第215話 殺戮の姫君より【罪】──赦しの果てにある声
第215話
「そういえばさ――」
翔太が穏やかに紅茶をかき混ぜた。スプーンの音が、やけに高く狭い部屋に響く。
「乃々はいつも俺を助けてくれていたよね」
「……え?」
乃々は思わず頬が熱くなる。懐かしさが、ほんの少し嬉しかったからだ。
「教室でノートを投げられた日はさ。乃々が拾ってきてくれた」
「そうそう。投げた子に“やめなさいよ!”って怒ってね」美優が笑う。
紅茶の湯気が揺れ、音が波のように遠ざかる。
「他にも、たくさんあったわ」
美優がそっとカップを傾ける。
「体育倉庫に閉じ込められた時、あなた、モップで蝶番を外して翔太くんを出したでしょう」
「……覚えてる?」と翔太。「埃っぽい匂い。乃々の咳が止まらなかったあの日を」
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「傘を半分差した日も。掃除用具入れの針金を伸ばして鍵穴をこじった日も。靴の画びょうを先に見抜いて取り出したのも。保健室で氷を包んだタオルを首筋に当てたのも」
美優は指を折りながら、一つずつ置くように並べていく。
「廊下で突き飛ばされた時、寸前で腕を引いたのも――」
「階段の踊り場でございますね」デルが柔らかく微笑む。「あの日、乃々さまの靴先が、少し擦り減っておいででした」
乃々は吸い込んだ息の置き場を失った。
「まだあるよ」翔太が続ける。
「学級会で“ふざけるな”って言ってくれた。放課後に一緒に残って、配られなかったプリントを担任からもらってくれた。机を隣に寄せた日、俺のシャーペン、芯が折れてたのに君が笑って貸してくれた。――あの笑い方」
「優しいね」美優の声が少し震える。「……翔太くん、よく覚えていてくれたわね」
「当たり前だよ」
美優の髪が翔太の肩に滑り落ちる。距離が香りを混ぜ合うほど近い。
彼女は空いた手で、さりげなく翔太の胸元のボタンを正し、布越しに心臓の鼓動を一拍だけ数えた。
(え……?)
乃々の喉が、乾く。どうして。どうしてそんなことしてるの。
デルはその様子を見ながら、穏やかに頷いた。
「けれど、翔太さまをお守りしていたのは、乃々さまだけではございませんでしたね」
「え?」
「たとえば、熱で倒れた日」
美優が、自分の髪を巣のように翔太の肩へかぶせながら言う。
「私も翔太くんに保健室まで肩を貸した。手を握って、“水分とって”って言ってたね」
「そうだった」翔太が笑う。「氷枕も、君が替えてくれた」
「高学年になってからは、男子にだって喧嘩じゃ負けなくなった。翔太くんいじめるヤツら、私が叩きのめして」
「覚えてる。あいつら“海野が来たぞ、逃げろ”って。笑っちゃうよね」
「本当に笑っちゃう」
美優はそう言って、翔太の胸に頭をそっと預けた。
チクリ、と乃々の胸が傷む。
──そっか。そうだったんだ。
この二人は幼なじみ。ボクと出会う前から。ボクが小学校に転校してくる前から。
翔太くんを守っていたのは、おそらくこの子――海野美優。
(ボクだけじゃなかった……。思い上がってたんだ)
乃々の心に暗い影が落ちる。
自分に“過去”があるように、翔太くんにも当たり前に“過去”がある。
「あと、中学一年の時。中二前かな。やっと体が成長し始めて、一対一じゃ勝てなくなったら、今度は集団で来てさ」
「そうそう。男子って本当にバカよね」
「そいつらすら追い払ってくれたよな」
「まあね。あの時は近くに先生がいたから呼びに行っただけだけど」
「でも助かったよ」
「そう?」
「ありがとうな、美優」
(え……!?)
乃々の胸が跳ねた。
それは――その記憶って……。
(違う――それは私……)
記憶の輪郭が、砂に描いた線みたいに崩れていく。乃々は指先に力を込めた。
「雨の日の傘も」美優が目を伏せて笑う。「“風こっちから来るから、君が内側ね”って……翔太くん、優しい」
「いや、それ美優が言ったんじゃ――」
翔太が言いかけ、二人は顔を見合わせて笑う。
笑い声が、乃々には遠い波止場のサイレンみたいに聞こえた。
(違う! 違う! それもボクが翔太くんにしてあげたことなのに……なんで!?)
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美優はふと顔を上げ、紅茶の表面を覗き込むようにしてから、何気なく翔太の指へ自分の指を絡めた。
絡んだまま、一息だけ強く握る。解くとき、指の腹と腹が名残のように擦れ合う。
「上級生が“北藤が調子に乗ってる”って乗り込んで来たこともあったよね」
「そうそう。で、私のお父さん、その上級生の父親の上司だったから、すぐお父さんに連絡して」
「不良だから校則違反でさ。スマホ持ってきてたろ。俺の目の前で、父親に電話で怒鳴られてて。あれは傑作だったよ」
(それも私! どうして、どうして美優さんがやったことになってるの?)
