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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第215話 殺戮の姫君より【罪】──赦しの果てにある声

第215話


「そういえばさ――」


 翔太が穏やかに紅茶をかき混ぜた。スプーンの音が、やけに高く狭い部屋に響く。


「乃々はいつも俺を助けてくれていたよね」

「……え?」


 乃々は思わず頬が熱くなる。懐かしさが、ほんの少し嬉しかったからだ。


「教室でノートを投げられた日はさ。乃々が拾ってきてくれた」

「そうそう。投げた子に“やめなさいよ!”って怒ってね」美優が笑う。


 紅茶の湯気が揺れ、音が波のように遠ざかる。


「他にも、たくさんあったわ」


 美優がそっとカップを傾ける。


「体育倉庫に閉じ込められた時、あなた、モップで蝶番を外して翔太くんを出したでしょう」

「……覚えてる?」と翔太。「埃っぽい匂い。乃々の咳が止まらなかったあの日を」


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「傘を半分差した日も。掃除用具入れの針金を伸ばして鍵穴をこじった日も。靴の画びょうを先に見抜いて取り出したのも。保健室で氷を包んだタオルを首筋に当てたのも」


 美優は指を折りながら、一つずつ置くように並べていく。

「廊下で突き飛ばされた時、寸前で腕を引いたのも――」


「階段の踊り場でございますね」デルが柔らかく微笑む。「あの日、乃々さまの靴先が、少し擦り減っておいででした」


 乃々は吸い込んだ息の置き場を失った。


「まだあるよ」翔太が続ける。

「学級会で“ふざけるな”って言ってくれた。放課後に一緒に残って、配られなかったプリントを担任からもらってくれた。机を隣に寄せた日、俺のシャーペン、芯が折れてたのに君が笑って貸してくれた。――あの笑い方」


「優しいね」美優の声が少し震える。「……翔太くん、よく覚えていてくれたわね」

「当たり前だよ」


 美優の髪が翔太の肩に滑り落ちる。距離が香りを混ぜ合うほど近い。

 彼女は空いた手で、さりげなく翔太の胸元のボタンを正し、布越しに心臓の鼓動を一拍だけ数えた。


(え……?)


 乃々の喉が、乾く。どうして。どうしてそんなことしてるの。


 デルはその様子を見ながら、穏やかに頷いた。


「けれど、翔太さまをお守りしていたのは、乃々さまだけではございませんでしたね」

「え?」

「たとえば、熱で倒れた日」


 美優が、自分の髪を巣のように翔太の肩へかぶせながら言う。


「私も翔太くんに保健室まで肩を貸した。手を握って、“水分とって”って言ってたね」

「そうだった」翔太が笑う。「氷枕も、君が替えてくれた」

「高学年になってからは、男子にだって喧嘩じゃ負けなくなった。翔太くんいじめるヤツら、私が叩きのめして」

「覚えてる。あいつら“海野が来たぞ、逃げろ”って。笑っちゃうよね」

「本当に笑っちゃう」


 美優はそう言って、翔太の胸に頭をそっと預けた。


 チクリ、と乃々の胸が傷む。

 ──そっか。そうだったんだ。


 この二人は幼なじみ。ボクと出会う前から。ボクが小学校に転校してくる前から。

 翔太くんを守っていたのは、おそらくこの子――海野美優。


(ボクだけじゃなかった……。思い上がってたんだ)


 乃々の心に暗い影が落ちる。

 自分に“過去”があるように、翔太くんにも当たり前に“過去”がある。


「あと、中学一年の時。中二前かな。やっと体が成長し始めて、一対一じゃ勝てなくなったら、今度は集団で来てさ」

「そうそう。男子って本当にバカよね」

「そいつらすら追い払ってくれたよな」

「まあね。あの時は近くに先生がいたから呼びに行っただけだけど」

「でも助かったよ」

「そう?」

「ありがとうな、美優」


(え……!?)


 乃々の胸が跳ねた。

 それは――その記憶って……。


(違う――それは私……)


 記憶の輪郭が、砂に描いた線みたいに崩れていく。乃々は指先に力を込めた。


「雨の日の傘も」美優が目を伏せて笑う。「“風こっちから来るから、君が内側ね”って……翔太くん、優しい」

「いや、それ美優が言ったんじゃ――」


 翔太が言いかけ、二人は顔を見合わせて笑う。

 笑い声が、乃々には遠い波止場のサイレンみたいに聞こえた。


(違う! 違う! それもボクが翔太くんにしてあげたことなのに……なんで!?)


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 美優はふと顔を上げ、紅茶の表面を覗き込むようにしてから、何気なく翔太の指へ自分の指を絡めた。

 絡んだまま、一息だけ強く握る。解くとき、指の腹と腹が名残のように擦れ合う。


「上級生が“北藤が調子に乗ってる”って乗り込んで来たこともあったよね」

「そうそう。で、私のお父さん、その上級生の父親の上司だったから、すぐお父さんに連絡して」

「不良だから校則違反でさ。スマホ持ってきてたろ。俺の目の前で、父親に電話で怒鳴られてて。あれは傑作だったよ」


(それも私! どうして、どうして美優さんがやったことになってるの?)


