになる」
ぞくり、と背筋が震えた。
そして、なぜか――
「……軽く、なりたい」
いつのまにか、そう呟いていた。
胸が重すぎて、支えきれない。
この罪悪感も、嫉妬も、汚さも、ぜんぶ、どこかへ置いていきたい。
「ね?」
ふと、天井の向こうから声がした。
男女の区別のない、幾つもの声が重なり合った“複声”。
──LOKI> 「やさしさとは、落ちるための滑らかな手すり」
天井の模様が、また文字に変わる。
ERROR: ACCESS-POINT//DEEP
SIGNAL_LOKI::STABLE
ECHO["Nono"] :: "軽く なりたい ……消えたい"
LOKI> APPROVE = TRUE
「痛いの……もう嫌。責められるのも、自分を責めるのも……」
乃々は、涙とも嗚咽ともつかない声で言った。
ECHO: 「いいね。落ちやすくしておいたよ」
ERROR: SELF_DENIAL ++
ECHO["Nono"] :: "でも こわい こわい こわい"
LOKI> //「怖いまま、落ちればいい」//
「大丈夫」
美優が立ち上がって、乃々の背後に回る。
その手が、そっと髪に触れた。
「もう、“ボク”じゃなくていい。強くなんてならなくていい。その代わり」
耳元で、美優の囁きが落ちる。
「全部、差し出して。守れなかった弟くんも。救えなかった子たちも。本当は見下していた相手も」
デルの声が重なる。
「そうでございます。『ノ』さま。“優しい自分”という宝物、“いい子”だという看板も、“ボク”という仮面」
「ぜんぶ僕らに預けてくれれば」
翔太の指が、乃々の顎をそっと持ち上げる。
「君は、もう痛まなくていい」
その首に薄い青のリボンが、きゅっと結ばれた。
それは祝福の鐘のようで、首輪の留め金のようでもあった。
ERROR: MIRROR//SYNC
SIGNAL_LOKI::MERGE
ECHO[SHOTA] :: ONLINE
ECHO[MIYU] :: ONLINE
ECHO[DEL] :: ONLINE
ECHO["Bride?"] :: "まだ こわい まだ いや"
LOKI> "大丈夫。これは贖いだよ"
紅茶の香りが変わる。砂糖ではなく、焦げたキャラメルの匂い。
甘すぎて、喉が焼ける。
ERROR: ROLE = SAVIOR → SACRIFICE
ECHO["Nono"] :: "ゆるされる?"
LOKI> "ううん――“赦されないまま”捧げるのが、一番きれいなんだ"
どこかで、鐘の用意がされた気配がした。
教会にあるような祝福の鐘。それは沈黙したままだった。
その代わりに、世界の奥でノイズが走る。
ピ――――……ガガ……ガ……ッ。
歪んだ電子音が、祈りの代わりに鳴り始めた。これを聞き三人は言う。
「おめでとう」
「おめでとう」
「おめでとうございます」
最後にデルが、深く一礼した。
拍手の音が響く。
三人分の拍手が、やがて増幅し、何十人、何百人もの拍手へと膨れあがっていく。
乃々の胸元を見下ろすと――白い布が揺れていた。
いつの間にか、ウエディングドレスを纏っている。
ヴェールが額から頬へと流れ、視界を薄く覆う。
胸元には、さっき結ばれた薄い青のリボン。
「きれいだよ、乃々」
翔太が笑う。
その笑顔は、少年のものでもあり、異形のものでもあった。
「さすがは、我が花嫁だ」
そして。
──「おかえり、姫君」
幾つもの声を束ねて一本にしたような、複雑な響き。
優しくて、冷たくて、愉快そうで……。
その声が響いた瞬間、重力の向きが変わる。
床だと思っていた面が、壁へとスライドし、天井が足元へ来る。
乃々の席だけが、黒い階段の下段へ向かって滑り落ちていった。
落ちながら、乃々は何も言えないでいる。
ヴェールの向こうで、世界が群青色に染まった。
その中に、ゆらゆらと光が浮かび上がる。
一人目の影が、乃々の傍らに並んだ。
青いドレスの少女。不思議の国のアリス。
兎の代わりに、冷たい懐中時計を胸に抱き、無邪気な笑みで乃々の髪に触れる。
「迷子、だね」
耳元で囁く声が、甘く笑う。
別の影が、反対側に現れる。
裸足の足に泡をまとった人魚姫。
「声を、あげなかった」人魚姫が言う。
尾ひれの代わりに、透き通ったナイフの刃を持ち、その刃先で乃々のドレスの裾をなぞる。
「助けてって、誰にも言わなかった。……偉いね」
三人目。
シンデレラが、割れたガラスの靴を抱え、血のついた踵を気にするふうもなく微笑む。
「あなたも、合わない靴を無理に履いてきたのね。“守る側の靴”を。サイズが合わないのに、ずっと」
次に白雪姫が、真っ赤な林檎を両手で支え、乃々の唇の近くへそっと寄せる。
「優しい人ほど、よく毒を飲むの。“私が飲めば、誰かが助かる”って思って」
姫たちの指先が、次々とヴェール越しに乃々へ触れる。
優しく、撫でるように。
慰めるように。
それは祝福なのに、
――どうしようもなく呪いだった。
ERROR: FAIRYTALE//RING
ECHO["Nono"] :: "ごめんね ごめん ごめん"
LOKI> "謝る先 まちがってるよ"
乃々は――笑わない。
ただ、落ちていく。
ただ、堕ちる。
はじめは、目が虚ろだった。
けれど、群青の闇が濃くなるにつれて。
その瞳に、少しずつ、別の光がともる。
羞恥が剥がれ、そこに罪悪感が砂のように貼り付く。
“優しさ”という言葉で自分を縛ってきた世界への。
そして何より――自分自身への。
唇が、きゅっと引き結ばれる。
頬から、涙の痕が消える。
乃々は、ゆっくりと顔を上げた。
深い群青の中で、その瞳だけがはっきりと光る。
永遠に折れない“罪の意志”だけが、邪悪さをともない宿っていた。
乃々は、ヴェールの奥からまっすぐこちらを睨みつける。