そこでデルがポットを傾けた。注がれる音が、水面を歩くように軽やかで、不穏だった。
「ところで乃々さま、“ボク”と名乗るようになったのは、いつ頃でございましたか?」
乃々は答えられない。それどころではなかった。
「強くなりたかったのね」美優が言う。
彼女はそのまま翔太の鎖骨あたりに頬を置き、喉元の鼓動を耳で聴きながら、柔らかく微笑んだ。
「“私、女の子もうやめる! 強くならなきゃ”って思ったのよね。乃々ちゃん。“男の子のように強くなれば、私だって……”って。小四の頃だったかしら」
鼓動が収まらない。どうしてこの人が、そんなことまで知っているのだろう。
こんなこと、翔太くんにも言っていないのに。
乃々が口を開きかけた、その言葉を、美優が遮る。
「それもこれも、弟くんのためだったのよね」
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「そう。君は、弟を守りたかった」翔太の声は、深い底から湧いた。
乃々はうなずいたのか、首を振ったのか、自分でもわからない。唇が乾く。
「“あの日の海”での出来事でございましたね」デルの声は、波の引き際みたいにさらう。「防波堤の上――釣りで」
白い手すり、釣り糸、光の縞。乃々の視界が遠のく。
「……そう。あれは早朝。人影のない防波堤で。学校へ行く前。乃々は弟さんに“釣り竿、見てて”って頼んだ。すぐ戻るつもりで」
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「何のために?」美優の声は優しすぎて――怖い。
「……お菓子。百円しかなくて、乃々は弟の分を買えなかった。でも大好きなお菓子だったから、どうしても欲しかった。それに、弟にあげるのも、もったいないと思った。だから、自分だけ、こっそり食べようとした。弟さんには“宿題取りに戻る”って……嘘をついて」
「五分だけのはずだったのよね」美優が継ぐ。
「その間に、波が」デル。
「やめて……」
テーブルがかすかに浮いて、戻る。
紅茶の輪がカップの内側に二重三重と刻まれ、年輪のように増えた。
銀器が鳴き、部屋の空気が一枚、裏返る。
「戻ったら、弟くんはいなかった」美優が静かに言う。
「釣り竿ごと消えてて……海を見たら、赤い服が揺れてた。弟の赤。助けなきゃと思っても、足が動かなかった。怖くて……大人を呼びに行った。“助けて”って」
「大人は飛び込んだ」と翔太。
「でも、遅かった」と美優。
潮の匂いが、紅茶の奥から滲む。鉄と塩が混ざる。
「だから“ボク”になったのでございますね」デルが穏やかに告げる。
「男のように強ければ、弟を守れたはずだ、と。あの時、自分が男で、勇気さえあれば飛び込んで、手遅れにならずにすんだと。乃々さまはそうお考えになられました。そしておひとりで、その誓いを抱えた」
「……だから翔太くんを見て、亡くなった弟くんのように見えてしまった」
美優は寄り添ったまま、彼の髪を指で梳く。一本、二本、確かめるように数えてから、耳の後ろで指を止めた。
(見せつけないで……お願い……)
(違う。違うのに――)
「ねえ」
美優は翔太の胸に顔を預けたまま続ける。
「あなたが“守ってきた”と信じている優しさ、どこから始まったのかな」
「……弟の、ことがあったからだよな、乃々」
「つまり贖い、でございますね」とデル。
「乃々さまがどなたかを救おうとなさる時、必ず“あの日の赤”が背後に立つ」
「贖いなんかじゃない!」喉の奥で声が擦れた。
「廊下の角で、乃々は僕の前に立った」と翔太。「“ちょっとだけ”って、自分だけその場を離れた」
「……違う。違わない。違ってほしい」
「百円しか持っていなかったではございませんか」とデルが静かに告げる。
「弟さまの分は買えませんでした。だから乃々さまは“嘘”で席を外し、自分だけ甘いものを口に入れました」
「五分だけのつもりが、六分になった」美優。「波は、時間を足し算しないの」
「やめて……」
テーブルが、もう一度だけ浮いて、戻る。
銀のポットが極小に鳴いた。
「君は、その後で“ボク”になった」と翔太。「男の子みたいに強い名前。弱い声を隠せる一人称」
「その声で、何度も前に立ってくれた」と美優。「でもね、乃々ちゃん。前に立つたびに、あなたは自分の後ろへ、あの赤い影を置いていったの。見ないふりをして」
「見なかったのではございません」デルが首を振る。「見えないように、上から甘いものをかけ続けたのです」
乃々の舌に、砂糖のざらつきが蘇る。百円で買った安い焼き菓子の甘さ。
思い出の温度が、紅茶の温度を奪う。
「ねえ、乃々ちゃん」
美優はさらに翔太に身を寄せる。肩と肩が完全に重なり、二人の呼吸が一つの袋に収納される。
「あなたは翔太くんを“救った”。――救いながら、赦されようとした」
「違う。赦されたいなんて、思ってない」
「思っていないことにしないと、崩れてしまうからな、乃々は」
乃々の喉が、小さく鳴った。
カップの陰で、笑ってしまった自分の口元が、知らない人のものみたいに見える。
「でも――」
美優は顔をあげ、初めてまっすぐ乃々を見た。
その視線は、甘いのに、ひどく冷たい。
「でも、つまりは、弟を“殺した”のは乃々ちゃんなのよね」