 そこでデルがポットを傾けた。注がれる音が、水面を歩くように軽やかで、不穏だった。


「ところで乃々さま、“ボク”と名乗るようになったのは、いつ頃でございましたか?」


 乃々は答えられない。それどころではなかった。


「強くなりたかったのね」美優が言う。


 彼女はそのまま翔太の鎖骨あたりに頬を置き、喉元の鼓動を耳で聴きながら、柔らかく微笑んだ。


「“私、女の子もうやめる! 強くならなきゃ”って思ったのよね。乃々ちゃん。“男の子のように強くなれば、私だって……”って。小四の頃だったかしら」


 鼓動が収まらない。どうしてこの人が、そんなことまで知っているのだろう。

 こんなこと、翔太くんにも言っていないのに。


 乃々が口を開きかけた、その言葉を、美優が遮る。


「それもこれも、弟くんのためだったのよね」


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 SIGIL_SCAN…

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「そう。君は、弟を守りたかった」翔太の声は、深い底から湧いた。


 乃々はうなずいたのか、首を振ったのか、自分でもわからない。唇が乾く。


「“あの日の海”での出来事でございましたね」デルの声は、波の引き際みたいにさらう。「防波堤の上――釣りで」


 白い手すり、釣り糸、光の縞。乃々の視界が遠のく。


「……そう。あれは早朝。人影のない防波堤で。学校へ行く前。乃々は弟さんに“釣り竿、見てて”って頼んだ。すぐ戻るつもりで」


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「何のために?」美優の声は優しすぎて――怖い。

「……お菓子。百円しかなくて、乃々は弟の分を買えなかった。でも大好きなお菓子だったから、どうしても欲しかった。それに、弟にあげるのも、もったいないと思った。だから、自分だけ、こっそり食べようとした。弟さんには“宿題取りに戻る”って……嘘をついて」

「五分だけのはずだったのよね」美優が継ぐ。

「その間に、波が」デル。


「やめて……」


 テーブルがかすかに浮いて、戻る。

 紅茶の輪がカップの内側に二重三重と刻まれ、年輪のように増えた。

 銀器が鳴き、部屋の空気が一枚、裏返る。


「戻ったら、弟くんはいなかった」美優が静かに言う。

「釣り竿ごと消えてて……海を見たら、赤い服が揺れてた。弟の赤。助けなきゃと思っても、足が動かなかった。怖くて……大人を呼びに行った。“助けて”って」

「大人は飛び込んだ」と翔太。

「でも、遅かった」と美優。


 潮の匂いが、紅茶の奥から滲む。鉄と塩が混ざる。


「だから“ボク”になったのでございますね」デルが穏やかに告げる。

「男のように強ければ、弟を守れたはずだ、と。あの時、自分が男で、勇気さえあれば飛び込んで、手遅れにならずにすんだと。乃々さまはそうお考えになられました。そしておひとりで、その誓いを抱えた」


「……だから翔太くんを見て、亡くなった弟くんのように見えてしまった」


 美優は寄り添ったまま、彼の髪を指で梳く。一本、二本、確かめるように数えてから、耳の後ろで指を止めた。


(見せつけないで……お願い……)

(違う。違うのに――)


「ねえ」


 美優は翔太の胸に顔を預けたまま続ける。


「あなたが“守ってきた”と信じている優しさ、どこから始まったのかな」

「……弟の、ことがあったからだよな、乃々」

「つまりあがない、でございますね」とデル。

「乃々さまがどなたかを救おうとなさる時、必ず“あの日の赤”が背後に立つ」


「贖いなんかじゃない!」喉の奥で声が擦れた。


「廊下の角で、乃々は僕の前に立った」と翔太。「“ちょっとだけ”って、自分だけその場を離れた」


「……違う。違わない。違ってほしい」


「百円しか持っていなかったではございませんか」とデルが静かに告げる。

「弟さまの分は買えませんでした。だから乃々さまは“嘘”で席を外し、自分だけ甘いものを口に入れました」

「五分だけのつもりが、六分になった」美優。「波は、時間を足し算しないの」


「やめて……」


 テーブルが、もう一度だけ浮いて、戻る。

 銀のポットが極小に鳴いた。


「君は、その後で“ボク”になった」と翔太。「男の子みたいに強い名前。弱い声を隠せる一人称」

「その声で、何度も前に立ってくれた」と美優。「でもね、乃々ちゃん。前に立つたびに、あなたは自分の後ろへ、あの赤い影を置いていったの。見ないふりをして」

「見なかったのではございません」デルが首を振る。「見えないように、上から甘いものをかけ続けたのです」


 乃々の舌に、砂糖のざらつきが蘇る。百円で買った安い焼き菓子の甘さ。

 思い出の温度が、紅茶の温度を奪う。


「ねえ、乃々ちゃん」


 美優はさらに翔太に身を寄せる。肩と肩が完全に重なり、二人の呼吸が一つの袋に収納される。


「あなたは翔太くんを“救った”。――救いながら、赦されようとした」

「違う。赦されたいなんて、思ってない」

「思っていないことにしないと、崩れてしまうからな、乃々は」


 乃々の喉が、小さく鳴った。

 カップの陰で、笑ってしまった自分の口元が、知らない人のものみたいに見える。


「でも――」


 美優は顔をあげ、初めてまっすぐ乃々を見た。

 その視線は、甘いのに、ひどく冷たい。


「でも、つまりは、弟を“殺した”のは乃々ちゃんなのよね」

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