第216話 殺戮の姫君より【壊】──やさしさの色
第216話
空気が薄くなる。背中が椅子と一枚に張りつく。床の柄が遠ざかる。紅茶の表面に、小さな泡が一つ生まれ、はじけずに、沈んだ。
「違う!」と乃々は首を振る。振った回数だけ、世界がぶれる。「違う、違う。私じゃない。波が、悪い。風が。運が。あの時、誰かが――」
「あなたが、いなかった」と美優。「それが事実」
「乃々が、席を外した」と翔太。
「あなたさまが、嘘をついたからでございます」とデル。
重ねるごとに、テーブルの脚が一本ずつ消えるみたいに、均衡が変わる。乃々は視界の四隅を探した。出口はない。窓の外は、曇天の白で塗りつぶされ、紙の裏が透けたみたいに薄い。
「それでも」乃々は、ほとんど声にならない声で言う。「それでも私は、そのあと、ずっと……」
「救った」美優が微笑む。「そう。救ったわ。たくさん。いくらでも」
翔太が続ける。「救いは、気持ちがよい。だからこそ、罰になる」
「罰を甘く溶かして飲む方法を、人は“優しさ”と呼ぶことがございます」
デルは蔑視するように言った。
逃げられない椅子。動かない床。重ならない鼓動。
美優はゆっくりと腕を伸ばし、翔太の首の後ろに回した。二人の額が触れる。髪が混ざる。美優の指が、軽く髪を掬い、ほどく。うなじの産毛が立つ音まで、乃々には聞こえた。
(見ないで! 見たら壊れる)
弟の赤い服が、紅茶の底で揺れている。揺れながら、泡になって、裏返りながら数字になる。
BOOT> SAFE_MODE
SIGIL_SCAN…
ACCESS: GRANTED
PORTAL.INVOKE scope=LOCAL
SUBJECT: NKF-666/SHOTA
ECHO "Nono" :: "HELP"
ERROR: TRACE_DEPTH EXCEEDED
ERROR: GUILT_CONFLICT DETECTED
ERROR: SAFE_MODE OVERRIDE PENDING
「乃々さま」デルがそっと言う。「いまなら、まだお戻りになれます。“違う”と仰るだけで」
乃々は口を開いた。出てきたのは、違う、ではなく、空気の音だった。
「ねえ」美優が囁く。爪の先で、翔太の喉仏を軽く撫でた。そのたった一筋の動きが、部屋全体の温度を半度だけ下げる。「私たちの仲に嫉妬してるみたいだけど、そんな資格、あなたにあるの? だって大切なのは――」
美優の唇が、紅茶よりも赤く見えた。匂いは甘いのに、色は深く、冷たい。
ERROR: ACCESS-POINT//BREACH
SIGNAL_LOKI::CONNECTED
ECHO[YOU]: "SHALL WE PLAY?"
LOKI> INITIATE MEMORY REVERSE
ERROR: TRACE_LIMIT=∞
ERROR: YOU ≠ YOU
ECHO: "そのやさしさ、だれのため?"
ERROR: EYE_CONFLICT::SHOTA
ERROR: GUILT_OVERFLOW
ERROR: GUILT_OVERFLOW
ERROR: GUILT_OVERFLOW
LOKI> smile=True
LOKI> "赦しとは、いちばん静かな殺し方だよ。ねえ、ノノ。"
ERROR: LOOP_DETECTED
ERROR: LOOP_DETECTED
ERROR: LOOP_DETECTED
<EXTRA CODE: TRICKSTER> ERROR: PERSONALITY_SPLIT
L0KI> //「さあ、“助ける君”と“落ちる君”、どちらを残す?」//
「あなたのその優しさ、少し違う色に見えるの。……ねえ、その罪を、だれかに告げられた?」




